2023年02月05日

地の塩、世の光  マタイによる福音書第5章13-21  顕現後第5主日   2023.02.05

地の塩、世の光   マタイによる福音書第5章1321  顕現後第5主日    2023.02.05


  今日の聖餐式日課福音書より、もう一度二つの言葉を思い起こしてみましょう。

 「あなたがたは地の塩である。」(5:13)

 「あなたがたは世の光である。」(5:14)

 主イエスは、小高い山の上で、大勢の人々にお話しを始めました。

 「幸いなり、これこれの人たち」という言葉で、8つの幸いを告げた主イエスの話は、「あなたがたは・・・」と主イエスの話を聴く人びとに向かって直接に語りかける調子に変わります。

 主イエスは、主イエスを見つめる弟子たちや多くの人に向かって、神の幸いの内にあるあなたがたはその祝福を受ける者としてどのように生きるべきかを語り始めます。

 主イエスは、ご自分の話を聴く人々と視線を合わせながら、「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と迫るように語りかける姿が想像されます。

 私たちが「地の塩」であることと「世の光」であることは、この二つのことがただ脈絡なく並んでいるのではなく、この二つの言葉がある意味で対比して語られていることに注目したいと思います。

 先ず「塩」について考えてみましょう。

 ここで言う「塩」とは岩塩のことです。岩塩が例えば風雨に晒されていると、塩分は次第に流れ出して塩分は失われ、その石は塩味を失ったスカスカの軽石のような塊になってしまいます。その事を念頭に置けば、「塩に塩気がなくなれば・・・」という言葉は「岩塩から塩分がなくなってしまえば・・・」という意味であることが分かります。

 主イエスは「あなたがたは地の塩である」と言いました。岩塩のように福音の塩分をいただいている私たちが、「塩」の脱けた石のようになってしまえば、その人はもはや抜け殻状態であり、「外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」と例えておられるのです。

 主イエスは、当時の背景として、ファリサイ派や律法学者たちを意識してこの話をしているように思われます。彼らは、旧約律法の枠組みを形式的に生き、しかも律法の細則を口伝律法としてその一つひとつを厳格に守り実行することが救いに至ると考えていました。主イエスは彼らのように律法を形式的に生きるのではなく、岩塩の塩分がそこから塩味としての溶け出すように、命の喜びが溢れだして御心を行う「地の塩」として生きることを勧めているのでしょう。

 主イエス・キリストの福音に生かされ、その喜びがその人の内から外に溶け出して、神に生かされる喜びを人々に味わわせる働きが「あなたがた」の働きであると言っておられるのではないでしょうか。

 塩について、視点を変えて考えてみましょう。

 塩は塩化ナトリウムの結晶です。もし、塩がこの結晶のままであれば塩味は出てきません。塩が水に溶けて人の目に見えなくなる時にはじめてその塩味が働きます。もし塩が結晶のまま塩味を出さないとすれば、それは塩の働きをしません。

 つまり人が自分にこだわり保身して結晶としての姿を抱え込んで自分の中にだけ留め置こうとすれば、塩は塩としての働きをしないのです。

 私たちの内に結晶として与えられた「塩」つまり言葉として与えられた神の御心は、私たちの内から溶け出して、他の人々と分かち合われることが必要であり、私たちはそのように主イエスによって生かされる喜びを分かち合う働き人になることを主イエスは求めておられるのではないでしょうか。

 私たちの日々の働きの中に、主イエスの御言葉を溶け込ませて、人々に福音の味を届けることで、日々の具体的な働きの中でみ栄えを現す器となるように主イエスは私たちを促しておられるのです。

 次に、「あなたがたは世の光である」という言葉について思い巡らせてみましょう。

 私たちが「光」であることとは、自らが太陽のように発光体(光源)となって自分の光を放つか、月のように自らは光源ではなく光の反射体となって他の光源が発する光を受けてその光を反射させるか、そのどちらかです。私たちは自分自身が発光体なのではなく、光に映し出されて輝く「被写体」に例えられます。私たちは光源ではなく、主イエスの光を受けその光を反射して生かされます。

 違う視点から「光」について考えてみましょう。

 当時のパレスチナの家は、屋内は壁で囲まれた一つの空間でした。普段は一つの明かりを灯して家の中全体を明るくしました。当然、燭台は家の中全体を照らす所に置かれました。灯火はその光が部屋全体を照らす所におかれて当然であり、わざわざ物陰に置かれては灯火として相応しくありません。私たちも福音の光を受けてその光を輝かす器として生かされている者であれば、引っ込み思案になったり、逃げ隠れすることなく、福音の光を人々の前に強く雄々しく輝かす使命を授かっていることを覚えたいのです。 

 主イエスの時代に、自分たちを「光の子」と名乗る一団がありました。そのグループは「クムラン宗団」と呼ばれるグループです。彼らは神殿や会堂を中心とした当時のユダヤ教の流れや町の生活から離れ、荒れ野で修道の生活をしていました。この「クムラン」の人々は「エッセネ派」と呼ばれるグループのことであっただろうと考えられています。そして洗礼者ヨハネはこのエッセネ派に属していたと考えられています。この人たちは、自分たちを「光の子」と呼び、町の人々を「この世の子」とか「闇の子」と呼んで、エッセネ派は世俗から離れて祈りと修養に集中していました。彼らは自分たちを「光の子」と呼んでいたのです。

 しかし、主イエスは、今主イエスの御言葉を求めて集まってきている貧しい人々や救いに飢え乾く人々に向かって「あなたがたは世の光である(あなた方こそ世の光である」と言っておられます。

 山の上で説教をする主イエスの御声が沢山の人々のいるその山に響きます。この御言葉を山上で聴く人々は、「地の塩」としてまた「世の光」として、人々の中で生きるように促されています。

 主イエスは、私たちに社会との交わりを絶って隠遁の修行者のように生きるのではなく、人々の中に入り込んで人々に福音を塩味のように人々に届け、あなたがたが光となって福音を示すように、弟子たちを促し励ましておられるのです。

 元のギリシャ語を見てみると、この二つの言葉はどちらも、主語、述語、補語のすべてに省略のない完全な文型を用いています。ギリシャ語は動詞が主語の人称によって語尾変化するので、普段は完全に整った構文で話すわけではなく、多くの場合は主語を省略して動詞だけで用いられます。この場で主語、動詞、補語を全部整えて表現することは、主イエスがこの内容を伝えるために一語一語を区切るようにしっかりと強調して話しておられることが想像でき、またこの福音書の言葉を受ける私たちにも、主イエスが「あなたたちこそ世の光なのだ」また「あなたたちこそ地の塩なのだ」と強い語調で語っておられることを踏まえたいと思います。

 そして、神の愛を受けその愛をこの世に表していくことによって、神の御心が実現するのであり、主イエスの働きはそのようにして旧約聖書に示されている神の御心を完成するものであることを福音記者マタイは私たちに伝えているのです。

 私たち一人ひとりが主イエスから「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」と言われていることを心に留め、その働きに与る者として養われ導かれて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 15:12| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする