2023年01月01日

主イエス命名の日   ルカによる福音書第2章21節    2023.01.01

主イエス命名の日    ルカによる福音書第2章21節    2023.01.01


 世界は、ひび割れた厳しい状況にありますが、こうして新年を迎えられたことを共に主に感謝し、真の平和を祈り求めて行きたいと思います。

 新しい年を迎えた1月1日は、教会暦では「主イエス命名の日」です。今日の聖書日課福音書のルカによる福音書第2章21節にはこう記されています。

 「八日経って割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」

 主イエスの時代、誕生から8日経った日は、イスラエルの民の男児の場合には、二つの意図を持った大切な日でした。その二つの意図とは、名を付けられることと割礼を施されることです。

 割礼は、男性性器の包皮にナイフをあてて開くことで、その行いそのものはイスラエル民族以外の近隣諸民族の間でも行われていたことはエレミヤ書第924節などに記されており、現代でも割礼を行う習慣のある民族、部族もあるようです。

 イスラエルの民はこの割礼をアブラハムによって神との間に結んだ契約とし、イスラエルの民独自の意味を持たせ、この割礼を受けることによってイスラエル民族の一人として認められ、迎え入れられることになりました。イスラエルの民にとって、割礼は神に選ばれた民の一員であることのしるしであり、彼らが「無割礼の者」と言えば、「汚れた異国人」「神の救いの約束から外れている者」を意味しました。そしてキリスト教が主イエスによって民俗宗教としてのユダヤ教を乗り越えて異邦人の間に広がっていくときに、ユダヤ人以外の信仰者に割礼を施すべきかは大きな問題となり、エルサレムで使徒たちの会議が開かれ、割礼は必要ないということが決められたことは使徒言行録第15章に記されています。このエルサレム会議は主イエスの十字架刑の後、10数年から20年近くが経ったことのことであろうと考えられています。

 イエスがユダヤの習慣に従ってこの割礼を受けたということは、イエスも当時のイスラエル民族の一人として生きていくことを表しており、この福音書を記したルカは、イエスはこうしてそのお生まれから十字架の死に至るまでイスラエル民族の一人として生きた神の子であり、イエスは神とイスラエルの民との契約のしるしである律法の下に生き、律法を全うしたことをこの福音書の中で示していくことになるのです。

 イエスが生まれて8日目に割礼を受けたことは、イエスが律法の支配下にあるユダヤ人として、十字架の向かって具体的な働きが始まったしるしとなったと言えるでしょう。

 そして、主イエスの降誕から8日経ったこの日のもう一つの大切な意味は、この幼な児にイエスという名前がつけられたことを記念することです。

 「名付ける」という言葉に注目してみると、原語のギリシャ語ではκaλeω(カレオー)であり、英語のcallに相当します。このκaλeωという言葉は「名前を付ける」という意味にとどまらず、英語のcallもそうであるように、「召し出す、招く、あずからせる」などの意味が含まれています。そして、「イエス」とは「主(ヤハウェ)は救い」という意味であり、まさにこの幼児は「ヤハウェは救いである」ことを人々に示すご生涯がこの名前によって方向付けられ、神の子としての具体的な歩みが始まったと言えるでしょう。

 これまでにも幾度か触れてきたことですが、「良い概念」とはその名の示す範囲(外延)とその内容(内包)が明確であることです。しかし主なる神はそのような範囲(外延)を設定できるお方ではなく、神の存在と働きの内容(内包)については説明しつくすことなどできないお方なのです。

 出エジプト記の第3章の中で、モーセが主なる神の名を尋ねる場面があります。主なる神は、エジプトで奴隷となっているイスラエルの民を脱出させるためのリーダーとしてモーセを選びますが、モーセはその選びに尻込みして、主なる神に尋ね、神の名を確かめようとします。モーセは、イスラエルの民は私に「お前を遣わしたその名は何か」と問うてくるに違いないが、その時私は彼らに何と言えば良いのでしょうと尋ねます。

 その時、主なる神はモーセに「私はいるという者である(教会共同訳)」「わたしはあるという者だ(新共同訳)。」とお答えになっています。

 つまり、主なる神は何時、どこにあっても、どのような状況の時にも、それぞれの人生に共におられる神であるであると言ってモーセに答えておられるのです。とても名を付けて呼ぶことなどできない神が、人となって、その生まれから馬小屋に追いやられ十字架に磔にされる生涯をおくることになろうとも、この世界に神の御心を示すために来られ、その神の独り子は、「イエス」と名付けられました。そしてイスラエルの具体的な時代状況の中で貧しい人々と共に生きてくださいました。その生涯が、生まれて8日目に割礼を受け、イエスと命名されて始まることを、私たちはこの日に記念しています。

 かつてユダヤ教の指導者たちは主なる神との契約のしるしであった律法を解釈し直して細かな規則ずくめにし、律法の細則はかえって神の御心から人々を引き離し遠ざけてしまいました。主イエスはその隔てをご自身の十字架と復活によって取り除き、主なる神と私たちの関係を回復してくださいました。

 その恵みを私たちはこの主日に確認し、感謝したいと思います。私たちはこの神の子がイエスと名付けられたことによって、主イエスの名によって祈ることができます。

 私はかつて小学生に「イエスの名によってとはどういうことですか」と質問されたことがありましたが、その時私は次のように説明しました。

 私は質問した生徒に「今、授業中だけど、職員室に行ってチョーク(白墨)をもらって来て下さい」と言うと彼は「はい」と言って教室を出ようとしました。

 そこで私は彼に、あなたが授業中であるにもかかわらず廊下を歩いて職員室に入って行って「チョークを下さい」と言えるのはチャプレン小野寺の名によって遣わされるからで、生徒が生徒の名で教室を出て行って職員室で「チョークを下さい」と言っても職員室の先生はチョークを渡してくれないでしょう。この例えのように、私たちは主イエスの名によって祈り、主イエスの名によって祈られたことは神の御前に届けられるし、私たちは主イエスの名によって罪を赦されており、主イエスの名を信じる者を祝福し導いて下さるのです。と説明しました。

 私たちが主イエスの名によって祈ることは、主イエスが私たちを用いて祈ってくださることと同等の意味があり、私たちが主イエスの名によって生きることは、主イエスご自身が私たちの中に生きていてくださることでもあります。

 私たちは主イエスの名によって祈ります。馬小屋に生まれた幼な児がイエスと名付けられたことにより、私たちは救い主イエスの名によって神としっかりと結ばれる恵みを与えられました。私たちの祈りが主イエスご自身の祈りとなって神の御前に届けられ、主イエスご自身の祈りが私たちを通して発せられるのです。このように、主イエスが人となり、イエスと名付けられたことは、私たちにとっても大きな恵みです。

 私たちは、迎えたこの年を、主イエスの御名によって祈り、主イエスの御名によってそれぞれの生活を導かれ、主イエスの御名によって日々の歩みを進めていくことが出来ますように。

posted by 聖ルカ住人 at 06:14| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする