2023年03月30日

草花の生長と子どもの成長(あいりんだより2011年7月号)

草花の生長と子どもの成長

 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。 (コリントの信徒への手紙I 3:6) 


 上に記した聖書の言葉は、パウロが信仰の共同体である教会の成長について語っている言葉です。

 わたしは時間を見つけては聖堂脇の花壇やサツマイモの植えてある三角畑を見て回るのが大好きです。そして、植物の生長と子どもたちの成長には重なり合う点が多いことなどを思い巡らせています。

 植物の生長には段階があります。野生の植物は人間の手が無くても、季節に応じて自然に発芽して育ち始めます。人が種を蒔いたり苗を植えたりするのにも相応しい時期があり、その時期を逸せずに適した環境を与えれば、草花はその中で順調に育つはずです。草花にはそれぞれに固有の遺伝子があり、その働きによって相応しい時期に芽を出し、葉を付け、茎を伸ばし、花を咲かせ、実を着けます。人が適切に関わることで、草花のもつ秘めた固有の性質は目に見える姿となって現われ、わたしたちはその生長と開花、また結実を楽しみます。

 わたしたちにできることは、草花の生長と開花を願い環境を整えることであり、無理に茎や葉を引っ張ることはできないし、つぼみをこじ開けることもできません。草花の育ちに合わせて、必要な分量の水や肥料を与えたら、あとは草花自身にひそむ力によって生長するのを待つことが、人の仕事だと言えるでしょう。

 さて、人の成長を支援することは、植物を育てることととてもよく似た側面があります。人も動物も植物も神に創られた生き物だからでしょうか。

 人の成長の過程にも、それぞれの時があります。目と目を合わせ互いに心を通わせる時、柔らかな声で沢山の言葉をかけてあげる時、子どもの言葉をしっかり受け止めてオウム返しするように応答してあげる時、子どもが適切な言葉で自分の気持ちを表現できるように気持ちを向けて支える時、子どもの心に沿ってピタリとした言葉を語りかけるべき時、新しい物事に挑戦する子どもの勇気を支えて励ます時、他者を配慮した子どもの言動を認めて自覚化させる時、自分の中のエネルギーを適切にコントロールして表現するように子どもを方向付ける時、この世界の大切はことを伝えるために大人としての自分がしっかりと子どもと対峙する時等々、わたしたちは子どもの成長に沿って、急ぎ過ぎず、怠らず、関わり続けることが必要なのでしょう。

 現代は誘惑の多い時代です。子どもたちも例えばテレビ番組などから暴力や下品な情報の影響を受ける場合もあります。その時は、立派な花を咲かせて実を着けさせるためには脇芽を摘んだり不要な実を摘果するのと同じように、しっかりとした態度で子どもに向き合うことも必要になるでしょう。草花の病虫害の駆除は早期発見と早期対処が求められるように、他者に危害を加えたりた他者から危害を加えられないようにするために、大人として素早く適切な対処が必要になることもあるかもしれません。

 また、良いことだからと言って子どもに過度に負担になるほど勉学や習いごとを強いることなどは、肥料過多状況の植物に似て、かえって成長の負担や妨げになって、子ども自身が飽和状態に例えられるとも言えるでしょう。

 草花の生長は、毎日その日なりです。焦らず、怠らず、希望を持って開花や収穫を楽しむように、子どもの育ちについても日々を楽しみつつゆったりと落ち着いた家庭づくりを心がけることが求められているのではないでしょうか。もちろん幼稚園でも、教職員の資質向上をはじめ、子どもたちの成長に相応しい環境となれるよう努めて参ります。

 わたしたちを育ててくださる神の愛を子どもたちに具体的に注ぎ、子どもの成長に資することができることは、子どもに関わる者の大きな喜びです。その喜びは、草花の世話の喜びより遙かに大きいと言えます。

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2023年03月26日

復活であり命であるイエス   ヨハネによる福音書11:17-44  大斎節第5主日

復活であり命であるイエス   ヨハネによる福音書111744  大斎節第5主日 2023.03.26


 今日の聖書日課福音書より、ヨハネによる福音書第1125節の言葉を思い起こしましょう。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」

 私は、新約聖書の4つの福音書の中で、ヨハネによる福音書が一番分かり難いと思うのですが、その理由が幾つか考えられます。

 その一つは、他の3福音書が主イエスの教えと行いをその出来事の順に伝えているのに対して、ヨハネによる福音書は、例えばイエスがなさったしるし(奇跡)を記しながらそれにまつわるファリサイ派との論争やそれを通してイエスがどのような意味での神の子なのかということを明らかにする言葉などが続いており、ストーリーの展開よりもその議論の部分が多いことが挙げられます。

 また、もう一つその理由を挙げるとすれば、主イエスが語ってる言葉が、例えば「水」、「光」、「パン」など、主イエスがそのモノについて語っているうちにそれが比喩的、象徴的に用いられるようになり、その解釈をふくめて、内容を理解することに手間取る場合も多いからなのではないでしょう。

 ある聖書学者は、この神話を私たちの生活の脈絡の中に絶えず再解釈していかねばならないと言います。

 聖餐式聖書日課A年の福音書は、大斎節第2主日から第5主日まで、ヨハネによる福音書から、主イエスと出会って主イエスを救い主として受け容れてその信仰を公にするに至った人たちが取り上げられてきました。

 振り返ってみると、大斎節第2主日はユダヤ教の教師で議員のニコデモ、第3主日は水を汲みに来たサマリアの女、第4主日は生まれつきの盲人、そして今日は兄弟ラザロの復活に与ったマルタとマリアの物語です。

 私たちは、今日の福音書「ラザロの甦り」からメッセージを受けるに当たり、心に留めておきたいことがあります。その一つはここで主イエスが言っておられる「死んでも生きる」とか「いつまでも死なない」ということは、生物としての細胞が死なない事を意味しているのではないということ、もう一つは主イエスを信じることは肉体の不老不死を約束されているのではないということです。

 私は、今日の聖書日課福音書の箇所(ことに冒頭に思い起こした11:25の箇所)を読むと、いつも思い出す小さな文章があります。それは今から30年近く前にある教会の機関誌に掲載されていた若いお母さん信徒の文章で、要旨は次のようなことです。

 ある時、子どもが母親に不安そうに尋ねました。「ねえ、お母さん。私たちはイエスさまを信じているから死なないのでしょう?そうしたらおばあちゃんも死なないの?」子どもの唐突な質問に、母親が戸惑っていると子どもは話を続けます。お祖母ちゃんは年老いた上に病気になり、しかも体に痛みが走り、小さな子ども()の目から見てもお祖母ちゃんの体が日に日に弱っていくのが分かります。この子どもにはお祖母ちゃんがとても可哀想に思えます。このお祖母ちゃんがこのまま生き続けるのだとしたら、主イエスが「私を信じる者は決して死ぬことはない」と言っていることは、喜びではなく拷問でしかないように思えるのです。その一方、お祖母ちゃんが死ぬことは神から見放されることなのかとこの少女は悩みました。我が子がこのようなことを話してくれたことをきっかけに、その母親は、お祖母ちゃんはやがて神さまに迎えていただくことになり、痛みからも解放されて平安に迎えていただけることを話し、親子で心を通わせることが出来たということでした。

 この事例から考えてみると分かるように、マルタとマリアが「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と言っていることは、人の体がどんなによぼよぼになってもいつまでも生理学的に生き続けるべきだなどと言うことではありません。そうではなく、ラザロがこの世に生きた事全てが主イエスに受け容れられ、ラザロが主イエスをとおして神の御前に永遠に生きるということです。

 マルタとマリアには、自分の兄弟ラザロが臨終の時に主イエスがその場に居合わせなかったことはどんなに心細く辛く悲しかったことでしょう。それは、ラザロを看取ったマルタとマリアにとってばかりではなく、主イエスが共にいないまま死んでいくラザロにとっても同じでした。

 ヨハネによる福音書第11章1節には、ラザロは何か病気であったと記されています。当時、病気は本人なり先祖なりが犯した罪の結果が体に現れていることと考えられていました。そうであれば、ラザロの死は永遠の滅びを意味します。

 今日の聖書日課福音書は、主イエスのいない世界がいかに簡単に死に支配されてしまうか、しかも4日も経てば死の臭いが放たれ、ラザロは永久にその存在が失われることになることを伝えています。

 今日の福音書の中で、マルタとマリアがラザロの死を嘆き悲しむ様を見て、主イエスは「心に憤りを覚え(11:33)」たと記しています。主イエスは、ラザロのこの世での生涯が終わったことを憤っておられるのではありません。そうではなく、死がラザロと主イエスとの関わりをも過去のモノにしてしまうかのように人々に思わせていること、人々がイエスとラザロの関係もそこで途切れてしまったがのように考えてラザロを墓に納めてそれで終わりにしていること、そして人々をそのように向かわせる死の支配のことを主イエスは憤っておられるのでしょう。

 先主日、私たちは主イエスが生まれつき目の見えなかった人の目を開かれた物語から、主イエスが「この人の目が生まれつき見えなかったのは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人の現れるためである(9:3)」と言ってその人を癒やした箇所から学びました。このラザロの場合も同じで、主イエスは墓に納められたラザロを通して神のみ業を現す働きをなさるのです。

 神の大きな愛の前では死は無力であるはずです。それなのに、死は人々に神の愛を忘れさせ、人々は神の愛が死に対して無力であるかのように思い込んでいる様子がラザロを取り巻く人々には覗えます。

 私たちも自分が神から愛されていることを忘れ、神に愛されている自分を見失っているとしたら、たとえ生物としての命は生きていても神から与えられた掛け替えのない人としての命を生きているとは言えないでしょう。主イエスが憤っておられるのは、人を滅びへと向かわせる罪に対してであり、また死の前に無力になってただ嘆くしかない人々の不信仰に対してであったと言えます。

 主イエスはラザロの墓の前で大声で叫びました。

 「ラザロ、出てきなさい(11:43)」。

 すると、ラザロが墓から出てきました。ラザロは死の中に留め置かれるのではなく、主イエスによって新しく生かされています。ラザロの生涯は、墓に納められて終止符を打ったのではありません。ラザロは主イエスに覚えられ、愛され、祝されて、罪と死の定めから解き放たれて主イエスによって生かされています。

 主イエスは、「わたしは復活であり、命である(11:25)」と言っておられます。この言葉は「わたしは、たとえラザロが(あるいは誰であれ信じる者が)肉体的には死ぬとしても、その人を永遠に生かす力である」という意味です。そして、福音記者ヨハネは、「主イエスが、この世の人間を愛し抜いてくださり、この主イエスが神の愛の中に私たちを包み込んでくださって、私たちがこの世に生きた証を不滅のものにしてくださる」ということを伝えて、その信仰へと私たちを招いておられます。

 主イエスは、十字架の上にご自身を献げて、罪の内に死ぬほかなかった私たちを愛し抜いてくださいました。私たちは、主イエスの愛によって、死の先にまでなお神と結ばれて生きる恵みいただきました。その確かなしるしとして主イエスは甦り、私たちの先駆けとなってくださいました。

 私たちが自分中心に生きれば、私たちの命はこの世での死によって終わります。しかし、主イエスに生かされる命-つまり私たちをどこまでも愛し抜いてくださる神の力によって生かされる命-は、この世の死で終わりません。死を越えて墓の中からさえ私たちを立ち上がらせ、私たちは滅びることなく生かされるのです。

 主イエスは、主イエスによって現された神の愛に導かれ、主イエスが示してくださった復活の命をいただくことが出来るよう、信仰の道を-わたしたちが主イエスの愛にしっかりと結ばれて生かされている確信を-より深く堅固にすることが出来るよう主イエスに導かれて、歩んで参りましょう。

 そして、ご自身が甦って死の先の道を示してくださった主イエスのご復活の日を、喜びと感謝をもって迎えられるよう、私たちの信仰を確かなものとしていくことができますように。

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2023年03月21日

賜物を生かす(あいりんだより2011年6月号)

賜物を生かす

 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは、同じ霊です。 (コリントの信徒への手紙一 12 :4 ) 


 本園では毎週の職員会で、各クラスの動きとその中での子どもたちの様子について報告し合い、全教職員が全園児を把握しながら保育できるように努めています。

 入園、進級してほぼ2ヶ月経って、各クラスの報告で先生たちからよく出てくる言葉が「個性が見えるようになってきた」、「動きが大きくなってきた」ということです。

 私も、園長として子どもたちに関わりまた保育の様子を見ていると、子どもたちがそれぞれに自分の好きな遊びに打ち込むようになり、その分、友だちとの関わりも深くなり、そこで交わされる会話も次第に豊かになってきていることを感じ取ることができます。

 人は、子どもに限らず、安心して自分を表現できるときに、互いをよく知り合い、成長していくことができます。それぞれが違いのある個性豊かな存在であるからこそ、他の人との関わりは相互に良い刺激となり、影響を与え合い、その関わりが自分と相手の理解を深め、人として成長する糧となるのです。

 それぞれの個性は、神さまから与えられた賜物(プレゼント)です。私たちは、それぞれに神さまから与えられたそのプレゼントを大切にし合い、否定せず、十分に生かし合う環境を整えていきたいと思っています。それぞれの賜物を生かし合えるとき、そこには予想できなかったような発展や成長が観られることもあります。

 例えば、花の絵を描いている場面で、それぞれの捉え方、描き方ができているとき、子どもたちはそれぞれの違いから自分と他の人の捉え方や描き方の違いを学び、自分と他の人の理解を拡げまた深めることができます。一人ひとりの物事の捉え方や描き方の違いも、また、神さまがそれぞれの子どもたちに与えてくださった賜物なのです。

 私たち大人は、子どもたちに与えられているそれぞれに賜物を、能力の優劣の尺度で評価するのではなく、神さまがそれぞれの人に与えてくださった個性として捕らえ、その個性を豊かに育んでいきたいのです。

 あるとき、あまり口数の多くない子どものお母さんから「うちの子、もっとハキハキと色んな事を話せるようになったらいいのに。どうしたら良いでしょう。」と相談されたことがありました。その子は確かにおとなしい印象の子でしたが、しっかりと物事を理解して場に応じた動きのできる子でした。私はそのお母さんに「この子の賜物は、ハキハキと沢山話すことより、他人の話をしっかり聞いて着実に行動するところにあります。無理に沢山話させようとするのではなく、お母さんがお子さんの話を沢山聞いてあげてください。お子さんは沢山聞いてもらった経験をとおして、話す楽しさを経験すると同時に聞き上手になりますよ。」とお話しさせていただいたことがあります。

 神さまが私たちにお与えくださる賜物は実に様々です。神さまが与えてくださっている各自の賜物を互いに生かし合い、認め合い、共に神さまの子どもとして育っていくことができますように。


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2023年03月20日

御国が来ますように(あいりんだより2011年5月号)

御国が来ますように

  御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。(マタイによる福音書 6:10) 


 わたしたちは、毎日「主の祈り」を唱えています。朝の職員会で、子どもたちとの朝の集会で、この祈りを唱えない日はありません。この祈りの言葉は、上記のように聖書の中にあります。

 主イエスが弟子たちに「こう、祈りなさい」と教えた祈りです。

 「主の祈り」の中に「御国が来ますように」という言葉があります。この言葉は、「天の国が来ますように」と置き換えることも出来ますが、「神さまのお考えの世界が到来しますように」という意味です。

 日頃使われている「天国」とは、わたしたちが死んだら迎え入れられる世界のことなのかもしれませんが、イエスさまの教えによれば、「天 国」は行くところではなく、この地上に求めるもののようです。主イエスさまは、どこか特定の地域を区切ってその領土を天国にするのではなく、わたしたちが生きている、今、ここを、神さまのお考えが実現する姿になるように求めて祈りなさい、と教えておられるようです。

 そして、そのように祈り求めることとは、ただ座って目を閉じてこの言葉をお題目のように唱えることを意味するのではなく、その願いが実現するように、例え小さな事柄でも、具体的な行いにして表すことへと促されることを意味するのです。

 かつて、ある臨床心理学者が次のように言っていた言葉が印象に残っています。

 「一見平凡に見える家庭でも、それを維持するのにはそれなりの努力が必要なのです。」

 この言葉と重ね合わせて考えると、天の国はただ誰か他の人の手によって作ってもらう世界ではなく、わたしたちの小さな努力を積み重ねることによって実現していく側面も大きいことがよく分かるのではないでしょうか。

 わたしたち大人が子どもたちにかける何気ない言葉の中にも、時には叱って正しいことを教える中にも、家族で食事をする中にも、神さまが共にいてくださるのですから、わたしたちは、その時、その場が神さまの望む姿が現れ出るように、いつも小さな努力を重ねていくことが必要なのではないでしょうか。

 そのような環境の中で、自分を精一杯表現して生きる子どもたちの中に「天の国」の姿が現れ出てくるのです。

 風薫る季節です。子どもたちは幼稚園生活のリズムにも慣れて、心も体も伸びやかに育つ季節です。その成長が天の国の姿が現れ出ることにつながるよう努めて参りましょう。御国が来ますように。

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2023年03月19日

その人を通して主の業が   ヨハネによる福音書9:1-38  大斎節第4主日

その人を通して主の業が       ヨハネによる福音書9:1-38  大斎節第4主日  2023.03.19

   大斎節第4主日を迎え、大斎節も後半に入っています。

 今日の聖餐式の聖書日課福音書は、先々週はニコデモ、先週はサマリアの女、そしてこの主日は生まれつき目が見えなかった人の物語を取り上げ、それぞれ主イエスとの出会いを通して主イエスを救い主と信じるに至る事例を学んでいます。

 それぞれの人が主イエスが救い主であることを公に言い表すに至るのですが、当時のイスラエルの状況を考えると、そのように主イエスを救い主(メシア)であると告白することは、とても厳しい状況に立たされる可能性のある中でのことであったことを先ず心を止めておきたいと思います。

 今日の聖書日課福音書では、生まれつきの盲人が主イエスによって目が開かれたことで、当時のイスラエルの権力者たち罪人と決めつけられ、会堂から追放される様子を描き出しています。

 生まれつき目の見えない人が道端で物乞いをしていました。この人の前を主イエスと弟子たちが通り過ぎようとしています。この盲人に、イエスと弟子たちが話している声が聞こえてきたことでしょう。

 「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

 そう考えるのが当たり前の時代でした。この盲人は当然のように自分を罪人であると思い、罪の結果が、あるいは自分の先祖の罪が、自分の身に現れ出ているのだと考えていました。ところが、主イエスは弟子たちに、誰も予想していなかった事を教えておられるのです。

 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

 この盲人は、これまで「神の業が現れる」ことは神殿で働く位の高い人や学者たちが教えを説くことで起こると思っていたことでしょう。自分のように目が見えないのは罪の結果が体に現れ、神から受けた罰がこのような徴になっていると考えたことでしょう。盲人は自分でも自分を「罪人」とし、誰も見向きもしないような人間に「神の業が現れる」ことなど関係ないことだと思って生きてきたことでしょう。

 主イエスはこの盲人に近付き、唾でこねた泥をこの人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗うよう」にと言ってくださいました。唾でこねた泥を目に塗ることはその当時の目を癒す方法として行われていたようです。また、シロアムの池は、エルサレムの南端にある歴史的な人工の池です。ユダヤ教のしきたりに拠れば汚れからの回復を祭司が認定してその宣言を受けた人が清めの式を行う場所でした。しかし、この物乞いをする盲人は、主イエスに言われたとおり、直接シロアムの池に行って洗うと、見えるようになって帰っていきました。

 この物乞いをしていた元盲人にとっては、それで十分でした。

 ところが、イスラエルの権力者たち-ユダヤ教の指導者たち-は、目が見えるようになったこの人のことを喜びませんでした。彼らは、見えない人の目が開けてもそれを神の業とは捉えようとせず、目が開けた喜びを分かち合おうともしませんでした。なぜなら、主イエスがこの盲人の目を開いたのは安息日であり(14)、またこの盲人の目が開かれたのは、先ほど少し触れたように、ユダヤ教の細則や習慣に相応しいプロセスを経ていなかったのです。

 そのために、権力者たちやファリサイ派は、見えるようになったこの人を調べます。イスラエルの権力者たちは、神の救いに関する営みは自分たちの手の中にあり、その外にあってはならないと考えて、この人に関わります。目が開けたこの人には、イスラエルの権力者たちが主イエスの働きを理解しようとせず、起こった出来事を認めようとしないことがよく分かりました。自分の身に起きた救いの業の事実を曲げて彼らの言いなりにならない限り、権力者たちの追求は止まないことも、彼にはよく分かりました。そして事実とは違う権力者たちの言い分に「あなた方の言うとおりです」と言わなければ、この人を追求と糾弾が終わらないことも、この目の開かれた人にはよく分かりました。こうした関わりの中で、誰が目の見えない自分を憐れんで目を開けてくれたのかが一層はっきりしてきます。

 イスラエルの権力者たちにとり調べられている間、目を開かれたこの人は妥協せず、ただ率直に自分の身に起こった事実をありのままに話しました。しかし、権力者たちはこの人に向かって、イエスが律法に違反してこの汚れた男に関わったことに同意を迫り、イエスがこの人の目を開いた業は違法行為であると言わせるために様々な圧力をかけてきます。この人がそうした圧力に屈することなく、自分の身に起こった事実のみを語ることに苛立ちます。

 そして、目を開かれたこの人が「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです(33)」と答えたのをきっかけに、神殿の指導者たちはこの人を律法に相応しくない者と決めつけて、神殿から追放してしまうのです。

 「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか。(36)

 追放された後、この人は、主イエスにお会いし、自分の目で主イエスを見る時が与えられました。この人は自分の目で主イエスを見て、次第に自分を通して神の業を現してくださった主イエスを人の子(つまり救い主)であると信じるようになり、主イエスの前に跪く事へと導かれていきました。

 今日の福音書の物語をよく見ていくと、かつて盲人であったこの人が主イエスどのように理解していったのか、その変化を読み取ることができます。

 この人は、自分がどのようにして目が見えるようになったかを説明する時、11節で「イエスという方が・・・」と言っている事からも分かるように、この人にとってのイエスはまだ関係の薄い存在でした。それが、権力者たちに答えたりしていくうちに、17節では「あの方は預言者です」と言い、神の言葉を与る人でなければこうした働きはできないと言っています。

 こうした言葉にユダヤ教の指導者たちは次第に苛立ち始め、「我々はモーセの弟子だ。あのイエスという男はどこから来てどんな権威によってそのような働きをしているのか」と怒るように言います。しかし、目を開かれたこの人は、生まれつき目の見えなかった自分の目が開かれたのは本当のことであってこれまで誰もそのようにしてはくれなかったが、あのイエスという男は私の目を開いてくださったのであり、そうであれば「あの方は神のもとから来られた(933)」と言うのです。

 これによって、この男はユダヤ教の指導者たちからモーセの権威を蔑んだものとして神殿から追放されることになります。34節の「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」というユダヤ教指導者たちの言葉は彼らが自分たちの面目を保つのに躍起になって、この人の目が開かれたことを認めようとしない高慢な姿がみられます。また、この男を「外に追い出した」とは、単に建物の外で追い出したと言うことではなく、彼を神殿の交わりから追放したことであり、イエスによって目を開けられたこの人が迫害され、当時の社会での交わりを絶たれたことを意味する言葉なのです。

 主イエスは、目を開いたこの人が神殿から追い出されたことをお聞きになり、この人にお会いしました。この男は、耳でその声を聞いて自分の目に触れてくださったことでしか知らなかった主イエスを見て、その声を確かめます。

 そして主イエスの人の子(メシア)を信じるかという問いに、36節で「主よ、信じます」と信仰を告白し、主イエスの前に跪くことへと導かれています。

 今日の福音書の箇所は、目の見えなかったこの人が主イエスの前に跪く場面で終わっていますが、更に41節まで読み進めると、主イエスはファリサイ派の人々にこう言っておられます。

 「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

 主イエスが「見える」と言う時、視力があるかどうかを問題にしているのではく、神の御心を見る目があるか、霊的に見えているかを問うておられることは明らかです。そのような視点で権力者たちの言動を見てみると、彼らは、自分を正しい者の側、救われている者の側に置いて、物乞いをする盲人の目が開かれたことを喜びとせず、その人の目が見えるようになった事実さえ認めようとしていません。

 ユダヤ教の指導者たちは、その民を導き神の道を説く立場にありながら、自分を守ることに拘り続け、それ以外に「神の働きのしるし」を見ようとしませんでした。彼らは律法の細則に照らして人々を評価するだけで、盲人が見えるようになった事実を認めようとせず、目が開かれたその人を神殿から追放してしまいました。

 主イエスは、そうしたユダヤ教指導者たちの在り方を「『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と厳しく指摘しておられるのです。

 福音記者ヨハネは、主イエスが盲目の物乞いであった人を通して現わした神の業を伝えています。私たちも、この世の無理解や偏見、時には嫌がらせや迫害などに遭いながらも、主イエスに伴われ導かれて、本当のこと、正しいことへ向かい、そこから「主よ、あなたを救い主と信じます」と告白することへと招かれています。

 教会暦は、大斎節も後半に入り、主イエスの十字架へ、復活へと向かいます。私たちは主イエスによって信仰の目を開かれ、また「神の業」が自分を通して現れる器とされるように祈り求めて参りましょう。


(1) 2023.03.19 大斎節第4主日説教 ヨハネによる福音書第9章1節〜13節(小野寺司祭による) - YouTube

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2023年03月16日

前任地での卒園式 2023年3月16日

前任地での卒園式 2023.03.16
 一昨年の3月までの前任地であり、6年間園長を勤めた愛恩幼稚園(水戸)の卒園式に列席しました。
 今日卒園した多くの園児たちとは、彼らの年少時代の3月までの一年間を一緒に過ごしました。この子どもたちの入園式当時、日本中が新型コロナウイルス感染の対策にとても神経質になっていた時期でした。園では、3蜜を避けるために、入園児を3組に分けてそこに係の教職員がついて、園長(私)が各部屋をまわって歓迎のご挨拶をする形で入園式を行いました。この代の子どもたちは、臨時の休園日の多く、またマスク着用で3年間を過ごしてきました。
 私は、そのような時期だからこそ、当時の年少クラスの子どもたちとは特別に意識してスキンシップを心がけました。例えば、子どもを後ろから抱えて横揺らし(「大時計」)、前後揺らし(「飛んでいけー」)、向き合って両手を繋いでの逆上がり(「くるりん」)、椅子に座って子どもそれも時には3,4人を膝上に載せて、左右に急ハンドル、でこぼこ道、急発進急ブレーキなどの「ドライブあそび」等々を試みました。
 それから2年経った今日、私は、その子たちに会うのがとても楽しみでした。
 ある女児は体が一回りも二回りも大きくなってマスクのない笑顔の口元は乳歯がひとつ抜けています。聞けば、昨日の帰路に抜けたとか。卒園式の前日に、幼稚園生の子どもから一つお姉さんになって小学生になろうとする徴が口元に象徴的に示されているようで、微笑ましく、私も嬉しくなりました。また、ある男児は、その当時、上述の「大時計」や「飛んでいけー」を他の子としているのを見つけると、「ボクまだやってない!」と駆け寄ってきて列の中に割って入り込んで来たことなどを思い出しながらお別れの「大時計」をして、私も楽しみ、別れを惜しみました。
 今日は、あの日々が私にとっても貴重な日々であったことを確認することのできた、大切な一日となりました。子どもたちの前途に主の祝福と導きが豊かにありますように。 
posted by 聖ルカ住人 at 23:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年03月15日

傷みと苦しみを知る人の優しさと強さ (あいりんだより2011年4月号)

傷みと苦しみを知る人の優しさと強さ

 わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 (ローマの信徒への手紙 5 : 3-4 ) 


 新年度を迎えました。保護者の皆さまにはお子さまの入園、進級おめでとうございます。

 本年は、1ヶ月ほど前の3月11日に発生した太平洋東北沖大地震(東日本大震災)に起因する諸被害のため、多くの人が傷み、苦しみ、その辛さを抱えて4月を迎えたのではないでしょうか。仮に人的、物的な被災がなかったとしても、心に大きなダメージを受けている方も沢山おられるのではないかと拝察しております。

 今回の地震の後、私も教会の牧師として、ほんの少しではありますが、被災者に対する支援プログラムの構築とその調整に関わりました。その委員会の中には阪神大震災を現地で体験した方もおられましたし、今回の地震被災者もおられましたが、そのような方々は概して優しくかつ粘り強いのです。彼らは、自分の傷みを人々に関わる優しさに変え、自分の苦しい経験を他者と関わる上での粘り強さの糧としているように見受けられました。

 だからといって、わたしはこれ以上子どもたちに悲しい経験や苦しむ経験をさせればいいなどとは思いませんし、苦しい経験をすれば、それが必ず強さや優しさになるとも考えません。

 痛みや苦しみを優しさや強さに変えていくためには、傷ついたり悲しんだりしている子どものかたわらにいて寄り添い、見守り、支える存在が必要となります。

 子どもたちにとっては、「大丈夫、わたしが見ているから」、「あの時は辛いし、悲しかったね。あなたのその気持ちは、いつか傷みを知る優しさと強さになる日が来ますよ」と、ゆったりと、落ち着いて、坦々と子どもを支援する存在が必要なのです。

 実は、このことはこのような災害時にだけ適用すべき特別な支援の態度なのではありません。この態度は、日頃から子どもたちの成長を見守り支えようとする親、家族、教師、保育士などにとって、子どもに関わる基本的は態度なのです。また、こうした基本的な態度は、子どもたちだけではなく、わたしたち親や教師も含めたあらゆる人が他者と関わる時の大切な態度なのではないでしょうか。わたしたちは、大人でも「絶対的他者」と言うべきお方に見守られて、生きています。キリスト教保育ではこの絶対的他者である「神」を掲げ、「神」の御心をこの世界に示したイエス・キリストに導かれ、その守りと導きの中でわたしたちは子どもたちと関わっています。

 愛隣幼稚園は少人数の幼稚園です。わたしたち教職員は、子どもたちの目に見える行動だけではなく、一人ひとりの内的な世界も大切にして理解することを心がけ、子どもたちが日々経験することを一緒に味わいたいと思います。子どもたちの喜びや楽しさばかりではなく、悲しさや苦しさをも共にして、優しさ、強さ、心の豊かさを育んでいきたいと思います。周りの人の共感と受容を得ることで人は自分を保ち育てていきます。お互いに良い他者となり合い、優しさと強さを育み合いましょう。

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2023年03月13日

命の水を受ける  ヨハネによる福音書4:5-42  大斎節第3主日

命の水を受ける  ヨハネによる福音書4:5-42  大斎節第3主日  2023.03.12


 今日の聖書日課福音書は、主イエスとサマリア地方の女の人が出会い、言葉を交わし合ってる箇所が取り上げられています。今日の聖書日課福音書の箇所は聖餐式の中で拝読する箇所としてはかなり長い部分であり、また多くの内容が含まれています。今日はその中から特にこのサマリアの女が主イエスと出会って自分を取り戻していく様子に焦点を当てて振り返り、私たちもこの福音書から主イエスの導きを受けて生きるように歩ませていただきたいと思います。

 主イエスと弟子たちの一行は、旅の途中でサマリア地方を通りました。サマリアのシカルという町に来られた時、主イエスは旅に疲れ、町の井戸のそばに座って休んでおられました。時は丁度昼頃です。

 そこに、この地方の町に住むサマリアの女が水を汲みにやってきました。当時の人たちは、今の私たちのように水道設備が整った中で生活をしているわけではありませんでした。水汲みは、女の人たちにとって当たり前の日々の働きでした。でも、水汲みは朝か夕方の仕事であり、普通はこのように日中に水汲みをすることはないはずなのです。このような時刻に水汲みをするこの人には、そうしなくてはならない事情なり思いがあるのです。もしかしたら、この女性は、他の人たちを避けて、誰にも会わないで済むように、このような日中の時間をねらって水を汲みに来たのかも知れません。

 その当時、ユダヤ人とサマリア人は交際がありませんでした。その分裂を産み出したイスラエルの歴史を簡単に振り返ってみましょう。

 イスラエルは紀元前1020年の頃、それまでの部族連合から王国となり、紀元前1000年に即位したダビデの時代にその王国はエルサレムを中心にした統一した国になりました。ダビデの子であり後継者であったソロモンが死ぬと、紀元前922年にイスラエル王国は南北(北イスラエルと南ユダの国)に分裂してしまいます。その時に、北イスラエルでは南ユダ国のエルサレム神殿に対抗する形でゲリジム山を聖なる場所に定めて独自の礼拝をするようになっていきます。それから200年後の紀元前722年に、北イスラエル国はアッシリア帝国に占領され滅ぼされてしまいます、そして、多くのイスラエル人が捕虜となってニネベに連行されていきますが、アッシリアの王は、サマリア地方に他民族の人々を入植させ、その地で他民族の人の結婚するように強制されるものもあって、サマリア地方の人々は生粋のユダヤ人から激しく嫌われるようになります。ユダヤ人はサマリア人を軽蔑し、サマリア人のゲリジム山での礼拝を認めず、彼らを異端視するようになりました。サマリア地方はイスラエル全体のほぼ中央部であり、このように国を分断して国力をそぐことは支配する外国の王たちの策略でもあったのです。イスラエル中央部のサマリアの人々と、南部のユダヤ地方の人々は、いわば近親憎悪とも言える関係になっていました。

 主イエスは水を汲みに来たサマリアの女性に、静かに声をおかけになりました。「水を飲ませてください。」

 サマリアの女は驚き戸惑って主イエスに尋ねます。「どうしてユダヤ人であるあなたが、サマリアの女である私に水を飲ませてくださいなどと頼むのですか。」

 こうして主イエスとサマリアの女の間に会話が始まります。その中で主イエスは言われました。「あなたと話している私が誰であるかを知っていたら、あなたの方から私に生きた水を求め、私はあなたにそれを与えるでしょう。」

 サマリアの女はこの言葉を聞いてもその意味が分からず、初めのうち二人の会話はすれ違い、イエスに応じるこの女性の言葉は的はずれでした。でも、二人の会話を通して主イエスの言葉は次第にこの女の心の奥深い思いと触れ合っうようになります。

 このサマリアの女は、過去に5人の夫を持ち、今は夫とは呼べない男と連れ添う身でした。主イエスには、そのような女の人が自分に向けられる周りの人の視線や罵りの言葉を避けるために、昼日中にこっそりと水を汲みに来る思いが痛いほど分かったのでしょう。

 主イエスは更に言葉を続けます。「こうしたサマリアの女であるあなたも私たちユダヤ人も、何の区別も差別もなく心を一つにしてありのままの自分を神にお捧げして礼拝をする時が来ている。今がその時なのだ。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」と、主イエスはこのサマリアの女に言うのです。そして「今あなたの目の前でこうして話しているこの私が救い主なのだ」と言っておられます。

 こうしてこのサマリアの女は「生きた水」である主イエスと出会い、本当のありのままの自分に気付き、自分を取り戻し、喜びと感謝を持って神を礼拝する者へと変えられていくのです。

 私たちも、誰もが皆、このサマリアの女のように、心の内に飢え乾く所があります。自分を人目につかないようにそっとその渇きを満たしたくなるし、渇きを潤したいと思ってしまいます。でも、私たちが自分の力だけで自分を癒そう、満足させようとした時、多くの場合ますます独りよがりになったり、自分の本当の気持ちとはかけ離れた事までしてしまい、ますます神の御心から離れ、他の人とのズレや壁を厚くしてしまうのです。このサマリアの女も、ユダヤ人からはサマリア人として差別され、同じサマリア人からはまともに生きられない女として蔑まれ、いつの間にかまともに人と目を合わせて会話することもなく生きるようになっていたことでしょう。こうした生活の中で心を固くして独りで自分を守る他なかった人が、主イエスに出会い、主イエスとの対話によって、疑いと頑なな心が解きほぐされ、癒されて、自分の本心に触れ、次第に自分を回復していくのです。

 このサマリアの女が自分を取り戻して生きていくためには、主イエスによって受け容れられることが必要でした。同じサマリア人からさえ汚れた女として除け者にされてしまうようなこの人から、主イエスは水を飲もうとしました。この女は主イエスに声をかけられた時、戸惑いの中にも、自分を認めてくださったこのお方に心を動かされたに違いありません。そしてそればかりではなく、主イエスがこの人の全てを知っておられ、しかも自分でも隠しておきたい過去があるにもかかわらず、主イエスはそのことをもよくご存知の上でこの人を蔑むことなく、「あなたと共に一つの神に礼拝する時が今来ている」とまで言ってくださるのです。このようにして主イエスによって自分が生きていることを受け容れられ、慈しまれて、初めてこのサマリアの女は自分を取り戻して生きることが出来るようになっていきます。

 イスラエルの民とサマリアの人々が互いに相手を敵視して心を頑なにする状況の中で、主イエスは双方の人々が共に神を礼拝することへと導いておられます。主イエスがこの女の人に「生きる水」を与えようと言われた水は、乾ききって頑なになった人の心を溶かして育む命の水であると言えるでしょう。

 今日の聖書日課福音書で、主イエスは、私たちもこのサマリアの女と同じように、主イエスのお与え下さる交わりの中に生かされ、主イエスとの対話の中で御言葉に導かれて生きるように招いておられます。

 このサマリアの女性は、はじめのうちは他の人々に会うことを避けていましたが、主イエスと出会って、水瓶をそこに置いたまま町の人々の中に入って行って、自分に命の水を与えてくださった主イエスのことを人々に伝えるようになりました。そして、多くの人が彼女の語ったことによって主イエスを信じるようになりました。自分が主イエスによって救われていることを人々の前で証することによって、サマリアのシカルの町には主イエスを救い主と信じる人々がたくさん生まれています。シカルの町の人々は、この女性が生まれ変わった体験を聞くことをきっかけにして、更に実際に主イエスと出会い、伝えられて信じる段階から実際に主イエスに出会って信じる事へとその信仰を確かなものにしていきます。そして、正統な礼拝は、エルサレム神殿かゲリジム山の聖所かと言う次元を超えて、つまり民族の違いを超えて、すべての人がどこにいても主イエスの名によって心を一つにして礼拝をすることへと導かれていきます。

 私たちも、今、主イエスを記念するこの礼拝に招かれ集っています。主イエスのみ言葉と聖餐を通して育まれ、導かれ、心の奥底から新しくされて、喜んで人々に主イエスを証していく者へと育まれていきましょう。

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2023年03月08日

試練と希望 (あいりんだより2010年3月号)

試練と希望

「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマの信徒への手紙5:3-4) 

 わたしたちは、順風満帆に、あるいは敷かれたレールの上を何の問題もなく歩くように、生きていけたらどんなに幸せだろう,と思うことがあります。あこがれや羨望と共にそう思うとき、わたしは著名な臨床心理学者の次の言葉を思い起こします。「平凡な幸せな家庭を営んでいくのにも、それなりの努力が必要なのです。」

 3月になり、今年度の幼稚園生活も残りわずかになってきました。この一年間を思い起こしてみると、どの子にもその子なりの試練や危機がありました。大きくなっていくためには、少しずつでよいから自分でできるようにしていかなければならないこと、今はまだそれができないということや自分よりずっと上手にできる同年齢の友だちもいることを認めなければならないこともあります。ついわがままをしたり他人を傷つけるような結果になってしまった自分の行いを認めながらも、神さまが喜んでくださる生き方を模索していくべきことなど、それぞれに出会ったり乗り越えたりしながら、わたしたちは子どもたちと共に過ごしてきました。子どもたちも、それをどれほど自覚しているかは別としても、自分の人生を建設的に営んでいけるように、それなりの努力をしています。そして、わたしたち大人は、親も幼稚園の教職員も、その子の努力を適切に支援できるように学び、成長していきたいと思います。

 わたしたち人間は、適度な運動をして体に刺激を与えなければ、筋肉も骨も呼吸器も丈夫にはなりません。その鍛錬をすることは、時には苦しいこともあるでしょう。それは、わたしたちの心や精神についても言えるのではないでしょうか。

 わたしがかつてある相談機関で働いていたとき、ある母子が相談に来た時のことを思い出します。受付でその子どもは、お母さんとわたしを困らせようとするかのように「泣いちゃうぞ」と言ったのです。その時わたしは思わず吹き出してしまったのですが、その子の「泣いちゃうぞ」という言葉には、その子が家庭で日々どのような「問題解決方法」をとっているのかが象徴的に現われていると言えます。親はその子に泣かれるのがイヤだから、その子の泣きそうな状況をつくらないように先回りしてレールを敷き、それでもその子は自分の思い通りにならないと大声で泣いて親を困らせてワガママを通してきた姿が、わたしには目に浮かぶようでした。

 神さまはわたしたちにいろいろな課題(試練)を出してくださいます。時には子育ての上での課題も与えられます。時にはその課題が大きすぎるように思えたり、独りで担うのには重すぎると感じられたりすることもあるかもしれません。でも、冒頭の聖書の言葉のように、神はわたしたちを安易に生かそうとするのではなく、深く神と人に関わりながらわたしたちを生かし育てようとするが故に、わたしたちが乗り越えるべき課題を設定なさるのです。

 それでも時には重荷を降ろしたくなるかもしれません。そのようなときは、下記の聖書の言葉を思い起こして、神のお与えになった課題に向かって参りましょう。やがて「あの試練の時があったからこそ、今の豊かな時がある」と言えるときが来る希望を持って。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」(マタイによる福音書11:28-29)


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2023年03月06日

「世界一」の子育てを   (あいりんだより2010年2月号)

「世界一」の子育てを

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」 (コリントの信徒への手紙Ⅰ 3:6 ) 

 子育てはなかなか私たち大人の思い通りにはいかないものです。私たち大人に出来ることは、子どもに内在している「育つ力」が現れ出るように支援することではないでしょうか。

 それでは、子どもの「育つ力」を支援するとは、どうすることでしょう。それは、「我が子」にとって「世界一の親」になることであり、私たち幼稚園の教職員としては子どもたちの「世界一の先生」になることです。

 「世界一」と言っても、オリンピックのような勝敗をつける競技で世界の頂点に立つことではなく、時に半歩下がって子どもの見守り役になり、時に半歩先に進んで子どもの良きお手本になり、また時には子どもと一緒になって子どもの気持ちを共感する人になって、子どもにとっての「最も大切な人」になることなのです。

 私たちは、どんなに高価な外食も3日も続けば飽きてしまいますが、お母さんの作る味噌汁は毎日だって飽きません。和やかで温かな会話のある食卓は、何にも勝る子育ての場であって、それは各家庭でその子にとって「世界一」の場となるでしょう。私が小学生の頃、『うちのママは世界一』というテレビ番組がありました。その内容は別として、どの子どもにも「うちのママは世界一」、「ボク(わたし)の幼稚園は世界一」という経験をして欲しいと思います。それは、モノの豪華さにおける世界一ではなく、子どもの経験の質や深さとしての「世界一」なのです。子どもの経験の質やその深さは、何かの出来事での体験が、大切な人と分かち合われて共感されるときに、本物となります。私たちは、日頃、子どもたちとどのような言葉をどれだけ交わし合い,心を通わせているでしょうか。

 子どもにとっての「世界一」とは、必ずしも子どもの物的な要求を何でも直ぐに満たしてくれる存在のことではありませんし、いつまでも赤ちゃん扱いして幼いままに留めさせる存在のことでもありません。かといって、子どもを叩いたり叱りつけたりすることでの「世界一」などと言うのもいただけません。なぜなら、子どもは多くの場合、叩かれれば「なぜ叩かれたのか」などと考えるより、叩かれたこと自体が心の傷になってしまうからです。また、子どもは、叱られたときも、大人が叱ったその内容に反応するより、叱る人の感情に反応することが明らかだからです。

 冒頭に掲げた聖書の言葉のように、「育ててくださるのは神」です。私たち大人に出来ることは、子どもの成長する力をしっかりと見据え、そこに肯定的かつ積極的に反応してあげることです。これさえ出来れば、子どもにとって「うちのママは世界一」であり、食育、知育、体育などそれぞれの事柄はそのバリエーションに過ぎません。そのバリエーション部門でも、例えばお料理、会話、生活習慣等々でも、ぜひ「世界一」の子育てをしていきましょう。神さまからいただく金メダルを目指しましょう。 (あいりんだより2010年2月号)

posted by 聖ルカ住人 at 13:47| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする