2023年03月08日

試練と希望 (あいりんだより2010年3月号)

試練と希望

「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマの信徒への手紙5:3-4) 

 わたしたちは、順風満帆に、あるいは敷かれたレールの上を何の問題もなく歩くように、生きていけたらどんなに幸せだろう,と思うことがあります。あこがれや羨望と共にそう思うとき、わたしは著名な臨床心理学者の次の言葉を思い起こします。「平凡な幸せな家庭を営んでいくのにも、それなりの努力が必要なのです。」

 3月になり、今年度の幼稚園生活も残りわずかになってきました。この一年間を思い起こしてみると、どの子にもその子なりの試練や危機がありました。大きくなっていくためには、少しずつでよいから自分でできるようにしていかなければならないこと、今はまだそれができないということや自分よりずっと上手にできる同年齢の友だちもいることを認めなければならないこともあります。ついわがままをしたり他人を傷つけるような結果になってしまった自分の行いを認めながらも、神さまが喜んでくださる生き方を模索していくべきことなど、それぞれに出会ったり乗り越えたりしながら、わたしたちは子どもたちと共に過ごしてきました。子どもたちも、それをどれほど自覚しているかは別としても、自分の人生を建設的に営んでいけるように、それなりの努力をしています。そして、わたしたち大人は、親も幼稚園の教職員も、その子の努力を適切に支援できるように学び、成長していきたいと思います。

 わたしたち人間は、適度な運動をして体に刺激を与えなければ、筋肉も骨も呼吸器も丈夫にはなりません。その鍛錬をすることは、時には苦しいこともあるでしょう。それは、わたしたちの心や精神についても言えるのではないでしょうか。

 わたしがかつてある相談機関で働いていたとき、ある母子が相談に来た時のことを思い出します。受付でその子どもは、お母さんとわたしを困らせようとするかのように「泣いちゃうぞ」と言ったのです。その時わたしは思わず吹き出してしまったのですが、その子の「泣いちゃうぞ」という言葉には、その子が家庭で日々どのような「問題解決方法」をとっているのかが象徴的に現われていると言えます。親はその子に泣かれるのがイヤだから、その子の泣きそうな状況をつくらないように先回りしてレールを敷き、それでもその子は自分の思い通りにならないと大声で泣いて親を困らせてワガママを通してきた姿が、わたしには目に浮かぶようでした。

 神さまはわたしたちにいろいろな課題(試練)を出してくださいます。時には子育ての上での課題も与えられます。時にはその課題が大きすぎるように思えたり、独りで担うのには重すぎると感じられたりすることもあるかもしれません。でも、冒頭の聖書の言葉のように、神はわたしたちを安易に生かそうとするのではなく、深く神と人に関わりながらわたしたちを生かし育てようとするが故に、わたしたちが乗り越えるべき課題を設定なさるのです。

 それでも時には重荷を降ろしたくなるかもしれません。そのようなときは、下記の聖書の言葉を思い起こして、神のお与えになった課題に向かって参りましょう。やがて「あの試練の時があったからこそ、今の豊かな時がある」と言えるときが来る希望を持って。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」(マタイによる福音書11:28-29)


posted by 聖ルカ住人 at 16:35| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする