2023年01月15日

イエスは「神の小羊」  ヨハネによる福音書第1章29~41節

イエスは「神の小羊」     ヨハネによる福音書第1章2941節  A年(顕現後第2主日) 2023.1.15

 始めに、このふた月ほどの教会暦について振り返ってみましょう。

 教会暦の一年は、クリスマス前の4つの主日から始まりました。主イエスの御降誕を待ち望みつつ始まった暦は、神の御子イエス・キリストがこの世界においでくださったことを喜び祝うクリスマスの時期を経て、主イエスが公に宣教の働きを始められた顕現節に入っています。先主日は、主イエスが宣教のお働きを始めるに当たり、私たち(罪ある人間)の一人となって共に生きてくださるしるしとして洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼をお受けになったことを記念しました。

 私はこうした教会暦と教会暦に相応しい聖書の言葉に生かされて信仰生活を送っています。

 今日の聖書日課福音書には、先週の聖書日課福音書に引き続き、洗礼者ヨハネが出てきます。洗礼者ヨハネは、救い主の先駆けとして主イエスを指し示す働きをした人として位置づけられるために、降臨節の時に、登場していたことを思い起こされる方も多いことでしょう。

 降臨節では、洗礼者ヨハネが「荒れ野で叫ぶ者の声」また「主の道を整える者」として登場していました。ヨハネは、自分の後から来る救い主イエスを指し示していましたが、今日の聖書日課福音書では、洗礼者ヨハネが宣教の働きを開始された主イエスにお会いした時に、ヨハネが反応したした様子が描かれています。洗礼者ヨハネは救い主イエスの働きを見て、主イエスのことを大きな声で人々に伝えて証言しているのです。

 今日の聖書日課福音書から、ヨハネが主イエスのことを人々にどのように伝えているか、その内容に目を向けてみましょう。

 洗礼者ヨハネは、主イエスのことを「わたしはこの方を知らなかった」と言っています。しかも、31節と33節にあるようにヨハネは2度「わたしはこの方を知らなかった」と言っていますが、ヨハネはそれに「しかし」と続けてかつては主イエスをしらなかった自分が、主イエスの何を見て、何を経験して、このお方をどのように考えているのかを語ります。

 洗礼者ヨハネは、第1章29節で「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言い、また第1章36節でも「見よ、神の小羊だ」と言っています。

 洗礼者ヨハネのこの証言を理解するために、「小羊」という言葉について触れておきましょう。

 「羊」はイスラエルの人々の生活に深く関わって、「羊」という言葉は、旧約、新約聖書をとおして沢山出てきます。主イエスもご自身を良い羊飼いに例えて、「私は良い羊飼いである」と言い、主イエスに従う人々を「羊の群れ」に例えています。羊という言葉は一般的には「プロバトン(pροßatον:sheep)」が用いられますが、洗礼者ヨハネがここで用いている「神の小羊」では「アムノス(aµνοs)」という特別な言葉が用いられています。この「アムノス」は、生け贄として捧げられる汚れのない羊を意味する言葉で、英語ではlabm(生まれて一年経たない仔羊)に近いのかもしれません。そして、このアムノス(aµνοs)は、新約聖書の中では、洗礼者ヨハネが主イエスを指し示しているこの箇所で2度出てくる他には、次の2箇所でのみ用いられている特別な言葉なのなのです。

 その一箇所は使徒言行録第8章32節です。そこにはこう記されています。

「彼は、羊(プロバトン:sheep)のように屠り場に引かれていった。毛を刈る者の前に黙している小羊(アムノス:aµνοs)のように、口を開かない。」

 この箇所は、旧約聖書イザヤ書第53章の「主の苦難の僕の歌」と言われている箇所からの引用です。使徒言行録の中では、異邦人エチオピアの宦官がこの箇所を理解できないままに読んでいたのをフィリポがこの箇所を説き起こしてこの「小羊」はイエスであると知らせました。そして、この異邦人が洗礼を受けることへと導かれています。押し黙って人々の苦難を負う主の僕の姿は「神の小羊」のようで主イエスこそ私たちの苦難を負い贖ってくださる「小羊」だと表現する場面でこの「アムノス:aµνοs」が用いられています。

