歓 声
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマの信徒への手紙第12章15節)
私が職員室でパソコンに向かっていると、保育室の声が聞こえてきます。ある日の、いわゆる朝の「集会」の時間です。M先生の張りのある声がここまで届いてきました。
「今日はもう一つみんなにお知らせがあります。入院してお休みしていたMちゃんが、今度の土曜日に退院することになりました。」
クラスのみんなから歓声が沸き起こりました。そこに「やったー!」という声も混じっています。私は、子どもたちの中にある優しさ、純粋さ、温かさに触れ、胸が熱くなる思いでした。Mちゃんの手術前には、クラスの子どもたちをはじめたくさんの人が祈りを込めて千羽鶴を折って、担任のM先生がお届けしたのでした。
聖書の中に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマの信徒への手紙第12章15節)という言葉があります。そのような感性が子どもたちの中にあって、ちょっと大げさな表現になりますが、あの歓声は私の中に「人間って良いものだ、世の中捨てたものじゃない。」という思いを再確認させてくれる出来事でした。
今の世の中は、対人関係がどんどん希薄になる傾向があり、確かな人間関係の中で自分を再確認することのできる場も少なくなってしまったように思えます。でも、私たち人間は生きた手応えの中で自分を再確認しながら生かされていくものではないでしょうか。その手応えを得る機会の乏しい現代人の中には、共感してくれる人のいない寂しさを、それとは意識しないうちに形を変えて病理的に表現する人もいると指摘する人もいます。
私たちは自分が嬉しいときに周りの人にどんな反応を求めているでしょう。また、悲しんでいるときにどんな反応を受けているでしょう。
子どもたちがあのような歓声を上げられる感性は、一朝一夕には生まれ育ちません。それはきっと子どもたちがまだ赤ちゃんで「バブバブ」といっていた頃に、お母さんが赤ちゃんとしっかり目を合わせて、柔らかい笑顔で「おやー、そう、バブバブね。」と応じていた頃から育ってきたのではないでしょうか。
キリスト教の保育とは、小さいときから倫理や道徳とその行動様式を厳しく訓練するより、まず暖かく豊かな心の交流のある人間関係を子どもに体感させることにあると私は考えます。
そうであれば、まず子どもに先駆けて心底暖かく豊かでなければならないのは私たち大人であるはずです。神は、なかなかそうなれない私たち大人にあの歓声を通して小さな神の国の姿を示して、私たちが神の絶対的な愛を受け入れるように招いておられるのではないかと思うのです。
(2008年7月あいりんだより)