2023年01月19日

59. 鶏(雄鶏) αλεκτωρ アレクトール

鶏(雄鶏) αλεκτωρ アレクトール

 鶏 αλεκτωρアレクトールという言葉は、「聖書のキーワード」として取り上げるには相応しくないかもしれません。聖書の中でキー概念となる言葉ではないからです。でも、聖書にある言葉として興味深いものがあり、取り上げてみました。

 教会の建物のてっぺんに風見鶏が立てられていて、「教会なのに十字架ではなくて、なぜ鶏なの?」と思った方はいますか。風見鶏は、「聖霊」の表現でもある「風」に反応するものの象徴として聖堂の屋根の高いところに立てられていることがあります。

 さて、聖書の中で鶏(αλεκτωρアレクトール)が出てくるのは、弟子のペトロがイエスのことを否認する場面であり、4福音書ともにこの場面で鶏が鳴いています。

 イエスは、最後の晩餐のあとに、ご自分の十字架の死を予告しますが、その予告を受け入れられないペトロにイエスはこう言いました。

 「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは3度、私を知らないと言うだろう(マルコ14:30)。」

 やがて捕縛されたイエスは大祭司の館の外で取り調べを受けますが、その場にそっと潜り込んだペトロは、その館の女から「この人はあのイエスの仲間だ」と言われて、イエスを否定し呪いの言葉さえ用いて「知らない」と言ってしまいますが、その時、鶏が鳴き、ペトロはイエスの言葉を思い出して泣き崩れたのでした。

 鶏は、人を寝床から起き上がらせる存在であり、人を我に返らせる存在の象徴とされます。

 αλεκτωρアレクトール(鶏)とφωνηフォーネー(声)を合わせてαλεκτροφωια(アレクトロフォニア:鶏の鳴く時刻)という言葉が、たった一度だけ(マルコ13:35に)出てきます。この鶏が鳴く時刻とはローマ式の時間区分によれば「第3の見張り時(夜中の12時から午前3時」であり、ペトロがイエスのことを「知らない」と言い、鶏が鳴いたのは午前3時頃のことだったと思われます。

 ここからは聖書物語のジョークです。

 天国の鍵を授かったペトロは、この世の生涯を終えた人々がそこに入るに相応しいかどうか判定するために、天国の門で番をしています。そこにかつてイエスを売り渡したイスカリオテのユダがやってきました。ペトロはユダを追い返しますが、しばらくすると再びやって来てユダは追い返そうとするペトロの耳元で何かをそっと囁きました。するとペトロは急に表情を変えてユダが天国のを門を通ることを許したのでした。

 この様子を見ていた他の弟子たちはユダに「お前、ペトロに何を言ったんだ?」と尋ねると、ユダはニヤリと笑って言いました。

「俺は一言コケコッコーって言ってみたのさ。」

posted by 聖ルカ住人 at 22:00| Comment(0) | 聖書のキーワード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

体感

体感     園長 小野寺 達

岩を土台としていたからである。(マタイによる福音書5:25

 先日、医院の待合室で何気なくある『子育て誌』を手にとってみました。その雑誌の特集に「夏こそトイレットトレーニングのチャンス」というコーナーがありました。大筋はどんなことなのか想像しながら開いてみました。

 しかし、その覧を読み始めて私は思わず「ここまでやるの!?」と声に出してしまい、待合室にいた人が私の方を見て苦笑いしていました。

 私を驚かせた内容とは、2,3歳の子どものトイレットトレーニングについて、「まず子どもに排尿の感覚を得させましょう」ということから説明を始めていたことでした。今から二〇年ほど前に子育て真っ盛りだった私にとって、我が子が2,3歳の頃には、既に子どもが排尿感覚を持っているのは当たり前のことと考えられました。私は、オシッコをしてしまった我が子が自分でパンツを下げながら「チーチ出ちゃった」と言っていたことを昨日のことのように思い出します。

 現代の子どもたちは、ある意味とても守られた環境の中にいます。例えば、排尿しても不快感を味わうことのないすぐれた素材の紙おむつ。季節を問わず温度を保ち除菌した空気のでるエアコンのある部屋。乗っていればあたかも自動的に目的地に到着するかのような移動。遊ぶことも、座っていれば画面の中でどんどん場面は展開していきます。そして、食べる物にしても骨を取り除いた魚に完全調理されたカレーやハンバーグなどなど。このような意味で守られた環境では、かえって子どもの身体的感覚は育ちにくく磨かれにくいのではないでしょうか。そして、実はこどもの対人関係はまずます希薄になってしまっているのではないでしょうか。だからこそ『子育て誌』の特集も子どもに自分の身体感覚を掴むようにさせることから始めているのでしょう。

 さて、それではこうした環境に置かれた子どもたちに対する私たち大人の責任や課題は何でしょう。その答は、難しい表現になってしまいますが、子どもの心身の感覚を共感的に理解して言葉をかけたりスキンシップをすることを増やすことだと思います。なぜなら、子どもに限らず私たち人間は他者との対話(コミュニケーション)を通して自分の認識を深めたり確認することができるからです。努めて一緒にいる機会を持ち、子どもの取り組んでいることに手は出さずに目を掛け、形容詞を使って子どもの気持ちに共感する言葉をかけてあげるのが、子ども自身が身体感覚を養っていくことの基本だと思います。また、ブランコ、トランポリン、でんぐり返し、鉄棒、かけっこなど、その他何でも積極的に体を動かす遊びを通して、その場での感覚や感触を言葉に表現できるように支援していくことも大切なことです。

 スポーツの秋。寒くなる前に、屋外でたくさん体を動かして遊ぶ時を作りたいと思います。筋肉の緊張とリラックス、手足のバランス感覚をはじめ、子どもたちのあらゆる身体感覚を豊かに、しかも鋭く育てていきたいと思います。

(あいりんだより2008年10月)

posted by 聖ルカ住人 at 15:26| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする