自分の罪を認める 創世記2:4-9,15-17、25-3:7 大斎節第1主日 2023.02.26
大斎節に入り、最初の主日を迎えました。今日の聖書日課旧約聖書には、創世記第2章と第3章の部分から、人間の罪について語られた箇所-アダムとエバが蛇に誘惑されて罪に陥った物語-が取り上げられています。
この箇所に登場するのは、アダム、女、神、それに蛇です。そしてこの4者が言葉を交わしています。蛇と女、女と男、男と神のやりとりが続きますが、先ず、女と蛇との会話を見てみると、女は蛇の巧みな話術にはまり込み、女の思いが神との約束から次第にずれをおこし、遂には人が自分から神との約束を破り約束の木の実を食べてしまう罪を犯すに至る事が分かります。
大斎節第1主日である今日、私たちが特に注目してみたいのは、木の実を食べて罪を犯した後の男アダムと女エバの態度と振る舞いについてです。
今日の旧約聖書日課は創世記の第2章と3章から部分的に飛び飛びに取り上げられていますが、今日の旧約聖書日課をもう少し前の部分から見直してみることにしましょう。
神はお創りになったアダムとエバをエデンの園に住まわせました。そして、人がそこで生活していけるようになさり、神は次のようにお命じになりました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
しかし、女は狡猾な蛇の話に乗せられて、自分でその木の実を取って食べ、一緒にいた男にも渡しました。彼もそれを食べました。
2章6節の後半にこのように記されています。「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」
すると2人は目が開けました。彼らは自分たちが裸であることを知り、二人はイチジクの葉をつづり合わせて腰を覆うものとしたのです。
「イチジクの葉」とは、罪ある自分を覆い隠すその場凌ぎの装いであると言えるでしょう。
今日の日課はここまでなのですが、こうして神との約束を破ってしまった後のアダムと女の態度と振るまいを見るために、この物語をもう少し先まで思い起こしてみましょう。神との約束を守らずに知恵の木の実を食べてしまったことも「罪」なのですが、この男と女が更に「罪」を重ねていることこそ、私たちがしっかり見据えておかねばならないことなのです。
アダムとエバが罪を犯した日、風が吹く頃、主なる神が園の中を歩く声が聞こえます。すると、二人は神の顔を避けて、神と顔を合わせなくても済むように、園の木の間に身を隠します。神はアダムに「何処にいるのか」と声をかけました。3章10節でアダムは答えます。「あなたの足音が聞こえたので恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
アダムの中に恐ろしさが生まれたのはなぜでしょう。自分が裸であることだったのでしょうか。そうではありません。それは、神から「食べてはいけない」と言われた「善悪の知識の木」の実を食べてしまって、自分の中にそのことを隠しておきたい気持ちが生まれたからです。主なる神との完全な交わりの中にあって、何の恐れもなかったこの男と女に恐れをもたらした原因は、人が裸だったからではなく、自ら神との信頼関係を破ったこと、つまり罪を犯したことにあるのです。
神はアダムに問います。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」
これに対するアダムの答はどうでしょう。アダムは、3章12節で「あなたが私と共にいてくださるようにしてくださった女が木から取って与えたので食べました。」と言います。アダムはまるで、その責任は自分にあるのではなく、神が与えたパートナーが罪の原因であるかのように答えています。アダムは、その女を神が勝手に与えた者であるとでも言うような口ぶりで神に言い訳けをしています。
この点では、女エバの答もアダムと同様です。「蛇がだましたので食べてしまいました」。
でも、この箇所をよく読んでみると、蛇はこの女に「食べてみろ」と促すようなことは一言も言っていません。アダムの答も女の答も、神の問いかけに対して不適切でありまた不誠実です。彼らの答は彼らが自分の意志と決断で食べた事実との間に大きな隔たりがあります。
このようなアダムと女の神への応え方を考えてみますと、人の罪とは、自分の保身を考えたり自分の欲望を満たすために、また神の御心から離れることで生じた恐れを覆い隠すために、神に対しても本当の自分に対しても不誠実になってしまうことである、と言えるのです。
私たちは誰でもこうした不誠実やごまかしに誘われる者である事を肝に銘じておかなければなりません。人はこのように生まれる罪を認めたがらず、時には自分の過ちの責任を他人になすりつけ、自分には過ちが無かったようにして、偽りの中に自分を守ろうとすることをよく覚えておきたいのです。罪人は、自分の罪が顕わになりそうな時に、本当の自分を隠して必要以上に防衛的になり、攻撃的になり、あるいは自分の罪を隠して過度に偽善者ぶる事にもなるのです。神と人の前で自分の罪を認めその罪を告白することは、私たちが生きていく上でとても大切なことなのです。
ヨハネの手紙一第1章8節に「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません」と言い、続けて9節に「自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」と言っています。
人の世界に罪が入り込んだのは、人がただ蛇に唆されて善悪を知る木の実を食べてしまったその後に、アダムも女も自分の罪を神の前に言い表すことなく覆い隠し、その責任を他者に転嫁していくところにありました。
先ほど触れたヨハネの手紙の言葉にもあるとおり、自分の罪を認めてしっかりと見据え、それを神の前に差し出すことは大切なことです。自分の罪を認めて誠実に生きることは、簡単なことのようであっても、それは時には辛く痛みを伴うこともあるでしょう。でも、私たちが神の前で自分の罪を認めて告白する時、神と私たちの間の亀裂は埋められ、神と私たちは結び合わされるのです。そうして私たちは自分を脅かす罪意識から解放され、癒され、主なる神は私たちにとって審きの神から恵みの神に変わるのです。
罪を認めて懺悔することは、「ああしなければ良かった、こうしなければ良かった」と言って変えられない過去を思い出して悩み続けることではありませんし、罪を犯してしまった自分をいつまでも責め立てることでもありません。主なる神の前に自分の罪を認めることは、主なる神との関係をもう一度結び直すことであり、そうすることで主なる神の前に恵みと喜びに導かれることになるのです。
私たちが善悪を知る木の実を食べたアダムやエバのように罪を犯して恐れの中にいるのなら、そのことを自覚した時にこそ神が私たちに「どこにいるのか」と声をかけておられることを覚えたいのです。主なる神が私たちの名を呼んでたずねるのは、決して神が私たちを犯罪者として吊し上げたり処罰するためではありません。私たちは、神の前に全てありのままで良いのです。罪人の自分を全て神の前に開いて、神にそのままの私を受け取っていただき、神の赦しと恵みの中に本当の自分として生きることを許されている喜びに与りたいのです。罪を自覚できる人は、その罪が主イエスを通して赦されて生かされている喜びをもまた自覚できるのです。
かつてアダムとエバは、それとは逆に、神にも自分にもウソをつき責任を転嫁して自分を守ろうとしました。そして神の前から顔を背けました。そのようにしてアダムとエバは神と人の関係の亀裂をつくり、人間同士の関係の破れを拡げてしまいました。でも、神はこのような破れから、もう一度私たちを救い出して生かしてくださるために、神と人の破れを主イエスによって恵みが働く通路に変えてくださいました。一度罪を知りその罪を自覚できるからこそ、私たちはそこに働く神の恵みの深さと愛の大きさを知ることが出来ます。私たちは多くを赦された者として多くを愛されている喜びを主イエスを通して与えられました。
主イエスは、罪による死の先にある永遠の喜びの世界を開くために悪魔の誘惑に打ち克ち、血の汗を流し、十字架をとおして救いの道を開いてくださいました。私たちは、主イエスの復活の命にあずかる時を目指して大斎節を過ごして参りましょう。この大斎節の間、私たちの罪に働いてくださる神の恵みをしっかりと思い起こし、それぞれの信仰の養いと導きを受け、感謝と喜びの復活日を迎えることが出来ますように。