2023年01月29日

幸いは貧しい人に  マタイにいよる福音書第5章1-12  顕現後第4主日

幸いは貧しい人に マタイにいよる福音書第5章1-12  顕現後第4主日    2023.01.29

 今日の聖書日課福音書には、マタイによる福音書のいわゆる「山上の説教」のはじめの部分が取り上げられています。

 マタイによる福音書全体を見渡してみると、福音記者マタイは、主イエスの「言葉(説教)」の部分と「行い」の部分を交互に繰り返す形で編集しており、今日の聖書日課福音書は、第5章から第7章までが一纏まりの最初の「言葉(説教)」の部分です。そして、その後に第8章と第9章が癒しを中心にしたイエスの「行い()」の部分、そして第10章と第11章が弟子たちを派遣するに当たっての主イエスの「言葉(説教)」の部分と続き、マタイによる福音書全体が大きな「言葉(説教)」の纏まりと「行い」の纏まりを交互に示しつつ展開するように編集されています。

 今日の聖書日課福音書は「山上の説教」の冒頭であり、主イエスが人々に公に教えを述べられた最初の箇所のその最初の部分です。つまり、この箇所は、主イエスが公生涯で最初に教えを宣べたその始めの言葉と位置づけられます。

 主イエスは、弟子たちや多くの群衆が見守る中、口を開き、話し始めました。

 「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」

 主イエスに限らず、公の場で人が第一声に何を言うのかは、重要な意味を持っています。その人が最初に何を言ったのかは、その物語全体を暗示したり方向付ける大切な意味を含んでいることがあります。ましてこのマタイによる福音書が、み言葉とみ業の部分をまとめて意図的に編集をしたことが明らかであれば、マタイが伝えようとした主イエスのお姿がその山上の説教の第一声によく示されていると考えられます。その言葉が「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」です。

 日本語訳では主語になっている「心の貧しい人」が冒頭に来ていますが、この訳し方は整い過ぎているように思えます。

 大勢の人々を前に話す主イエスを想像して訳せば、この箇所は「幸いなのだよ、魂の貧しい人たちは!」となるのではないでしょうか。

 主イエスは、ご自分の周りに集まって来た人々に向かって、神のお与えになる幸いを宣言することから教えを説き始めました。主イエスのこの宣言は、この教えを聞いている人々の中に、大きな衝撃を与えたことでしょう。

 「幸い」についての内容があまりに違うからです。

 私たちにとって「幸い」とは何でしょう。また幸いの条件とは何でしょう。

 『広辞苑』で「幸い」を引いてみると、「運が良く、恵まれた状態にあること。幸福、幸運」と記されいます。多くの場合それは自分の欲望が満たされている状態を意味するのではないでしょうか。

 「自分の幸せ」と考えた時、おのおの具体的な中身は違っても、例えば家内安全、商売繁盛、健康維持、学力増進、身内の平穏無事などなど、自分の願いや欲求が満たされかつ平穏であることが幸いだと考えるのが一般的です。

 でも、主イエスは、幸せがそのようなものだとは言いませんでした。

 主イエスは「心の貧しい人々は幸いである」と言っていますが、この言葉をもっと原文の意味を強めて言うならば、「祝福されている。欠乏している人、霊において。」となります。

 他の日本語訳の聖書では、この箇所を「ただ神により頼む人は幸いだ。(共同訳)」とか「心底貧しい人たちには、神からの力がある。(本田哲郎神父訳)」と訳しています。また「頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ。(山浦玄嗣訳)」とも訳されています。

 自分の無力を知って、全てのことを主なる神に委ねて寄りすがるほかない人々こそ祝されている、と主イエスは言っておられるのです。

 「貧しい(ptωχοsピオーコス)」という言葉にも注目してみましょう。

 この言葉は「背を曲げる、恐れで縮こまる、萎縮する」という意味から生まれた言葉であり、神の前に救いを求めて屈むことが「貧しい」の意味です。つまり、神に祝される人とは、多くの苦難の中でも神に寄りすがって神との交わりを求めて止まない人々なのだということなのです。

 人は誰でも一生に2度そのような意味での自分の「貧しさ」を曝して、主なる神の前に出る時があるのではないでしょうか。その時とは「誕生」の時と「死」の時です。その時、私たちは命の与え主であるお方の前に全てを任せるほかありません。

 特に「死」はそれまでどれほどの財を築き業績を上げようと、全てを手放して自分を誰かに、何かに、お任せするほかありません。このように人は誰でも、他の何も頼みとすることが出来ず、死の先にまで全てを支配しておられる方に全てをお任せする以外に何も出来ない時があるのです。その時、人は誰もが自分の貧しさを知ってその受け容れるほかありません。

 主イエスは、そのような貧しさを死の間際にだけではなく、生きている真っ直中で味わっている人や味わわざるを得ない人は幸いである、神からの祝福をいただいている、と言っておられるのです。

 今、主イエスを取り囲んでいるのは、神の前に差し出せるものなど何もなく、もしあるとすればそれは貧しい自分だけ、という人たちです。主イエスはそのような人々をじっとご覧になって「幸せなのだよ、あなた方は」と言っておられます。私たちが自分では何も良い評価を与えることも出来ず、低く、悪く、貧しく捉えることしか出来ないようなことや、自分では認めたくない貧しさをも、主イエスは受け容れてくださり、その人を認めてくださり、その人を幸いな者、神に祝福されている者へと一挙に変えてくださいます。

 主イエスは、宣教の始めに先ず貧しい人々の幸いを宣言してくださいました。これが主イエスの「公生涯における宣教の第一声」であり、主イエスはこれからこのテーマを十字架の死に向かって生きていかれます。

 教会とは、このような貧しい自分を受け容れてくださり、愛してくださり、祝福してくださる主イエスによって生かされようとする人々の集まりです。その信仰以外に教会員であることの資格は必要ありません。

 パウロは今日の使徒書の中でそのことを教えています。

 パウロは「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」と言っています。人間的な知恵、能力、家柄などを誇ることは、人の心が神に向かうことを妨げます。人間的な知恵、力、家柄などは、人の「貧しさ」を自覚させず、そこに生まれる不遜や傲慢は人が神と出会う道を閉ざす誘惑にさえつながるのです。私たちが自分の貧しさを認めて神の前にその自分を開くときに、神は貧しさを幸いに変えて祝福してくださいます。パウロはユダヤ人ベニヤミン属の生まれでファリサイ派教育を受け、その自分を誇っていました。パウロは、主イエスが律法の細則を守らずに汚れた人々に関わることに我慢できず、その信仰を持つ人を受け入れられずに迫害しましたが、やがてキリストと出会って回心し、「自分の弱さを誇ろう」と言い「私は弱い時にこそ強い」とまで言うように導かれました。

 主イエスは私たちのことも弱さに生きるように導いてくださいます。本来、私たちが、貧しく価値の無い者でありながらも教会に集い生きることが出来るのは、私たちの貧しさの中に宿って力を与えてくださる主なる神の愛を知っているからです。

 主イエスは、ご自身の説教の第一声で、ただ神により頼むほか無い貧しい人たちの幸いを宣言してくださいました。しかも、主イエスはそれを説教によってお示しになっただけではなく、ご自身の行い(み業)の中で、貧しさに徹して生きぬいてくださり、貧しい人の幸いを身をもって示してくださいました。

 主イエスは言っておられます。「天の国はその人たちのものである。」

 「天の国」とは、神の御心が現れ出ている姿であり、私たちの中に神の御心が行き渡っている状態を意味しています。神の前に自分の弱さ、貧しさを知り、ただひたすら神により頼む人々に神の国の姿が現れ出ることを主イエスはご自身の教え(説教)の第一声とされたのでした。

 私たちも自分の貧しさに気付き、受けいれ、そこに働く主イエスの恵みによって祝され、天の国の喜びに与らせていただきましょう。主イエスが宣言された「貧しさの中にこそ与えられる祝福」に生かされて参りましょう。


posted by 聖ルカ住人 at 21:00| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする