眼差し 園長 小野寺 達
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。」(ヨハネによる福音書第8章12節)
子どもたちは、しばしば大人の眼差しを求めています。
例えば、よちよち歩きの子どもが母親より先に歩いていて、道ばたに大きなミミズを見つけたとしましょう。その子どもは後ろにいるお母さんを振り返ります。そして、お母さんとしっかりと視線を合わせると、ミミズの先まで更に遠くよちよちと歩いていくのです。また、縄跳びができるようになった子は「お母さん、見ててね。」と言わんばかりの視線をお母さんに向けて縄跳びにチャレンジし、できると「ホラ、上手になったでしょ」と誇らしげにお母さんに視線を向けて、お母さんの眼差しを求めます。
心理学の世界では子どものこのような動きをソーシャル・リファランスと呼んでいますが、子どもばかりではなく、人は誰でも「重要な他者」の眼差しを求めて承認を得ながら自分を確認していくのでしょう。この確認がいつも確かであれば、人は自分に自信を持てるようになり、更に他の人に対しても積極的に相手を支える関わりができるようになっていきます。この確かな眼差しを受ける経験が乏しいと、他人の気を引こうとして自分の本心とは違うのに目立つようなことをしてみたりトラブルを起こしたりすることにもつながります。また、自分にとって大切な人からの確かな眼差しを受けられない子どもは、自分の存在感がぐらついたり、何をやっても認めてもらえない思いを深めて無気力になっていく場合もあるようです。でも、確かな眼差しを受ける子どもは、多くの場合、大人が見守っているだけで遊びの質は深まり発展していきます。
子どもを自由に遊ばせることとは、決して放任したり子どもに無関心でいたりすることではありません。自由に遊ぶ子どもにしっかり心を向けて暖かな眼差しを送ることは子どもの成長に欠かせないことであり、しっかり見守る大人が子どもの経験を共感しながら適切な言葉をかけていくことは子どもの情緒の安定にとって大切な要素です。また、私たち大人は、子どもを大きな危険や悪事から守ることも大切なことであり、そのためにも子どもたちをしっかり見守ることを忘れてはならないでしょう。こうした眼差しの中で、子どもたちは内在する成長力を少しずつ表に示すようになってくるのであり、具体的にできるようになる一つひとつの事柄はその成長力の実りであるといえるでしょう。
秋の深まりを感じる季節になりました。今月は幼稚園でも小さな三角畑でさつま芋掘りをいたします。収穫の秋、実りの秋です。5月に植え付けたさつま芋が土の中でどのように育っているのか、掘り上げるのが今から楽しみです。自然の豊かな恵みを感謝するとともに、改めて子どもの内的な成長と収穫についても振り返ってみたいと思います。目に見えてできるようになったことも沢山あります。でも、目に見えてできるようになったことの支えとして、私たちは家庭で、幼稚園で子どもたちにどのような眼差しを向け、どのように言葉をかけてきたのかを振り返り、一層豊かな眼差しと言葉かけができるようになっていきたいと思います。
たくさんの太陽の光を受けたさつま芋が大きく太くなるように、暖かな眼差しの中で子どもたちはその成長力を一層パワーアップしていくことでしょう。
そして、私たちがこうして生かされている根源には神さまからの温かい眼差しがあることを信じたいと思います。
(あいおんだより2008年11月)