2023年02月23日

読書の秋 -「本が好き」の土台作り-  (あいりんだより2009年10月号)

読書の秋 -「本が好き」の土台作り-

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネによる福音書第1章1節)

 既に秋分の日も過ぎ、日中より夜の方が長い季節になりました。「読書の秋」です。子どもが童話や絵本の名作に触れながら、やがては読書好きで知的センスの高い人間に育ってくれたら、と多くの人が思います。わたしもそう思います。でも、不思議なもので、大人が子どもを「読書好きの人に育てよう」などと意気込むと、子どもはかえってそれに反発したり本嫌いになったりすることも多いようです。子どもが本好きになる前提とは何でしょうか。

 近年、子どもの成長を阻害するメディア環境が問題になっています。この問題は子どもの読書環境をも駆逐していますので、少しその点に触れておきたいと思います。

 本来、人間の声は小さく柔らかです。一方、テレビやテレビゲームなどのメディアから流れ出る音声は、人間(ことに赤ちゃん)の聴覚にとって鋭く刺激的です。私たち人間の聴覚は、幼い頃から母親をはじめとする人間の声と結びつき、その音声(声やことば)を聞き取れるようにその神経回路を強化してきました。ところが、現代の溢れ出るメディアの音声は幼子が本来強化されるはずの人間の声や自然の音(風や水の流れ)をキャッチする能力を育むことを阻害しているのではないかと考えられています。人が人の声を聞き分けて選び取る能力の素晴らしさについては、一度録音テープにとった音声を聞き直すと、周囲の物音がいかに多くまた大きいかという事などを手掛かりに分かります。人は小さいときから、人の声を選択して聞き分ける能力に磨きをかけていることが想像できます。またこうした能力は聴覚ばかりでなく、視覚や触覚をはじめ味覚にまで言えることであり、現代はこうした人間の感覚が危機にさらされていることを指摘する人も増えています。

 こうした環境の中で、母子を中心とした柔らかで穏やかな感覚刺激を得られないままメディアに犯されて乳幼児期を過ごした子どもたちは、その中で脳にたたき込まれた破壊的な擬音語や場にそぐわない乱暴な言葉遣いをその意味もよく分からないまま用いて他者とのつながりをつくろうとすることになります。でも、一生懸命に生きる子どもであっても、もし成長していく上での土台(母子を基本とした信頼関係)がつくられないままであったとしたら、子どもたちは多くの人々の集まる場で建設的な社会関係を作っていくことがどんなに難しいことになるのかは容易に想像できます。

 さて、本好きの土台も上記のことと関連しています。家庭でも日頃から、テレビ、ビデオ、テレビゲームなどのメディアに頼らず、親の肉声により語り聞かせや絵本の読み聞かせを親子で楽しめているか、子どもが自分の経験を落ち着いて話せるように子どもの心に寄り添って話しを聴いて受け止めているか、メディアのペースに拠ってではなく親子のペースで絵本を読み進められているか等々が、子どもが本好きになることの土台と言えるでしょう。

 ある著名な童話作家は、「子どもが10歳になるまでは、親が名作を沢山読み聞かせてあげてください。ただし本の感想など子どもに求めないでください。本当の感動は子どもの言葉の域よりずっと深いから言葉にならないのです」と言っていました。

 絵本や童話の名作は、わたしたちを心の深い領域に案内してくれます。読書は実際に経験できないことを追体験させてくれますが、そのときに信頼できる大人が傍らにいて物語を共有してくれることで、子どもは読書での体験を自分のものにしていくのです。その事は、子どもたちが勇気や正義感を獲得したり、感情の幅を広げたりしていくことにも繋がるのです。

 こうした土台ができてくれば、読み書きの練習開始が遅くても、もっと物語の世界に触れたい子どもは時間を惜しんで本を読むようになるでしょう。そのような本好きこそ根っからの本好きと言えるのではないでしょうか。

頭と体を育て鍛える秋にしたいですね。その基本はしっかりとした親子の心のつながりです。(あいりんだより2009年10月号)

posted by 聖ルカ住人 at 16:00| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

食欲の秋に向かって (あいりんだより2009年9月号)

食欲の秋に向かって

 自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(マタイによる福音書6:25)

 今夏の研修会の中で、わたしにとって一番インパクトが強かったのは、現代の子どもたちにとって人間関係を創り上げていく環境がいかに損なわれているかということの学びでした。

 食の環境においても、家庭で手作り料理を食べない(食べる機会がない)子どもが増えているとのこと。独りで食事をする子どもも増えています。かつて独りで食事をすることを「孤食」と記しましたが、今はそのように食事をする立場を擁護するかのように「個食」と記すようになったとか。

 わたしはキリスト教の司祭であり、その大事な勤めの一つに聖餐式(ミサ)の司式があります。聖餐式は誰も会衆がいない時には聖書を拝読して終わりとなり、「個食」のミサは成立しません。ミサを共にする信徒が司祭の他に少なくとも一人いる時、つまり人と人との間にいる神によって養いを受ける関係が成立している時にのみ、ミサが行わるのです。これはわたしたちの食事の原型でもあります。食事とは栄養を得るだけではないきわめて宗教的かつ社会的営みであることを覚えたと思います。

 また現代は、人間にとって最初の食事と言える授乳にも食環境の危機が見られます。生まれたばかりの赤ちゃんは、ただ栄養源としての乳を摂取するだけではなく、母親との視線を含めた交わりの関係の中で母乳を飲むのです。人間の赤ちゃんは授乳の時、他の哺乳動物とは異なり、一定のリズムで乳を飲む作業に休みを入れ、じっと母親の顔を見ます。それは乳を与えてくれる母親と乳を飲む自分の両者を確認する作業なのです。そうであれば、お母さんが赤ちゃんに乳を与える時に携帯メールをしたりテレビを見たりしていては、赤ちゃんの人間関係を創りだす基本的な第一歩が損なわれることになるでしょう。こんなところにも個食の危機があることを覚えたいと思います。

 授乳の時に赤ちゃんを胸元に抱いて、優しい眼差しと柔らかな声でゆったりと赤ちゃんに関わることが望まれます。これが赤ちゃんにとっての食生活の始まりです。赤ちゃんは早い時期から哺乳瓶を両手で持てますが、寝ころんだ赤ちゃんに哺乳瓶を持たせるのではなく、できるだけだっこして授乳させ、目と目のコミュニケーションを大切にしたいものです。

 さて、このように食の基本が「心を通わす」ことと深く関わることであれば、幼稚園生時代の子どものいる皆さんにもにも、食欲の秋に向かってご家庭でも是非心がけていただきたいことがあります。

 食事の時にテレビやゲームの画面は消して対話を心がけてください。食事中はメールや電話も控えましょう。手作りの料理を心がけ、仮に総菜などを買った場合にもひと工夫して手作り料理に変身させると良いでしょう。食材と栄養にバランスの良い食事を心がけてください。仮に子どもが一人で食事をするような時にも、孤食にならないように、お母さん(家族)は同じテーブルでお茶などを共にして、子どもの話し相手になってください。これらのことが「当たり前」と考えていただければ幸いです。

 内実のある食欲の秋をすごせますように。

(あいりんだより2009年9月号)

posted by 聖ルカ住人 at 15:53| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする