2023年02月12日

 My聖書のすすめ

 教会で、一同で聖書を開く機会が少ないと、聖書の並び順を知っておきたいという思いも湧かないのかもしれません。そのような状況の中でも、いや、そのような状況だからこそ、旧約新約をあわせた一冊の自分の『聖書』をお持ちになり、主日礼拝にも是非その聖書を持参することをお勧めします。

 日本聖公会では日本聖書協会発行の1954年版新約及び1955年版旧約を合わせた『聖書』、『聖書-新共同訳(旧約聖書続編付1987年版』、『聖書-聖書協会共同訳(旧約聖書続編付(2018年版)』が公の礼拝で用いられるように認許されています。

 毎主日の聖餐式で拝読される聖書日課(旧約、使徒書、福音書)箇所は決まっていますので、多くの教会では礼拝中の煩雑さを避けるために聖書箇所を抜き出して印刷したり、『特祷・聖餐式聖書日課集』(ABC年別)を用いたりして礼拝しています。そのために一冊の『聖書』をあちこちのページを開く機会が少ないのではないでしょうか。

 今から20数年前のことになりますが、「聖書の順番を覚えましょう」という録音テープをつくり教会員に配布したことがありました。教会のオルガニストと歌唱の上手な信徒の方にお願いして「鉄道唱歌」のメロディにのせて幾度も演奏していただき、その一つを幾つもダビングしたのです。

「創、出、レビ、民、申命記、ヨシュア、獅子、ルツ、サム、列王、歴代、エズ、ネヘ、エステル記、ヨブ、詩、箴言、コヘレ(伝道)、雅歌。イザヤ、エレ、哀、エゼキエル、ダニ、ホセ、ヨエ、アモ、オバデヤ書、ヨナ、ミカ、ナホ、ハバ、ゼファ、ハガイ、セゼリヤ、マラキ、39」

「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、使徒、ロマ、コリント、ガラテヤ書、エフェソ、フィリ、コロ、テサロニケ、テモ、テト、フィレモン、ブライ書。ヤコブ、ペトロⅠⅡの書、ヨハネ3巻、ユダ、黙示、新旧両約合わせれば聖書の数は66。」

 上記は新共同訳準拠です。「鉄道唱歌」を知らない人は「友だち賛歌」のメロディでどうぞ。

 このテープ作りをしている時、言葉とも言えぬ言葉が歌われるのを(プロデューサーとして)脇で聴いていると、私の中に不思議な感覚が生まれてきました。

 これら旧・新約66書の『聖書』の順番は、厳密に史実を古い方から並べているわけではありませんが、その全体は主なる神がこの世に働きかけてこられた壮大な歴史絵巻のタイトルがズラッと並んでいるように思えてきなのです。そして、聖書を読むと言うことは、この大きな神の救済史を意識して、その中のどの箇所を読んでいるのかを頭の片隅においてそのメッセージを受けることなのだという考えが生まれてきたのです。

 例えば、主日の聖餐式で、旧約聖書、使徒書、福音書の聖書日課を読み、旧約聖書には詩編の言葉で応答するすることも、聖書全体の中のどの部分からみ言葉を受けているのか意識することで、その主日のメッセージの意味はよりハッキリしてくると思えるのです。

 そう考えると、読まれていない部分も含んだ分厚い聖書を手にして当日の日課を読み(或いは聴き)メッセージを受けることはとても大切なことであると言えるでしょう。

 聖書を読む時、その箇所の前後関係を意識しながら読むことが大切です。説教の中でも、時に当日の日課の範囲を超えて流れや同じ語句が用いられている箇所を実際に聖書を開いて確認したいことがあります。その意味でも私は「日課集」や抜き刷りではなく、実際に「My聖書」を手に礼拝することをお勧めしたいのです。

 自分の本なら、その中に書き込みをしたり線を引いたりすることもできます。自分の本であっても礼拝用書専用にして書き込みはしたくないという人がいれば、是非2冊をお持ち下さい。

 『聖書-新共同訳』が発行され、それに応じるように『日課集』が発行された当時、教役者の会合である老司祭が『日課集』を「こんなくだらないもの作って・・!」と苦々しい表情で言っておられたことを昨日のことのように思い出します。

 『日課集』は公の礼拝での朗読には便利ですが、一冊の聖書を開く機会を減らしたという意味で私はその老司祭に賛成です。

 管区では祈祷書改正の作業も進んでおり、数年後には祈祷書が改訂されます。その時には『聖書-聖書協会共同訳』が用いられるようになるでしょう。いずれにしても主日礼拝にも『My聖書』持参の習慣をつけましょう。

(東松山聖ルカ教会教会通信『マラナ・タ』2023年2月号)

posted by 聖ルカ住人 at 23:19| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

律法の完成のために  マタイによる福音書第5章21-24、27-30、33-37

律法の完成のために    マタイによる福音書第5章21-2427-3033-37  顕現後第6主日 2023.02.12

 主イエスは、ガリラヤ地方の小高い山で、弟子たちをはじめとする大勢に人に話しておられます。いわゆる「山上の説教」です。その話は、聴く人々の心の中に強い印象を残します。貧しい人々や悲しむ人々の幸いを説き、更には主イエスの名によって生きるが故に迫害される人々の幸いを説きました。

 主イエスの話は、まるで旧約聖書の教えを否定しているかのように聞こえたり、その時代には奇抜な話として受け取る人も多かったことでしょう。

 でも、主イエスは、今日の聖書日課福音書の直ぐ前の箇所で、「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」と言っておられます。

 それに続く今日の聖書日課福音書の箇所は、主イエスが律法と預言者(つまり旧約聖書)が示す神の御心をどのように完成するのかについてを伝えている箇所であると言えるでしょう。

 主イエスは、第5章21節から48節までの中で、今日の聖書日課福音書に採り上げられている3つの事柄を含め、旧約律法の中から6つの事柄を採り上げて、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は・・・と命じられている。しかし、わたしは言っておく。・・・・。」という形式で、どのように旧約聖書の約束を完成するのかということを展開しておられます。

 つまり、主イエスは、「旧約聖書ではこれこれと教えているけれど、でも、その事についてわたしは以下のように教えます。」と言っているわけです。

  この箇所のイエスの話のその内容は、どれも旧約律法そのものを否定しているのではなく、当時の律法の専門家やファリサイ派たちが律法を事細かに外に見える形で守ることを「口伝律法」として教えていたことを批判し、人々が旧約聖書の教えを律法解釈の中に中に閉じこめられることなく律法の文言を支える神の御心(律法の精神)をどのように実現するのかを教えるものでした。

 主イエスは、その6つの事柄のうち、最初に採り上げたのは、「殺すな。殺した者は裁きを受ける」という事でした。

 「殺すな」とは、イスラエルの民が授かった「十戒」の第5の戒めです。

 「殺してはならない」ということは、人が社会生活を営む上で、最も基本的な戒めの一つです。主イエスが旧約律法の言葉に触れながら説教をなさる上で、真っ先に採り上げた言葉が「殺してはならない」でした。しかし、主イエスは相手の身体を殺さなければそれでこの戒めを完全に履行しているとはお考えになりませんでした。

 主イエスは、もし誰かが殺人の罪を犯した場合、殺人という行為に至った動機や原因までにまで深めて教えておられるのです。

 もし、私たちの心に相手を恨み、憎み、否定する思いが生まれれば、それが相手を消し去ろうとする行為となって殺人に至るのです。主イエスは、その原因となること、つまり腹を立てることや相手を否定して罵る言葉を吐く者も罪人であると言います。

 そのような思いを心に抱えながら神に対して供え物を献げるとすれば、それがどれほど高価な献げ物であっても神は喜ばれず、それよりも供え物は祭壇の前に置いたまま、先ずあなたの兄弟と仲直りをしなさいと言っておられます。

 このように、自分の非を認めず、相手を愛せずに否定する思いを強くすることは、人を殺すことに通じる、或いは人を殺すことに等しいと主イエスは教えておられます。

 律法の中心である十戒は、旧約聖書出エジプト記第20章と申命記第5章に出てきます。十戒にはそれに先立つ前文があります。出エジプト記の十戒の前文は以下の通りです。

 「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」

 この前文は、十戒のすべての項目に係るものであり、この第五に戒めについても「わたしはあなたがたをエジプトの国から導き出しのだからあなたがたは殺してはならい」また「殺すはずがない」と言うことなのです。

 「神が創り、神が選び、神によって持ち運ばれるあなたがたなのだから、あなたがたは殺してはならないし、この神によって生かされる者として互いを殺すはずがない」というのが十戒の基本的な考え方です。そしてこの十戒を核とする律法のそれぞれの文言もこの十戒の前文に表現する精神を具体的に示すものであり、その精神に基づいて律法の体系が構成されているはずでした。

 しかし、律法の専門家やファリサイ派たちは律法を細部にわたって解釈して厳格に守っているようではありましたが、主イエスの目から見ると、彼らは律法を細かな点まで字句通りに形式化してそれを守ってはいるものの、その態度は律法を全うできない人々を苦しめ、差別し、切り捨てて自分を守るものになっていたのです。

 「人を殺すな、殺した者は裁きを受ける」と旧約聖書には記されているけれど、あなたがたは律法を守れない人々を罪人呼ばわりしているではないか、表面では他者の命を奪ってはいないと言うだろうが、他人の存在を否定し、彼らを罪人に追いやっているのではないか」と言っておられるのです。

 刃物や凶器を手に他者の命を奪うようなことはしなくても、病の人を悪霊に憑かれた者と言い、重い皮膚病の人を汚れた者として共同体から追放し、律法を守れない立場の人を神に見捨てられた者として罪人扱いすることは、十戒の第5の戒めを踏みにじるに等しいことなのだと主イエスは教えておられるのです。

 もし、わたしたちが律法の根本的な精神に立ち帰ることなく表面的な言葉のレベルでそれを実行しようとするなら、「するな」という禁止命令については何もしないでいれば律法に反することにはならないで済みます。また、「しなさい」という実行命令については律法の専門家やファリサイ派に倣って水準の行為ができていればそれで合格点ということになるでしょう。律法学者やファリサイ派たちの教えは、口伝律法の細則を基準として判断しており、主イエスはそこに神の愛を受けた生き生きとした命を見ることが出来なかったのでしょう。主イエスは、ファリサイ派が貧困層や社会的弱者などを罪人扱いし、差別し、軽蔑することで自分たちを正しい者の側に置く態度については、人を殺すに等しい出来事に見えて、深い悲しみと憤りをもたれたことと思います。

 人は、律法に違反することもなく正しい行いをしているように見えても、一人ひとりが神の前に深く自分を顧みる時、律法はあなたを生かしているのかと主イエスは問いかけます。あなたがたは神の全き愛によって生かされているのに、そのことを自覚しているのか、他の人々が生きるためではなく相手の存在を潰すために律法を用いてはいないかと、問うておられるのです。

 この問いは、律法学者やファリサイ派を批判するだけでなく、救いを求めて山上に集まる人々やわたしたち一人ひとりにも向けられていることを覚えましょう。

 そして、私たちは、自分を正しい者の側においてこの言葉を受け取るのではな、主イエスの愛に赦され、生かされ者として、人々の和解へ、赦しへと歩み始めるのです。

 主イエスは、「殺すな」という律法の言葉は「愛しなさい」という教えによって初めて完成することを教えてくださいました。そして主イエスはわたしたちをそのような世界へと導くために、わたしたちの過ちや負債をすべて十字架の死によって帳消しにしてくださいました。

 主イエスによって救い出されたわたしたちは、律法を(つまり神の御心を)愛によって完成する働き人として招かれています。わたしたちは感謝をもってその働きに与らせていただけるのです。

 律法を愛によって完成してくださった主イエスに導かれ、感謝と喜びのうちに主の働きに与らせていただきましょう。 















posted by 聖ルカ住人 at 06:23| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする