冬、来たりなば・・・。
神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。 (コリントの信徒への手紙Ⅰ 10:13)
私は、この正月ひどい風邪をひいて寝込んでしまいました。ただうなって寝ているほか何もできない自分をもどかしく思いながらも、症状に耐えて横になっているとき、上記のタイトルや聖書の言葉が脳裏に浮かんできました。
「冬、来たりなば、春遠からじ。」
日本には季節の移り変わりがあって、四季にはそれぞれの美しさがあります。私が小学生の時、強い木枯らしに打たれながら過ごす冬の日々の生活の中で、当時の担任の先生が教えてくださった言葉が今も思い出されます。それは単なる季節の移り変わりを表す言葉ではなく、厳しく辛い状況の中にも希望を抱いて生きることを促す言葉であったように思います。
しっかりと冬を越した年の桜は美しいと言われます。また、寒さに当たらなかった水仙やヒヤシンスなど春の花は咲きが良くないとも言われます。これらのことは単に目先の悩みや苦しさをごまかす言葉ではなく、私たちをより深い真実へと向かわせる言葉なのではないでしょうか。
時々、私たちは、子育てが一直線に順調に進むものではないことを思い知らされます。それは、ちょうど高くジャンプしようとするなら一度膝を折って体を沈み込ませるのと同じように、子どもたちも精神的に成長しようとするとき、これまでの自分が崩れるような経験をしたり再構築しなければならないからなのではないかと思うのです。樹木が四季を過ごして年輪を作るように、子どもたちも試練を越えてこそたくましく育つのです。
たとえば、プラレール遊びの中で小さな単純な円形のレールを構成して満足していた子どもが、もっと沢山レールをつないで電車を走らせようとするのなら、一度はその小さな円形のレールをはずして、直線レール、曲線レール、切り替えポイントなどを使って、しかも最後にはすべてをつなぎ合わせて電車がいつまでも走るようにすることを学んでいきます。それと同じように、子どもは自分を作りかつ崩し、伸びる時としゃがみ込む時という成長の四季を繰り返しながら、一段と大きく育っていくのではないでしょうか。
今は、寒い冬の時期です。やがて、立春になる頃から、季節は三寒四温を繰り返しながら春に向かいます。子育ても、私たち大人の思い通りにならないときこそ、子どもたちの新しい可能性への歩みが始まるのかも知れません。それは、神さまが私たち大人に対して、子どもの新しい可能性に気付かせるために与える試練なのかも知れません。
私は寝床でうなりながら、こんな言葉も思い出していました。
「花の咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて花咲く春が来る。」
子育ての基本は小手先のことではありません。子どもの抱える課題も、一朝一夕に解決できない場合の方が多いのではないでしょうか。
比喩的な言い方になりますが、寒さの厳しいときにこそ子育ての基本に戻りましょう。(あいりんだより2009年1月号)