きれいな言葉で
いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。(コロサイの信徒への手紙第3章6節)
「言葉」について考えようとするとき、私はすぐ思い出す出来事があります。
それは、ある駅で幾人かの人が列を作って電車を待っているときのことでした。プラットホームに放送が流れました。
「次の列車は、強風の影響で5分ほど遅れて到着する見込みです。お急ぎのところ、まことにご迷惑をおかけいたしますが、しばらくお待ちください。」
すると、ホームを歩き回っていた6歳ぐらいの男の子が、ぶつぶつ独り言を言い始めました。
「何やってんだよ、早く来いよ。ぶっ飛ばすぞ、テメエ。まったくもう・・・。」
ホームの雰囲気は一変してしまいました。列をつくっていた人たちも驚いたようにその子を見ては、どう受け止めたらよいのか戸惑っている様子です。やがてまた放送が流れました。
「大変お待たせいたしました。まもなく列車が参ります。」
すると、列の中で週刊誌を見ていた父親らしき人がその子に声をかけました。
「おい、どこ歩き廻ってんだよ、こっち来て並んでろって言ってただろ。バカ。連れていかねえぞ。」
私たちは、言葉で物事を認識したり理解したりします。一つのできことについても、その受け止め方は十も二十もあることでしょう。例えば、電車の到着が遅れている時だって、「原因は何かな」と考える人もいれば、「人身事故でなければいいな」と考える人もいれば、「5分くらい何でもないさ」と思う人もいるでしょう。
さて、私たちは子どもたちにどんな言葉かけをしているでしょうか。言葉は私たちの認識の仕方を正しく、豊かにするためにとても大切であることは言うまでもありません。幼子の言語の獲得と状況理解の能力にも深い関わりがあります。そうであれば、私たち子どもと関わるものは、優しく、丁寧で、きれいな言葉を使いたいものです。そして、子どもたちも、他者との関係を深めたり高めていくときに互いに支え合い活かし合える言葉を交わせるように成長して欲しいものだと思います。
聖書の中に「初めに言があった。言は神と共にあった。」(ヨハネによる福音書1:1)とありますが、子どもたちが良い言葉を獲得し神さまの御心を映し出す人に育つように、子どもと関わる私たちがまずきれいで豊かな言葉を交わし合うものでありたいと思います。
(2008年5月「あいりんだより」)