2023年02月19日

主イエスに聞き従う      マタイによる福音書第17章1-9 大斎節前主日

主イエスに聞き従う      マタイによる福音書第17章1-9  大斎節前主日     2023.02.19

 教会暦では今週の水曜日から大斎節に入ります。大斎節は古くから復活日に洗礼を受ける人々の準備の時とされ、また既に洗礼を受けている人々にとっては自分の信仰を吟味し克己修養する時とされてきました。今週の水曜日から主日を除く40日間を私たちは大斎節として過ごし、ことに大斎節の後半では主イエスの十字架の苦難を思い、その先に復活日を迎えることになります。

 大斎節に入る直前の主日には、聖書日課福音書としていわゆる「主イエスの変容貌」の物語が取り上げられています。

 その物語の中から、マタイによる福音書第17章5節の言葉をもう一度思い起こしてみましょう。

 「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け。」 

 主イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子を連れて山に登りました。山の上で、主イエスのお姿は彼らの見ている前で白く目映く輝き、主イエスはそこに一緒にいたモーセとエリヤと何かを話しておられました。やがてその3人を覆った雲の中から神の声がしました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け。」

 この物語は、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に採り上げられており、しかも、どの福音書でも主イエスのご生涯を大きく2分する転換点にこの物語が位置づけられています。

 主イエスの御生涯を大きく二つに分けてみると、前半は主イエスがガリラヤ地方を中心に病人を癒し悪霊を追い出し人々に教えを説いて目覚ましくお働きになった部分、そして、後半はエルサレムに上って行って十字架に架けられて死にそして復活なさる部分になり、その転換点にこの「変容貌」の記事があります。

 ガリラヤでの宣教の働きを始められる時、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。その物語がマタイによる福音書第3章13節からにありますが、その中で、主イエスが洗礼を受けて水から上がられた時に天が開け、次のような言葉がありました。マタイによる福音書第3章17節です。

 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

 この言葉は、マタイによる福音書の中に2度用いられています。一つは主イエスが洗礼をお受けになった箇所の中であり、もう一つは先ほども読んだとおり、いわゆる変容貌の物語の中で、主イエスが山の上で白く目映く輝いてモーセとエリヤと語り合いやがて一同が雲に覆われている時にこの声がしました。その時、主イエスが洗礼をお受けになった時と同じ言葉がありました。

 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。そして変容貌の物語の方では、更に「これに聞け」という言葉が続いていてます。

 初めにこの声があった時は、主イエスが洗礼をお受けになった時であり主イエスさまの宣教が開始される時でした。そして2度目にこの声があったのは、今日の聖書福音書の個所である主イエスの変容貌の時であり、それは主イエスの宣教の後半が始まる時でした。

 ここから始まる主イエスの公生涯の後半は、人の目から見て決して華やかではなく、むしろ逆で、ガリラヤから従ってきた多くの人たちが主イエスから離れていき、その一方で当時の社会を動かす権力者や指導者たちからの弾圧が一層強くなり、エルサレムに向かう主イエスの苦しみや困難が増し加わってくることになります。また、そればかりではなくエルサレムに上った主イエスは、最後には十字架につけられ、まるで敗北者であるかのような姿を人々の前にさらしながら死んでいく事になるのです。主イエスは、そうなることもすべて承知の上でエルサレムに向かって行こうとしておられるのです。

 主イエスは当時の律法の規定を犯してまで重い皮膚病の人に関わって清め、宗教的な習慣を破ってまで病人や身体の不自由な人々を癒し、貧しい人々や虐げられている人々に生きる希望を与えて下さり、多くの民衆の支持と尊敬を受けました。前半部のそのような働きにもかかわらず、ユダヤ教指導者たちの教えと対立する主イエスは、次第に当時の権力者から憎まれ、恨まれ、一時は熱狂的にイエスを支持した人たちからも見捨てられ、排斥されるようになっていきます。多くの人が主イエスの許から去っていく中で、主イエスの歩みは十字架へと向かっていきます。

 このような人々の動きを見てみると、多くの人が一時は主イエスの素晴らしさに目を見張り自分もその恩恵にあやかろうと近付きますが、その中の殆どの人は主イエスに従っていくことに尻込みし、当局の弾圧を恐れて、いつの間にか主イエスの許から離れていってしまいます。

 先ほど、主イエスが洗礼をお受けになった時の天からの声と、変容貌の出来事の時にあった天からの声が同じであることに触れましたが、変容貌の時にはその言葉に付け加えて「これに聞け」という言葉が付け加えられています。「聞く」という言葉は、日本語でもそうですが、例えば「お母さんの言うことを聞きなさい」と言えばただ「耳で聞く」という意味だけではなく、「聞き従う」という意味があります。この箇所でも、天の声は3人の弟子たちに「神の子イエスに聞き従いなさい」と教えているのであり、「イエスの歩んでいく道にあなたがたも従って行きなさい。これがわたしの愛する子であり、この子が歩む道がわたしの心の通りなのだから」と招いておられるのです。

 この世の成功か失敗かの測りで見れば、主イエスの生き方は経済的に豊かになっていくわけでもないし、権力を自分の手中に収めていくわけでもなく、エルサレムでの最期に向かって次第に厳しさが増し、緊張感が高まってきます。

 そのような状況の中で主イエスは神の御心に聞き従い通します。そして、天の声は弟子たちに主イエスに聞き従うようにと告げています。

 ご自分の命をかけるまでに主なる神の御心に聞き従い通す主イエスには、一つの確信がありました。それは、神に信頼し神に希望を持ってその御声に聞き従う者を神は決して見捨てることはないし、例えそのことによって自分が死に渡されるようなことになっても、神は必ず死を超えて再び自分を立ち上がらせてくださるという神への信頼でした。そして、人々が罪から解き放たれて神と結び合わされて生きることができるようになるためには、主イエスが十字架のうえに死ぬことの他に選択肢はないということでした。

 主イエスは、エルサレムに上っていけば、ご自分に十字架の死がやってくることがよく分かっておられました。それでも、主イエスは神に全てを委ねて、死を超えたその先に消えることのない希望があることを信じて、エルサレムに向かって歩み出します。変容貌の物語は、このような苦難の先に人の力では創り出すことの出来ない栄光がある事をここに先取りして描き出しています。

 そのように歩み出す主イエスは、この信仰の中に弟子たちをも招いておられます。「これに聞け」と言う天の声は、主イエスに従っていきなさいという意味です。それは、ただ私たちが自分を押し殺していたずらに死へと向かうように歩むことではありません。それが神の御心だと信じるのなら、失敗や挫折や自分の限界を超える困難の先に、神は尽きない喜びを与えてくださることを約束してくださっているのだから、厳しい今を主イエスに導かれて歩みなさいということです。私たちは、主イエスのどこに神の子の輝きを見ようとするのでしょう。

 私たちは十字架の死の先にある復活を希望とし、復活をお与え下さる神に信頼して大斎節を迎え大斎節を過ごしたいと思います。この水曜日に始まる大斎節を信仰の養いと導きの時とし、主イエスに従い甦りの命にあずかる信仰を確かなものに出来るよう、共に祈り求めましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 05:52| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする