イエス、洗礼を受ける マタイによる福音書第3章13-17 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 2023.1.08
今日、顕現後第1主日は、「主イエス洗礼の日」です。
主イエスの公生涯は、主イエスご自身が洗礼者ヨハネから洗礼を受けることで始まっていきます。
私たちはこの主日に、主イエスが洗礼を受けて、この世に生きる私たちと共にいてくださる徴として洗礼を受けてくださったことを感謝したいと思います。
人類学、民俗学、宗教学などの分野の用語に、「通過儀礼(イニシエーション)」という言葉があります。人が、個人としてまた集団として生きていく上で、その生き方がある段階から次の段階に深まったり昇ったりする節目に執り行われる儀式のことを言います。
イスラエルでは、生まれて8日目に割礼を施しますが、それはその幼子がイスラエル民族の一員であることを示すための徴を身に記す大切なイニシエーションです。幼子はそのことを未だ自覚する年齢ではありませんが、イスラエル民族の一員である徴を身に受け、家族や同朋に迎え入れられ、見守られながら育つ上で大切な儀式であることは、今も変わりありません。
主イエスも生まれて8日目に割礼を受け、イエスという名を付けられましたが、それから30年ほど経って、イエスは公に宣教の働きを始める時が来ます。
主イエスにとって、ナザレでの大工として生きてきたことから公に宣教の働きへと転換していくとき、洗礼者ヨハネから洗礼を受けることは大切なイニシエーションであったと言えるでしょう。
その頃、洗礼者ヨハネはヨルダン川で人々に洗礼を授ける運動をしていました。ヨハネは、まことの救い主が世に現れる時は満ちており、その救い主にお会いする備えとして、罪を告白して悔い改めるように、その徴として洗礼を受けるように勧め促していました。
主イエスは、30歳の頃、ヨハネが洗礼を授けているヨルダン川にやって来られました。きっと沢山の人が列をつくり、順にヨハネの前に進み出て自分の罪を告白して祈り、ヨルダン川に身を沈めていたのでしょう。そして、主イエスが身を沈める番になり、川の中にいるヨハネの前に進み出ます。ヨハネは驚き、主イエスに洗礼を施すことを躊躇いました。
洗礼者ヨハネは、目の前のイエスが誰であるかを知っていました。ヨハネは自分がイエスに悔い改めの洗礼を授けるのに相応しくないことを知っていました。そうではなくて、主イエスが自分を生かしてくださるお方であることをよく理解していたのです。
ヨハネはこう言いました。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
これに対して、主イエスはお答えになりました。
「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは我々にふさわしいことです。」
これまでナザレで大工ヨセフの子として生きて来たイエスが、人々に神の国を宣べ伝えて生きていくへと変わる大切なイニシエーションを、今洗礼者ヨハネの前でヨルダン川に身を沈めてなさろうとしておられます。
水の中に身を沈めることは古い自分が水の中に葬られてそれまでの罪が洗い流されることを表し、水の中から上がることは罪のない新しい自分として再び生まれる事を表します。
本来は罪のない主イエスがヨハネから敢えて洗礼をお受けになるこの儀式には、ナザレで生活してきたこれまでの自分から「人の子は枕するところもない」と言われるまでになって神の国の実現のために命を献げる大切な意味が含まれています。同時に、主イエスが洗礼をお受けになることは、やがてこの世の罪人のために死んで復活なさる「死と甦り」のテーマを宣教の公生涯のはじめにお示しになったことと意味づけることもできるでしょう。
洗礼者ヨハネは主イエスの洗礼を思い止まらせようとしますが、主イエスは「正しいことをすべて行うのは『我々に』ふさわしい」と言っておられます。ここで主イエスが敢えて「我々に」と複数形で言っておられることに注目してみましょう。
主イエスが洗礼を受けることは主イエスだけにとって大切なことなのではなく、洗礼者ヨハネによっても大切なことであり、それだけではなくこの世界の人々にとって、またこの世界の歴史の転換点であるという意味においても大切なイニシエーションであったと言えます。
神さまが私たち一人ひとりに与えて下さった使命とそのご計画は、人それぞれの顔立ちが違うのと同じように、それぞれの人に固有であり、仮に表面的には同じ仕事をしてもその意味は一人ひとり違います。私たちはそれぞれに与えられた取り替えることの出来ない人生を、主イエスに同伴していただきながら歩みます。私たちが正しく神の御心を行おうとする時、その傍らにはいつも主イエスがいて下さることを、主イエスはここで「我々」という言葉を用いて示して下さっていると考えてみましょう。神の子がこの世界に来られて罪人の側に回って下さり、罪人と共に生きて下さり、罪が赦されて一人ひとりが大切は人として受け容れられ、生かされる新しい世界がここに始まるのです。
このように、主イエスがヨハネから洗礼をお受けになることは、イエス個人的なことなのではなく、主イエスとヨハネの二人にとっても御心が実現していく大切な出来事であり、それはまた主イエスと今を生きる私たちにとっても大切な事なのです。
この世に、貧しくされ弱くされている人々がいる以上、その人々が認められ癒され解放されるように自分の使命を全うするのは、主イエスにとってもヨハネにとってもまた私たちにとって相応しいことであり、今、そのイニシエーションが行われるのです。
そして、主イエスが洗礼をお受けになって水から上がると、すぐに天が裂けて神の霊が主イエスに降りました。当時の人は、天はドームのようになっていて、神はその天蓋の上でこの世界を支配しておられると考えました。主イエスが洗礼を受けてこの世に神の国を伝える働きをお始めになることは、天におられる神とこの世の主イエスの間に何の隔てもない姿が実現することであり、神自らが天を開いてその繋がりを示されたということです。そして、主なる神は、この主イエスのことを「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と言って祝福なさいました。主イエスの洗礼によって、罪ある人が裁かれて滅びることなく、主イエスによって再び生まれ、正しく生きる力を得て神さまのご計画の中に命を得ることが示されたことは天の喜びなのです。
主イエスが神と私たちとの間にある罪の隔てを取り除いてくださり、私たちはこのお方を信じる信仰によって、誰でも、分け隔て無く、神の御前に進み出ることが出来るようになりました。それは主イエスがただ独り罪無きお方としてこの世の生涯を送ったということに留まらず、神の子が私たちの側に回り、私たちと共にいて下さることなのです。主イエスは、私たちが古い自分に死んで新しい命に生まれ変わるために、私たちと共に生きて下さいます。私たちは、私たちの罪も、過ちも、主イエスによって赦されています。
やがて教会は、主イエスを救い主と信じて受け容れる人々にとって、洗礼は単なる悔い改めの徴に留まらず、主イエスの死と甦りにあずかって永遠に神の子として生きる約束を与えられるイニシエーションとして引き継ぐようになりました。
洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになって公生涯をお始めになった主イエスは、十字架の死と復活の後、生涯の一番最後にこう言っておられます。
「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる(マタイ28:19-20)。」
今日は、主イエスが洗礼をお受けになって公に宣教の働きを開始した事を覚える主日です。主イエスが、洗礼をお受けになって、私たちと共にいてくださることを公に示して下さったことを感謝いたしましょう。
主イエスがすべての人を洗礼の恵みへと招いておられます。多くの人々に主イエスが共にいてくださる恵みと感謝を伝えていくことが出来ますように。