2023年02月27日

光 (あいりんだより2009年12月号)

 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」  (ヨハネによる福音書8:12 ) 


 12月になりました。愛隣幼稚園はキリスト教会の幼稚園です。特に12月はイエス・キリストのご降誕を祝うクリスマスの月でもあり、イエスさまについて思い巡らせることの多い時でもあります。

 イエスさまは、聖書の中でしばしば「光」に例えられています。上に掲げた聖書の言葉もそのような言葉の一節です。

 少し「光」について思い巡らせてみましょう。深い闇の中にある光は、たとえその光が小さなものであっても、それは道しるべとなり、暗闇を歩く人はその光を見て自分の進むべき方向を認識できます。星や星座は、古くから海や砂漠を旅する人の案内役になってきましたが、聖書はそのことにたとえて「イエスがどのような意味での救い主であるのか」を示しているのです。

 光の位置を知ることによって自分のいる位置や進むべき方向を認識できることは、まさに私たちの生き方そのものをたとえているのではないでしょうか。本当のことや正しいことを知らずに、また知ろうとせずに、ただ目先のことを追い求めているのでは、私たちはいつの間にか同じことを繰り返したり、泥沼にはまりこんでいくことにもなりかねません。私たちはいつも、本当のことは何か、正しいことは何かを考え、見つめ、真理に立ち返りながら、生きていくものでありたいと思います。そのための「光」がイエスなのです。

 それまでは知らなかったり気付かずにいた本当のことや正しいことに出会うことによって、自分で大切にすべき事柄の順序が真理を根底に据えて心の中で置き換わり、新しく生まれ変わって生きていくような歩みを、私たちは「光」に導かれて進めていきたいと思います。イエスは,私たちが「そうだったのか!」と目から鱗が落ちるような思いになって、その後の生き方を変えられ、私たちがより深く真理に向かって生きられるようにされる意味での救い主です。

 かつて、ある宝石商人が次のように語っていました。

 「本物と贋物を見分け、質の高い宝石とそうでないものを見分ける眼力を養うためには、本物の最高級の宝石をたくさん見つめる以外に方法はありません。」

 本物の宝石、最高級の宝石を見つめてその眼力が養われるのとちょうど同じように、私たちは正しいこと、本当のことに触れて、その感性を養うことで、まがい物やこけおどしに流されずに、真理に導かれていくことができるのではないでしょうか。それは、子育てについても教育についても言えることです。

 イエスは,今から2000年前、当時のイスラエル社会の中で真理を示し、そのために当時の権力者によって弾圧され殺されていった人でした。この男の生き方と死に方の中に「光」を見た人々によって、イエスは救い主と信じられ、宣べ伝えられ、その後世界の多くの人々を支え導くようになりました。その歴史の中で、イエス・キリストの福音は日本にも届けられ、私たちの幼稚園も起こされました。

 近年、日本のクリスマスにはイエス・キリストが不在です。

 私たちは、子どもたちの中に「光」であるイエスさまの宿るクリスマスを迎えたいと思います。

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2023年02月26日

自分の罪を認める  創世記2:4-9,15-17、25-3:7  大斎節第1主日 

自分の罪を認める   創世記2:4-9,15-1725-3:7  大斎節第1主日   2023.02.26


 大斎節に入り、最初の主日を迎えました。今日の聖書日課旧約聖書には、創世記第2章と第3章の部分から、人間の罪について語られた箇所-アダムとエバが蛇に誘惑されて罪に陥った物語-が取り上げられています。

 この箇所に登場するのは、アダム、女、神、それに蛇です。そしてこの4者が言葉を交わしています。蛇と女、女と男、男と神のやりとりが続きますが、先ず、女と蛇との会話を見てみると、女は蛇の巧みな話術にはまり込み、女の思いが神との約束から次第にずれをおこし、遂には人が自分から神との約束を破り約束の木の実を食べてしまう罪を犯すに至る事が分かります。

 大斎節第1主日である今日、私たちが特に注目してみたいのは、木の実を食べて罪を犯した後の男アダムと女エバの態度と振る舞いについてです。

 今日の旧約聖書日課は創世記の第2章と3章から部分的に飛び飛びに取り上げられていますが、今日の旧約聖書日課をもう少し前の部分から見直してみることにしましょう。

 神はお創りになったアダムとエバをエデンの園に住まわせました。そして、人がそこで生活していけるようになさり、神は次のようにお命じになりました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 しかし、女は狡猾な蛇の話に乗せられて、自分でその木の実を取って食べ、一緒にいた男にも渡しました。彼もそれを食べました。

 2章6節の後半にこのように記されています。「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。」

 すると2人は目が開けました。彼らは自分たちが裸であることを知り、二人はイチジクの葉をつづり合わせて腰を覆うものとしたのです。

 「イチジクの葉」とは、罪ある自分を覆い隠すその場凌ぎの装いであると言えるでしょう。

 今日の日課はここまでなのですが、こうして神との約束を破ってしまった後のアダムと女の態度と振るまいを見るために、この物語をもう少し先まで思い起こしてみましょう。神との約束を守らずに知恵の木の実を食べてしまったことも「罪」なのですが、この男と女が更に「罪」を重ねていることこそ、私たちがしっかり見据えておかねばならないことなのです。

 アダムとエバが罪を犯した日、風が吹く頃、主なる神が園の中を歩く声が聞こえます。すると、二人は神の顔を避けて、神と顔を合わせなくても済むように、園の木の間に身を隠します。神はアダムに「何処にいるのか」と声をかけました。3章10節でアダムは答えます。「あなたの足音が聞こえたので恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」

 アダムの中に恐ろしさが生まれたのはなぜでしょう。自分が裸であることだったのでしょうか。そうではありません。それは、神から「食べてはいけない」と言われた「善悪の知識の木」の実を食べてしまって、自分の中にそのことを隠しておきたい気持ちが生まれたからです。主なる神との完全な交わりの中にあって、何の恐れもなかったこの男と女に恐れをもたらした原因は、人が裸だったからではなく、自ら神との信頼関係を破ったこと、つまり罪を犯したことにあるのです。

 神はアダムに問います。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」

 これに対するアダムの答はどうでしょう。アダムは、3章12節で「あなたが私と共にいてくださるようにしてくださった女が木から取って与えたので食べました。」と言います。アダムはまるで、その責任は自分にあるのではなく、神が与えたパートナーが罪の原因であるかのように答えています。アダムは、その女を神が勝手に与えた者であるとでも言うような口ぶりで神に言い訳けをしています。

 この点では、女エバの答もアダムと同様です。「蛇がだましたので食べてしまいました」。

 でも、この箇所をよく読んでみると、蛇はこの女に「食べてみろ」と促すようなことは一言も言っていません。アダムの答も女の答も、神の問いかけに対して不適切でありまた不誠実です。彼らの答は彼らが自分の意志と決断で食べた事実との間に大きな隔たりがあります。

 このようなアダムと女の神への応え方を考えてみますと、人の罪とは、自分の保身を考えたり自分の欲望を満たすために、また神の御心から離れることで生じた恐れを覆い隠すために、神に対しても本当の自分に対しても不誠実になってしまうことである、と言えるのです。

 私たちは誰でもこうした不誠実やごまかしに誘われる者である事を肝に銘じておかなければなりません。人はこのように生まれる罪を認めたがらず、時には自分の過ちの責任を他人になすりつけ、自分には過ちが無かったようにして、偽りの中に自分を守ろうとすることをよく覚えておきたいのです。罪人は、自分の罪が顕わになりそうな時に、本当の自分を隠して必要以上に防衛的になり、攻撃的になり、あるいは自分の罪を隠して過度に偽善者ぶる事にもなるのです。神と人の前で自分の罪を認めその罪を告白することは、私たちが生きていく上でとても大切なことなのです。

 ヨハネの手紙一第1章8節に「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません」と言い、続けて9節に「自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」と言っています。

 人の世界に罪が入り込んだのは、人がただ蛇に唆されて善悪を知る木の実を食べてしまったその後に、アダムも女も自分の罪を神の前に言い表すことなく覆い隠し、その責任を他者に転嫁していくところにありました。

 先ほど触れたヨハネの手紙の言葉にもあるとおり、自分の罪を認めてしっかりと見据え、それを神の前に差し出すことは大切なことです。自分の罪を認めて誠実に生きることは、簡単なことのようであっても、それは時には辛く痛みを伴うこともあるでしょう。でも、私たちが神の前で自分の罪を認めて告白する時、神と私たちの間の亀裂は埋められ、神と私たちは結び合わされるのです。そうして私たちは自分を脅かす罪意識から解放され、癒され、主なる神は私たちにとって審きの神から恵みの神に変わるのです。

 罪を認めて懺悔することは、「ああしなければ良かった、こうしなければ良かった」と言って変えられない過去を思い出して悩み続けることではありませんし、罪を犯してしまった自分をいつまでも責め立てることでもありません。主なる神の前に自分の罪を認めることは、主なる神との関係をもう一度結び直すことであり、そうすることで主なる神の前に恵みと喜びに導かれることになるのです。

 私たちが善悪を知る木の実を食べたアダムやエバのように罪を犯して恐れの中にいるのなら、そのことを自覚した時にこそ神が私たちに「どこにいるのか」と声をかけておられることを覚えたいのです。主なる神が私たちの名を呼んでたずねるのは、決して神が私たちを犯罪者として吊し上げたり処罰するためではありません。私たちは、神の前に全てありのままで良いのです。罪人の自分を全て神の前に開いて、神にそのままの私を受け取っていただき、神の赦しと恵みの中に本当の自分として生きることを許されている喜びに与りたいのです。罪を自覚できる人は、その罪が主イエスを通して赦されて生かされている喜びをもまた自覚できるのです。

 かつてアダムとエバは、それとは逆に、神にも自分にもウソをつき責任を転嫁して自分を守ろうとしました。そして神の前から顔を背けました。そのようにしてアダムとエバは神と人の関係の亀裂をつくり、人間同士の関係の破れを拡げてしまいました。でも、神はこのような破れから、もう一度私たちを救い出して生かしてくださるために、神と人の破れを主イエスによって恵みが働く通路に変えてくださいました。一度罪を知りその罪を自覚できるからこそ、私たちはそこに働く神の恵みの深さと愛の大きさを知ることが出来ます。私たちは多くを赦された者として多くを愛されている喜びを主イエスを通して与えられました。

 主イエスは、罪による死の先にある永遠の喜びの世界を開くために悪魔の誘惑に打ち克ち、血の汗を流し、十字架をとおして救いの道を開いてくださいました。私たちは、主イエスの復活の命にあずかる時を目指して大斎節を過ごして参りましょう。この大斎節の間、私たちの罪に働いてくださる神の恵みをしっかりと思い起こし、それぞれの信仰の養いと導きを受け、感謝と喜びの復活日を迎えることが出来ますように。



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2023年02月25日

ロシアのウクライナ侵攻から1年 2023年2月24日

2023年2月24日
  かつて「地球資源は世界の人々が均しくその恩恵を受ける程度には備わっているけれど、人間が破壊しあって消耗することに堪えられるほど豊かではない」という言葉を聞いた記憶があります。
 世界中のミサイルや戦車の生産と消耗をやめて、食糧を産み出すための耕運機や世界に資源を共有するために運搬する船やトラックの生産に向かいますように。
 どれだけの命が失われているのでしょう。どれだけの地球資源が無駄に失われているのでしょう。
 私は、ロシアに、ウクライナからの即時全面撤退を求めます。
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受け容れることの大切さと難しさ  (あいりんだより2009年11月号)

受け容れることの大切さと難しさ

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」 (ローマの信徒への手紙12:15) 


 新聞や雑誌に掲載される人生相談や育児相談のコーナーで、回答者がよく「相手 (子ども)を受け容れてあげなさい」と記しています。多くの場合、言葉の限りでは「相手を受け容れる」ことは本当に大切なことであり必要なことなのですが、わたしは実際にそうすることがいかに難しいことであるかを痛感しています。

 なぜなら、「受け容れる」ことは、相手がやりたい放題することを無節操に容認することではないし、知らぬ振りをして放り出しておくことでもないからです。また、「受け容れる」ことは、こちらの立場で相手の善し悪しを評価して良い部分をほめながらある方向付けをすることでもありません。

 「受け容れる」ことは、子どもの心にどのような深い思いがあるのか、子どもが表現する言葉や行動の背景にはどんな経験や感情があるのかを含めて、その子どもの全体をありのままに理解することなしにできることではありません。

 嬉しいことや楽しいことまた少なくとも自分の価値観に合うことであれば、相手を受け容れることは比較的易しいことかもしれません。でも、それが悲しいことや反社会的なことであれば、受け容れられなくて当たり前であり、それを「受け容れなさい」と言われても戸惑うし、「受け容れる」ことは「あきらめる」ことなのかと言いたくなるのではないでしょうか。

 仮に、子どもが「あいつを殴りたい」と言ったとしましょう。「受け容れる」とは、その子が殴ることを許可するとでもないしその思いだけを理解することでもありません。「あいつを殴りたい」という言葉の背景には、きっとその子どもが自尊心を傷つけられたり生きることを否定されたりするような経験をして、そのきっかけとなった相手が赦せない思いになっているのではないでしょうか。そのような深い思いを子どもの立場から理解し、更に自分が傷ついたときに「殴りたい」と反応してしまうその子どもの課題や傾向をも見通しつつ、傷ついたその子の気持ちを自分が味わいながら子どもに関わることが「受け容れる」と言うことなのです。

 子どもはそのように受け容れられることを通して、やがて他者によって再び傷つけられるような経験をするときにも、自分の心をしっかり把握して相手に適切に関われるように成長していくのです。

 そうであれば、子どもが無理な要求をしてきたときにも、「受け容れる」とは曲げてその要求を飲むこととは違うことが分かるでしょう。時にはわたしたち大人は子どもの反社会的な言動に毅然として「No」を言わなければなりません。それは、子どもを日頃から受け容れているが故の「No」であり、「No」と言ったからといって、それで関係がすべて終わってしまうわけではありません。子どもを受け容れることができるとき、子どもは「物が欲しいという思いは満たされなくても、お母さんはぼくの本当の気持ちは分かってくれている」という信頼感を強くすることができるでしょう。

 「受け容れる」ことの基本的なことを記しました。それは難しいことではありますが、わたしたちは子どもを受け容れられるよう努めなければなりません。子どもに内的な力があれば、わたしたち大人が子どもの言動の鏡となって対話を進めればそれで十分です。例えば、子どもが「~~~」と言ったときに、わたしたちはその言葉をオウム返しするように「~~~なのね」と応じてあげれば、子どもは自分を少し客観化してとらえながら自分を受け容れる力を育てていけるものです。ご家庭でも、是非子どもたちの話に耳を傾け、しっかり受け止めてあげてください。それが人を深く「受け容れる」ことの第一歩です。        (あいりんだより2009年11月号)

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2023年02月23日

読書の秋 -「本が好き」の土台作り-  (あいりんだより2009年10月号)

読書の秋 -「本が好き」の土台作り-

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。(ヨハネによる福音書第1章1節)

 既に秋分の日も過ぎ、日中より夜の方が長い季節になりました。「読書の秋」です。子どもが童話や絵本の名作に触れながら、やがては読書好きで知的センスの高い人間に育ってくれたら、と多くの人が思います。わたしもそう思います。でも、不思議なもので、大人が子どもを「読書好きの人に育てよう」などと意気込むと、子どもはかえってそれに反発したり本嫌いになったりすることも多いようです。子どもが本好きになる前提とは何でしょうか。

 近年、子どもの成長を阻害するメディア環境が問題になっています。この問題は子どもの読書環境をも駆逐していますので、少しその点に触れておきたいと思います。

 本来、人間の声は小さく柔らかです。一方、テレビやテレビゲームなどのメディアから流れ出る音声は、人間(ことに赤ちゃん)の聴覚にとって鋭く刺激的です。私たち人間の聴覚は、幼い頃から母親をはじめとする人間の声と結びつき、その音声(声やことば)を聞き取れるようにその神経回路を強化してきました。ところが、現代の溢れ出るメディアの音声は幼子が本来強化されるはずの人間の声や自然の音(風や水の流れ)をキャッチする能力を育むことを阻害しているのではないかと考えられています。人が人の声を聞き分けて選び取る能力の素晴らしさについては、一度録音テープにとった音声を聞き直すと、周囲の物音がいかに多くまた大きいかという事などを手掛かりに分かります。人は小さいときから、人の声を選択して聞き分ける能力に磨きをかけていることが想像できます。またこうした能力は聴覚ばかりでなく、視覚や触覚をはじめ味覚にまで言えることであり、現代はこうした人間の感覚が危機にさらされていることを指摘する人も増えています。

 こうした環境の中で、母子を中心とした柔らかで穏やかな感覚刺激を得られないままメディアに犯されて乳幼児期を過ごした子どもたちは、その中で脳にたたき込まれた破壊的な擬音語や場にそぐわない乱暴な言葉遣いをその意味もよく分からないまま用いて他者とのつながりをつくろうとすることになります。でも、一生懸命に生きる子どもであっても、もし成長していく上での土台(母子を基本とした信頼関係)がつくられないままであったとしたら、子どもたちは多くの人々の集まる場で建設的な社会関係を作っていくことがどんなに難しいことになるのかは容易に想像できます。

 さて、本好きの土台も上記のことと関連しています。家庭でも日頃から、テレビ、ビデオ、テレビゲームなどのメディアに頼らず、親の肉声により語り聞かせや絵本の読み聞かせを親子で楽しめているか、子どもが自分の経験を落ち着いて話せるように子どもの心に寄り添って話しを聴いて受け止めているか、メディアのペースに拠ってではなく親子のペースで絵本を読み進められているか等々が、子どもが本好きになることの土台と言えるでしょう。

 ある著名な童話作家は、「子どもが10歳になるまでは、親が名作を沢山読み聞かせてあげてください。ただし本の感想など子どもに求めないでください。本当の感動は子どもの言葉の域よりずっと深いから言葉にならないのです」と言っていました。

 絵本や童話の名作は、わたしたちを心の深い領域に案内してくれます。読書は実際に経験できないことを追体験させてくれますが、そのときに信頼できる大人が傍らにいて物語を共有してくれることで、子どもは読書での体験を自分のものにしていくのです。その事は、子どもたちが勇気や正義感を獲得したり、感情の幅を広げたりしていくことにも繋がるのです。

 こうした土台ができてくれば、読み書きの練習開始が遅くても、もっと物語の世界に触れたい子どもは時間を惜しんで本を読むようになるでしょう。そのような本好きこそ根っからの本好きと言えるのではないでしょうか。

頭と体を育て鍛える秋にしたいですね。その基本はしっかりとした親子の心のつながりです。(あいりんだより2009年10月号)

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食欲の秋に向かって (あいりんだより2009年9月号)

食欲の秋に向かって

 自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(マタイによる福音書6:25)

 今夏の研修会の中で、わたしにとって一番インパクトが強かったのは、現代の子どもたちにとって人間関係を創り上げていく環境がいかに損なわれているかということの学びでした。

 食の環境においても、家庭で手作り料理を食べない(食べる機会がない)子どもが増えているとのこと。独りで食事をする子どもも増えています。かつて独りで食事をすることを「孤食」と記しましたが、今はそのように食事をする立場を擁護するかのように「個食」と記すようになったとか。

 わたしはキリスト教の司祭であり、その大事な勤めの一つに聖餐式(ミサ)の司式があります。聖餐式は誰も会衆がいない時には聖書を拝読して終わりとなり、「個食」のミサは成立しません。ミサを共にする信徒が司祭の他に少なくとも一人いる時、つまり人と人との間にいる神によって養いを受ける関係が成立している時にのみ、ミサが行わるのです。これはわたしたちの食事の原型でもあります。食事とは栄養を得るだけではないきわめて宗教的かつ社会的営みであることを覚えたと思います。

 また現代は、人間にとって最初の食事と言える授乳にも食環境の危機が見られます。生まれたばかりの赤ちゃんは、ただ栄養源としての乳を摂取するだけではなく、母親との視線を含めた交わりの関係の中で母乳を飲むのです。人間の赤ちゃんは授乳の時、他の哺乳動物とは異なり、一定のリズムで乳を飲む作業に休みを入れ、じっと母親の顔を見ます。それは乳を与えてくれる母親と乳を飲む自分の両者を確認する作業なのです。そうであれば、お母さんが赤ちゃんに乳を与える時に携帯メールをしたりテレビを見たりしていては、赤ちゃんの人間関係を創りだす基本的な第一歩が損なわれることになるでしょう。こんなところにも個食の危機があることを覚えたいと思います。

 授乳の時に赤ちゃんを胸元に抱いて、優しい眼差しと柔らかな声でゆったりと赤ちゃんに関わることが望まれます。これが赤ちゃんにとっての食生活の始まりです。赤ちゃんは早い時期から哺乳瓶を両手で持てますが、寝ころんだ赤ちゃんに哺乳瓶を持たせるのではなく、できるだけだっこして授乳させ、目と目のコミュニケーションを大切にしたいものです。

 さて、このように食の基本が「心を通わす」ことと深く関わることであれば、幼稚園生時代の子どものいる皆さんにもにも、食欲の秋に向かってご家庭でも是非心がけていただきたいことがあります。

 食事の時にテレビやゲームの画面は消して対話を心がけてください。食事中はメールや電話も控えましょう。手作りの料理を心がけ、仮に総菜などを買った場合にもひと工夫して手作り料理に変身させると良いでしょう。食材と栄養にバランスの良い食事を心がけてください。仮に子どもが一人で食事をするような時にも、孤食にならないように、お母さん(家族)は同じテーブルでお茶などを共にして、子どもの話し相手になってください。これらのことが「当たり前」と考えていただければ幸いです。

 内実のある食欲の秋をすごせますように。

(あいりんだより2009年9月号)

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2023年02月19日

主イエスに聞き従う      マタイによる福音書第17章1-9 大斎節前主日

主イエスに聞き従う      マタイによる福音書第17章1-9  大斎節前主日     2023.02.19

 教会暦では今週の水曜日から大斎節に入ります。大斎節は古くから復活日に洗礼を受ける人々の準備の時とされ、また既に洗礼を受けている人々にとっては自分の信仰を吟味し克己修養する時とされてきました。今週の水曜日から主日を除く40日間を私たちは大斎節として過ごし、ことに大斎節の後半では主イエスの十字架の苦難を思い、その先に復活日を迎えることになります。

 大斎節に入る直前の主日には、聖書日課福音書としていわゆる「主イエスの変容貌」の物語が取り上げられています。

 その物語の中から、マタイによる福音書第17章5節の言葉をもう一度思い起こしてみましょう。

 「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け。」 

 主イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子を連れて山に登りました。山の上で、主イエスのお姿は彼らの見ている前で白く目映く輝き、主イエスはそこに一緒にいたモーセとエリヤと何かを話しておられました。やがてその3人を覆った雲の中から神の声がしました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け。」

 この物語は、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に採り上げられており、しかも、どの福音書でも主イエスのご生涯を大きく2分する転換点にこの物語が位置づけられています。

 主イエスの御生涯を大きく二つに分けてみると、前半は主イエスがガリラヤ地方を中心に病人を癒し悪霊を追い出し人々に教えを説いて目覚ましくお働きになった部分、そして、後半はエルサレムに上って行って十字架に架けられて死にそして復活なさる部分になり、その転換点にこの「変容貌」の記事があります。

 ガリラヤでの宣教の働きを始められる時、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。その物語がマタイによる福音書第3章13節からにありますが、その中で、主イエスが洗礼を受けて水から上がられた時に天が開け、次のような言葉がありました。マタイによる福音書第3章17節です。

 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。

 この言葉は、マタイによる福音書の中に2度用いられています。一つは主イエスが洗礼をお受けになった箇所の中であり、もう一つは先ほども読んだとおり、いわゆる変容貌の物語の中で、主イエスが山の上で白く目映く輝いてモーセとエリヤと語り合いやがて一同が雲に覆われている時にこの声がしました。その時、主イエスが洗礼をお受けになった時と同じ言葉がありました。

 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。そして変容貌の物語の方では、更に「これに聞け」という言葉が続いていてます。

 初めにこの声があった時は、主イエスが洗礼をお受けになった時であり主イエスさまの宣教が開始される時でした。そして2度目にこの声があったのは、今日の聖書福音書の個所である主イエスの変容貌の時であり、それは主イエスの宣教の後半が始まる時でした。

 ここから始まる主イエスの公生涯の後半は、人の目から見て決して華やかではなく、むしろ逆で、ガリラヤから従ってきた多くの人たちが主イエスから離れていき、その一方で当時の社会を動かす権力者や指導者たちからの弾圧が一層強くなり、エルサレムに向かう主イエスの苦しみや困難が増し加わってくることになります。また、そればかりではなくエルサレムに上った主イエスは、最後には十字架につけられ、まるで敗北者であるかのような姿を人々の前にさらしながら死んでいく事になるのです。主イエスは、そうなることもすべて承知の上でエルサレムに向かって行こうとしておられるのです。

 主イエスは当時の律法の規定を犯してまで重い皮膚病の人に関わって清め、宗教的な習慣を破ってまで病人や身体の不自由な人々を癒し、貧しい人々や虐げられている人々に生きる希望を与えて下さり、多くの民衆の支持と尊敬を受けました。前半部のそのような働きにもかかわらず、ユダヤ教指導者たちの教えと対立する主イエスは、次第に当時の権力者から憎まれ、恨まれ、一時は熱狂的にイエスを支持した人たちからも見捨てられ、排斥されるようになっていきます。多くの人が主イエスの許から去っていく中で、主イエスの歩みは十字架へと向かっていきます。

 このような人々の動きを見てみると、多くの人が一時は主イエスの素晴らしさに目を見張り自分もその恩恵にあやかろうと近付きますが、その中の殆どの人は主イエスに従っていくことに尻込みし、当局の弾圧を恐れて、いつの間にか主イエスの許から離れていってしまいます。

 先ほど、主イエスが洗礼をお受けになった時の天からの声と、変容貌の出来事の時にあった天からの声が同じであることに触れましたが、変容貌の時にはその言葉に付け加えて「これに聞け」という言葉が付け加えられています。「聞く」という言葉は、日本語でもそうですが、例えば「お母さんの言うことを聞きなさい」と言えばただ「耳で聞く」という意味だけではなく、「聞き従う」という意味があります。この箇所でも、天の声は3人の弟子たちに「神の子イエスに聞き従いなさい」と教えているのであり、「イエスの歩んでいく道にあなたがたも従って行きなさい。これがわたしの愛する子であり、この子が歩む道がわたしの心の通りなのだから」と招いておられるのです。

 この世の成功か失敗かの測りで見れば、主イエスの生き方は経済的に豊かになっていくわけでもないし、権力を自分の手中に収めていくわけでもなく、エルサレムでの最期に向かって次第に厳しさが増し、緊張感が高まってきます。

 そのような状況の中で主イエスは神の御心に聞き従い通します。そして、天の声は弟子たちに主イエスに聞き従うようにと告げています。

 ご自分の命をかけるまでに主なる神の御心に聞き従い通す主イエスには、一つの確信がありました。それは、神に信頼し神に希望を持ってその御声に聞き従う者を神は決して見捨てることはないし、例えそのことによって自分が死に渡されるようなことになっても、神は必ず死を超えて再び自分を立ち上がらせてくださるという神への信頼でした。そして、人々が罪から解き放たれて神と結び合わされて生きることができるようになるためには、主イエスが十字架のうえに死ぬことの他に選択肢はないということでした。

 主イエスは、エルサレムに上っていけば、ご自分に十字架の死がやってくることがよく分かっておられました。それでも、主イエスは神に全てを委ねて、死を超えたその先に消えることのない希望があることを信じて、エルサレムに向かって歩み出します。変容貌の物語は、このような苦難の先に人の力では創り出すことの出来ない栄光がある事をここに先取りして描き出しています。

 そのように歩み出す主イエスは、この信仰の中に弟子たちをも招いておられます。「これに聞け」と言う天の声は、主イエスに従っていきなさいという意味です。それは、ただ私たちが自分を押し殺していたずらに死へと向かうように歩むことではありません。それが神の御心だと信じるのなら、失敗や挫折や自分の限界を超える困難の先に、神は尽きない喜びを与えてくださることを約束してくださっているのだから、厳しい今を主イエスに導かれて歩みなさいということです。私たちは、主イエスのどこに神の子の輝きを見ようとするのでしょう。

 私たちは十字架の死の先にある復活を希望とし、復活をお与え下さる神に信頼して大斎節を迎え大斎節を過ごしたいと思います。この水曜日に始まる大斎節を信仰の養いと導きの時とし、主イエスに従い甦りの命にあずかる信仰を確かなものに出来るよう、共に祈り求めましょう。

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2023年02月14日

神さまの大きな手の中で (あいりんだより2009年7月号)

神さまの大きな手の中で                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        

「天は神の栄光を物語り、大空は御手(みて)の業を示す。

昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。

話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても

その響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう。」(詩編第19編2節)


 今年は夏休みに入る頃の日に、日本でも場所により皆既日食を観測できると話題になっています。わたしは夏が近づくと上記の詩編の言葉を思い出します。七夕の季節だからでしょうか。この言葉は、神さまのお働きが静かに力強く進んでいることを感じさせます。そして、神さまの御手の働きが、いかに荘厳雄大であるのかについて改めて気付かされます。わたしたちも、一人ひとりがこうした神さまの御手の中で、無数の星のなかの一つである地球の上に、ほんの一瞬とも言える時を生かされているわけです。

 ところで、神さまに創られたもの(被造物)の中で、わたしたち人間のように物事を考えたり理解したり思い巡らせることのできる被造物は他にいるのでしょうか。上記の詩編のような言葉で神をほめたたえることのできる生き物は人間の他にいるのでしょうか。もしかしたら、人間は創られたものの中でも特別な存在なのではないでしょうか。

 詩編の言葉を借りて言えば、天は存在することで神の栄光を物語っています。この地球上でも、神に創られた野の花はありのままの姿で咲くことで神を賛美し、空の鳥もありのままにその鳥らしくさえずって創り主である神さまをほめたたえます。さて、わたしたち人間はどうでしょう。わたしたちも生きていること、存在していること自体が、他の被造物同様に尊いと言えます。でも、わたしたち人間はそれだけではありません。

 わたしたち人間は、他の被造物以上に、自分が神に創られたものであり、尊い命を生きていることを自覚しています。わたしたちは、神を思い、自分を思うと同時に、他の人々に思いを寄せ、互いに「自分のように隣人を愛し」て生きるのです。そして、他の被造物以上に自覚して、創り主である神に応えて神をほめたたえ、他の被造物にはできない人間としての行為(善悪を知り、自覚して善を行うことなど)によって神さまの御心をこの世界に実現していくべき存在なのです。先月この欄で、わたしたちは神が「良し」としてくださった世界に生かされていることを記しました。「良し」とされた世界に生きるわたしたちは、満天の星空を見上げたり、大自然の中に包まれたりしているとき、神さまの御心を理解する心の通路が豊かになるのではないでしょうか。わたしたちは、神の御手の働きを、その作品である自然をとおして理解し、その無限の大きさを実感するのかもしれません。

 夏はそうした自然の恵みに触れる絶好の機会です。是非、各ご家庭でも良い経験を重ねる夏休みをお過ごしください。

 わたしたち人間がこの世界の素晴らしさとその恵みを認識して味わい知ることができ、そのことを言葉で意識的に詳しく表現できることの大切さを再確認したいと思います。わたしたちはこの世界の置かれている状況を認識して更に良いものに創り上げ、神さまのお考えをこの世界に具体化してく使命が与えられているのです。そして、その使命をしっかり生きる人を育むことがキリスト教教育の目指すところであると言えます。

 自然との豊かな交わりの経験を重ね、神さまとのつながりを自覚し、より深く神と人々との交わりの中で生きることができるようになりたいものです。それは、子どもたちだけの課題ではなく、この世に命を与えられて、自覚的に神をほめたたえることができる人類の課題なのかもしれません。

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2023年02月13日

確かな秩序と方向を  (あいりんだより2009年6月号)

確かな秩序と方向を                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             


 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。                (創世記第1章3~5節)


 神さまは、天地創造のお働きを、混沌とした闇の世界に「光あれ」と言って光と闇を分けることでお始めになりました。きっと心を込めて一日一日の働きを進めたことでしょう。そして神さまは、第6日の最後に神ご自身のお姿に似せて人間をお造りになりました。神さまはそのお働きを「良し」とされています。

 わたしたちは、神さまがお造りになって「良し」とされた世界に生かされているのですが、それだけではなくわたしたち人間もまた神さまから「良し」とされた存在です。ことに人間は、神さまの似姿に造られましたので、わたしたちにはこの世界で神さまのお考えを具体的に示す働きを担う責務があるのです。わたしたち人間は、神さまがこの世界をお造りになって愛しておられることを、人として生きることをとおして示していくのです。

 日本語の「愛」は意味が広く曖昧な言葉ですが、聖書の「愛」とは神がお与えになった命が本来の姿を現すように関わり続けることを意味します。神さまは、いつもわたしたちに関わり続けていてくださり、ことにわたしたちの心に、問いかけ、働きかけ、わたしたちの成長を促していてくださいます。わたしたちは、日々神の問いかけに答えながら、正しいこと、本当のことを判断しながら生きているのです。

 神に愛されて生きている人間にとって、自分と他人を愛することが生きる基本です。でも、自分と他人を愛することは、「何をしても構わない」とか「子どもの願いを何でも言いなりになって叶えてあげる」と言うこととは違います。それは放任であり、神さまから与えられた生きる使命を放棄する無責任な生き方であるとも言えるでしょう。特に子育てや教育にあっては、愛の確かな秩序と方向性が必要なのです。

 たとえば、トマトの苗が伸び始めたとき、その生長を支えるためには支柱を立て脇芽を摘んでこそ立派な実を結ぶことになるように、わたしたちは人としての存在を損なうような悪や危険から子どもを守ることも必要ですし、真実と深く向き合う力を養えるようにしっかりと子どもの心と向き合うことが求められるのです。

 それは、時には子どもにとって自分の思い通りにならない経験になることもあるでしょうし、親子で努力を要する課題となることもあるでしょう。そのような時にも、私たちは神さまが私たちを祝し導いていてくださることを信じて、確かな歩みを続けていきたいと思います。

(あいりんだより2009年6月)

posted by 聖ルカ住人 at 20:07| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年02月12日

 My聖書のすすめ

 教会で、一同で聖書を開く機会が少ないと、聖書の並び順を知っておきたいという思いも湧かないのかもしれません。そのような状況の中でも、いや、そのような状況だからこそ、旧約新約をあわせた一冊の自分の『聖書』をお持ちになり、主日礼拝にも是非その聖書を持参することをお勧めします。

 日本聖公会では日本聖書協会発行の1954年版新約及び1955年版旧約を合わせた『聖書』、『聖書-新共同訳(旧約聖書続編付1987年版』、『聖書-聖書協会共同訳(旧約聖書続編付(2018年版)』が公の礼拝で用いられるように認許されています。

 毎主日の聖餐式で拝読される聖書日課(旧約、使徒書、福音書)箇所は決まっていますので、多くの教会では礼拝中の煩雑さを避けるために聖書箇所を抜き出して印刷したり、『特祷・聖餐式聖書日課集』(ABC年別)を用いたりして礼拝しています。そのために一冊の『聖書』をあちこちのページを開く機会が少ないのではないでしょうか。

 今から20数年前のことになりますが、「聖書の順番を覚えましょう」という録音テープをつくり教会員に配布したことがありました。教会のオルガニストと歌唱の上手な信徒の方にお願いして「鉄道唱歌」のメロディにのせて幾度も演奏していただき、その一つを幾つもダビングしたのです。

「創、出、レビ、民、申命記、ヨシュア、獅子、ルツ、サム、列王、歴代、エズ、ネヘ、エステル記、ヨブ、詩、箴言、コヘレ(伝道)、雅歌。イザヤ、エレ、哀、エゼキエル、ダニ、ホセ、ヨエ、アモ、オバデヤ書、ヨナ、ミカ、ナホ、ハバ、ゼファ、ハガイ、セゼリヤ、マラキ、39」

「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、使徒、ロマ、コリント、ガラテヤ書、エフェソ、フィリ、コロ、テサロニケ、テモ、テト、フィレモン、ブライ書。ヤコブ、ペトロⅠⅡの書、ヨハネ3巻、ユダ、黙示、新旧両約合わせれば聖書の数は66。」

 上記は新共同訳準拠です。「鉄道唱歌」を知らない人は「友だち賛歌」のメロディでどうぞ。

 このテープ作りをしている時、言葉とも言えぬ言葉が歌われるのを(プロデューサーとして)脇で聴いていると、私の中に不思議な感覚が生まれてきました。

 これら旧・新約66書の『聖書』の順番は、厳密に史実を古い方から並べているわけではありませんが、その全体は主なる神がこの世に働きかけてこられた壮大な歴史絵巻のタイトルがズラッと並んでいるように思えてきなのです。そして、聖書を読むと言うことは、この大きな神の救済史を意識して、その中のどの箇所を読んでいるのかを頭の片隅においてそのメッセージを受けることなのだという考えが生まれてきたのです。

 例えば、主日の聖餐式で、旧約聖書、使徒書、福音書の聖書日課を読み、旧約聖書には詩編の言葉で応答するすることも、聖書全体の中のどの部分からみ言葉を受けているのか意識することで、その主日のメッセージの意味はよりハッキリしてくると思えるのです。

 そう考えると、読まれていない部分も含んだ分厚い聖書を手にして当日の日課を読み(或いは聴き)メッセージを受けることはとても大切なことであると言えるでしょう。

 聖書を読む時、その箇所の前後関係を意識しながら読むことが大切です。説教の中でも、時に当日の日課の範囲を超えて流れや同じ語句が用いられている箇所を実際に聖書を開いて確認したいことがあります。その意味でも私は「日課集」や抜き刷りではなく、実際に「My聖書」を手に礼拝することをお勧めしたいのです。

 自分の本なら、その中に書き込みをしたり線を引いたりすることもできます。自分の本であっても礼拝用書専用にして書き込みはしたくないという人がいれば、是非2冊をお持ち下さい。

 『聖書-新共同訳』が発行され、それに応じるように『日課集』が発行された当時、教役者の会合である老司祭が『日課集』を「こんなくだらないもの作って・・!」と苦々しい表情で言っておられたことを昨日のことのように思い出します。

 『日課集』は公の礼拝での朗読には便利ですが、一冊の聖書を開く機会を減らしたという意味で私はその老司祭に賛成です。

 管区では祈祷書改正の作業も進んでおり、数年後には祈祷書が改訂されます。その時には『聖書-聖書協会共同訳』が用いられるようになるでしょう。いずれにしても主日礼拝にも『My聖書』持参の習慣をつけましょう。

(東松山聖ルカ教会教会通信『マラナ・タ』2023年2月号)

posted by 聖ルカ住人 at 23:19| Comment(0) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする