新たに生まれる ヨハネによる福音書3:1-17 大斎節第2主日 2023.03.05
大斎節第2主日の聖書日課福音書には、ユダヤ教の教師であるニコデモが主イエスを訪ねた箇所が取り上げられています。
ニコデモのことを考える上で、人生の「二度生まれ(twice-born)」という考えを思い起こしてみましょう。
アメリカの哲学者・心理学者ウィリアム・ジェームス(1842-1910)によれば、「二度生まれ(twice-born)」とは、自分の人生に神の祝福が増し加えられることで救いに至るような直線的な生きることではなく、この世の人生における罪、破綻、挫折などから新たな人生へと生まれ変わって生きることを意味する言葉です。
ヨハネによる福音書第3章のはじめに記されているように、ニコデモはユダヤ議会の議員でした。サンヘドリンと呼ばれるこの議会は、大祭司を議長とする71人で構成されていました。政治と宗教が分離していなかった当時、サンヘドリンはイスラエルの最高議決機関であり、また裁判についても行政についても国の最高の執行機関でもありました。ニコデモはこのような議会のメンバーの一人であり、地位、名誉、実権ともに非常に高い人でした。
ニコデモはまたファリサイ派の一員でもありました。ファリサイ派の人々はイスラエルの民が神との間に結んだ約束である律法を、細かな点まで字句通りに厳格に守っていました。そして、自分たちは、律法を守れないような落ちこぼれとは分けられた者であり神の選びにふさわしい者であるという思いを強くしていました。また、「ファリサイ」とは「ペルシーム(分離した)」という意味の言葉に発した名称で、ファリサイ派の人々自身によってそう名付けられたとも言われています。
ニコデモは、おそらく自他共に、神によって用意されている祝福の人生を順調に歩いてきた人であると認めていたことでしょう。
このニコデモが主イエスを訪ねました。それは夜のことでした。明るい日中ではなく夜に主イエスを訪ねるニコデモのことを思い巡らしてみましょう。
例えば、私たちが誰かと旅行した時など、いつもとは違う場と雰囲気の中でお互いに心を開いて夜更けまで、語り合った経験のある方も多いことでしょう。ニコデモが夜主イエスを訪ねたことも、自分の深い思いを主イエスに語り合いたい思いがあったのではないでしょうか。また、日中に堂々とイエスを訪ねるのではなく目立たないように、夜になってそっとイエスを訪ねるニコデモを思うと、社会的に成功した人でありながら、自分でも捕らえられない不安や癒されない悩みや渇きかがあったのかも知れません。ニコデモは、自分でも掴みきれない心の暗闇を主イエスの前に開くことによって主イエスから具体的な導きを得たかったのかも知れません。
ニコデモは、ファリサイ派の知識人であり教師らしく、主イエスに対しても丁寧に話しかけました。
「ラビ(先生)わたしどもはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを誰も行うことが出来ないからです。」
言葉の限りでは、ニコデモの言うとおりです。でも、ニコデモは心を開いて主イエスと対話していく内に、主イエスのことを少しも分かってはいない自分を明らかにされてくるのです。これまでのニコデモは、いつも自分を正しい者として天の国を約束された者の側に自分の身を置いて生きてきました。そのニコデモには「人は新たに生まれなければ神の国を見ることは出来ない」という主イエスの言葉を理解することが出来ないのです。そして会話を通して浮き彫りにされてくるニコデモの姿は、これまで自分を正しい者の側に置いてそこからしか物を見ることの出来ない視野の狭さと鈍感さであり、言い換えれば、律法を盾にして自分を守り、律法を剣として人を攻撃しながら生きてきた自分の姿が明らかにされてきたのです。
ニコデモは幼い頃より立派な教育を受け、順調にこの世の成功の階段を昇ってきました。でも、このようなニコデモも主イエスにお会いして、主イエスと深く出会うと、自分の価値観は揺さぶられこれまでの自分は本当の自分だったのだろうか、と考えざるを得なくされていくのです。
主イエスは、そのようなニコデモは再び新たにされて生きる必要のあることを見抜かれたのでした。
主イエスはニコデモに言われました。
「人は新たに生まれなければ神の国を見ることは出来ない」。
この時のニコデモは、主イエスの言葉を理解できず、「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と応えることが精一杯でした。
ニコデモにはイエスの「新たに生まれる」という言葉についても、ファリサイ派的思考で字句通りにしか理解できなかったのでしょう。
でも、ニコデモは主イエスにお会いして、これまでの自分を揺さぶられ、生き方を深く問われ、主イエスが言われたように新しく生まれ変わる事を促され、自分が「新しく生まれ変わる」ことへと歩み始めることになるのです。
こうしたニコデモの人生は、私たちにとっても決して他人事ではないはずです。ここに描かれているニコデモは、信仰生活の途上にある私たちの生き方と重なるはずなのです。私たちの中には、誰も初めから完成した信仰を持っている人などいません。私たちはそれぞれに主イエスと出会った時があります。その時が喜びや励ましとなる場合もあるでしょう。あるいは、主イエスとの出会いが自分を否定されたり打ちのめされるような経験になることもあります。あるいは、ニコデモのように主イエスとの関わりによって自分の不信仰や不完全さを顕わにされることさえあるのです。時には、主イエスと関わらなければ味わうことの無かった辛さを味わったり、重荷を負わされるような思いになる時もあるかも知れません。でも、そのような自分であるからこそ、主イエスによって赦され愛されていることの気付きがあり、そこから更に本当の自分として神に生かされる事へと導かれる喜びが生まれてくるのです。ここに「人が新しく生まれる(二度生まれ:twice-born)」ということが起こるのです。
かつてのニコデモは、ユダヤ教の指導者として何不自由なく生きてきたようでありながらも、人目を避けて夜にこっそりと主イエスを訪ねるような弱さを抱えていたことが想像できます。でも、その後のニコデモは確かに変えられていくのです。
ヨハネによる福音書を読み進めていくと、このニコデモに関する記述が他に2度で出て参ります。
その一つは、ヨハネによる福音書7章51節からの箇所です。そこには、ユダヤ教の指導者たちが主イエスに対する偏見や誤解を先立たせている事についてニコデモは、しっかりと律法に立脚してイエスについての評価と判断を下すべきであると主張する姿が見られます。
この時ニコデモはユダヤ教の指導者(つまり仲間)たちから「あなたもガリラヤ出身なのか」となじられています。ファリサイ派の人々がイエスを排斥しよう、抹殺しようという思いを強めていく中で、ニコデモは主イエスこそ真理を表すお方であることを知り始めていたのではないでしょうか。
更に、ヨハネによる福音書19章には、主イエスが十字架におかかりになった場面が記されていますが、主イエスが十字架の上で死んだ時、ニコデモはもうかつてのように自分の立場を曖昧にしはしませんでした。ニコデモはアリマタヤのヨセフと共に主イエスの遺体を受け取り、新しい墓に自分の手でイエスの亡骸を納めたのでした。この行為は、自分がイエスの親しい仲間であることを公然と示すことです。かつて夜こっそりとイエスを訪ねたニコデモが、最後には十字架を通して示された主イエスの愛を確認し、自分が主イエスの仲間であることを人々の前で示すように変えられています。こうしてニコデモは、主イエスが自分の救い主であることを受け容れました。当時の状況を考えると、自分が主イエスの仲間だと公に示すことは、議会から追放されたり迫害を受ける可能性もありました。それにもかかわらず、ニコデモはイエスを自分の救い主であると公にしないわけにはいかなかったのです。
私たちは、聖書の言葉を通し、聖餐式を通し、また日々の祈りと交わりを通して主イエスに出会い、導かれています。その中で私たちもニコデモと同じように、主イエスによって導かれ養われるのです。私たちは古い自分を主イエスの十字架によって赦され、新しい自分に生まれ変わって生かされています。私たちは、初めのうちは昔のニコデモのようであったとしても、主イエスとの交わりに中で自分の生きる姿に気付かされ、主イエスに導かれて神との深く豊かな交わりへと導かれています。そしてやがてニコデモが公然と主イエスを自分の救い主として証したように、私たちも恐れなく力強く主イエスを証しする事が出来るように育まれていきたいと思います。
特に大斎節は主イエスの十字架と苦しみに心を向け、主イエスの甦りに与る準備をする時です。主イエスとの出会いと交わりを通して私たちも新たにされ、再び生まれて生きる喜びと感謝にあずかれますように。
(以下の動画は、当日の礼拝における福音書朗読と説教部分を切り取ったものです。)
2023 03.05 大斎節 第2主日説教 ヨハネによる福音書第3章1節-17節(小野寺司祭による) - YouTube