 「小羊(アムノス)」が用いられているもう一つの箇所はペトロの手紙一第1章19節です。そこには以下のように記されています。

 「・・・あなたがたが・・・贖われたのは、・・・きずや汚れのない小羊(アムノス)のようなキリストの尊い血によるのです。」

 この小羊(アムノス)という言葉は、出エジプト記の出来事を思い起こさせます。イスラエルの民がエジプトで奴隷であった時に主なる神によって救い出され、イスラエルの民はエジプトを出発することになります。その場面で、神はモーセを通してイスラエルの民にある命令(指示)を出しました。その命令とは、イスラエルの民がエジプトを脱出しようとする前夜、闇の中で、主なる神はその地に住む人の中から人間であれ動物であれ長子(雄の初子)の命を取り上げることにするから、イスラエルの家の者はその神の行いを避けることが出来るように、それぞれに目印として自分の家の柱と鴨居に小羊の血を塗っておくようにということでした。そして、この徴のないエジプト人の家の長子が、神に討たれて混乱する中、イスラエルの民はエジプトを脱出することが出来たのです。やがてイスラエルの民はこの小羊の血を目印として、神はそれを信じて行う者には罰を与えずに過ぎ越してくださったことを記念するようになります。彼らは、自分たちの先祖が救い出された日を覚え、春分の日に近い満月の日に過越祭を祝うようになります。そして、主イエスの十字架の死が、人々の罪をご自身が引き受けて神の罰を逃れさせて下さった「過ぎ越の小羊(アムノス)」であったことに気付く時が来るのです。

 洗礼者ヨハネは主イエスこそ真の「過ぎ越の小羊」であると証言しています。

 洗礼者ヨハネはこのように特別な意味をもつ「小羊(アムノス)」という言葉を用いて、自分が出会った主イエスを「見よ、神の小羊だ」と人々に告げているのです。

 主イエスは、ヨハネが授けていた罪の赦しと悔い改めの洗礼をお受けになりました。主イエスはきずや汚れのないお方であったにもかかわらず、罪人の一人に数えられる側に立って下さいました。そして、ご自身が本来負う必要のない苦難を自分の身に負い、やがて屠り場に連れて行かれる小羊のように十字架にお架かりになるのです。洗礼者ヨハネは自分がこの主イエスを指し示すために生かされる者であることに徹して生きた人でした。洗礼者ヨハネは、主イエスがご自分の苦しみと犠牲によってすべての人を罪から救い出してくださる神の子であることを大声で伝えています。

 今日は、この説教の冒頭に教会暦のことを申し上げました。私たちも教会暦の中で、洗礼者ヨハネに促されて主イエスにお会いする備えをする降臨節を過ごし、クリスマスにはこの世に来られた主イエス・キリストを受け入れて祝い、そして先主日には主イエスが公生涯の始めに洗礼をお受けになって私たち罪ある者の側に立って共に生きて下さることを覚えて感謝しました。そしてこの主日に、洗礼者ヨハネから主イエスが私たちの罪を贖い清めて下さる「神の小羊」であることを証しされています。

 この世に顕現した主イエスは、他ならぬあなたの苦難を担ってくださる「神の小羊」であり、ご自分の血によって神の怒りと罰を赦し浄める「神の小羊」であると今日の福音書を通して教えているのです。

 教会暦の中で公の宣教の働きを続けて行かれる主イエスに私たちも従いながら、私たちも「神の小羊」主イエスを自分の主、また救い主として証ししていくことが出来ますように。


*YouTube配信(試行)しています

https://www.youtube.com/watch?v=EdsJDFGrogM

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2023年01月14日

朝食を大切に

 最近、「食育」という言葉がしきりに用いられています。この言葉の意味する範囲は広く、子どもの食生活全般に関わっています。保育雑誌などをみていると、子どもたちが食べる物の質や栄養に関わることから食事のマナーのことまで、もっと広く環境問題のことまでふくめて「食育」について論じられています。

 今回は、朝食の大切さについて考えてみたいと思います。

 文部科学省が「早寝、早起き、朝ごはん」というキャッチフレーズで国民運動を始めたのが2年前でした。子どもの基本的な生活習慣を家庭でしっかりと支え、その土台の上に家庭や地域の教育力を向上させようというのがこの運動のねらいであったと思います。

 近年、朝食をとらない家庭が増え、朝食を食べないまま登園登校する子どもが増えて、そのことが幼稚園や学校に行く子どもたちに少なからぬ問題を引き起こしています。このことについて文部科学省でも見過ごすことができなくなったのでしょう。

 朝食をとらないと、一日を始める上での必要な栄養が足りなくなって、心身の発育と一日の生活リズムに悪影響が生じるようになります。

 人は眠りに入るときに自動的に体温を下げようとします。寝付くときに汗をかく人が多いのもそのためです。そして、朝、私たちが再び活動を始めるときに、朝食を取って栄養を体内に取り入れ、体温を上昇させることが必要になります。私たちは、朝の食事をすることで、消化吸収の働きが活発になり、体内に取り入れられた栄養が脳にも運ばれて、心身共の活性化し一日の働きが始まっていきます。こうして一日の生活のリズムが作られるのです。

 食育の第一歩として、各ご家庭で、是非「早寝、早起き、朝ごはん」を心掛けてください。

 空腹では注意力が散漫になり、精神的にも不安定になります。朝の栄養が不足して血糖値が下がると活動意欲が低下するのだそうです。こうした状態が続くと、低体温状態になりやすく、体の免疫力が低下して風邪を引きやすくなったりすることにもつながります。

 各ご家庭でも朝は忙しいことでしょう。でも、手の込んだ料理をしなくとも、栄養のバランスを考えて質の高い朝食を心掛けてください。ご飯やパンや麺類などの炭水化物、魚や肉や卵などあるいは納豆や豆腐のタンパク質、それにビタミンやミネラルを含んだ野菜や果物、タンパク質やカルシウムを含んだ牛乳やヨーグルトなどから、上手に組み合わせて、一日の生活を始めるよい方向付けとなる朝食が望まれます。

 食事は、私たちが神から与えられたいのちを心身共に健康に管理し育てていく上での基本です。「食欲の秋」を楽しく迎えるためにも、良い生活リズムの中で、朝食が取れますように。もちろん、できる限り個食(独りで食事をすること)を避け、楽しい会話という違う意味での栄養素を加えることも忘れずに。

(あいりんだより2008年9月)

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2023年01月10日

歓声 2008年7月

歓 声

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマの信徒への手紙第12章15節)

  私が職員室でパソコンに向かっていると、保育室の声が聞こえてきます。ある日の、いわゆる朝の「集会」の時間です。M先生の張りのある声がここまで届いてきました。

「今日はもう一つみんなにお知らせがあります。入院してお休みしていたMちゃんが、今度の土曜日に退院することになりました。」

 クラスのみんなから歓声が沸き起こりました。そこに「やったー!」という声も混じっています。私は、子どもたちの中にある優しさ、純粋さ、温かさに触れ、胸が熱くなる思いでした。Mちゃんの手術前には、クラスの子どもたちをはじめたくさんの人が祈りを込めて千羽鶴を折って、担任のM先生がお届けしたのでした。

 聖書の中に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマの信徒への手紙第1215節)という言葉があります。そのような感性が子どもたちの中にあって、ちょっと大げさな表現になりますが、あの歓声は私の中に「人間って良いものだ、世の中捨てたものじゃない。」という思いを再確認させてくれる出来事でした。

 今の世の中は、対人関係がどんどん希薄になる傾向があり、確かな人間関係の中で自分を再確認することのできる場も少なくなってしまったように思えます。でも、私たち人間は生きた手応えの中で自分を再確認しながら生かされていくものではないでしょうか。その手応えを得る機会の乏しい現代人の中には、共感してくれる人のいない寂しさを、それとは意識しないうちに形を変えて病理的に表現する人もいると指摘する人もいます。

私たちは自分が嬉しいときに周りの人にどんな反応を求めているでしょう。また、悲しんでいるときにどんな反応を受けているでしょう。

 子どもたちがあのような歓声を上げられる感性は、一朝一夕には生まれ育ちません。それはきっと子どもたちがまだ赤ちゃんで「バブバブ」といっていた頃に、お母さんが赤ちゃんとしっかり目を合わせて、柔らかい笑顔で「おやー、そう、バブバブね。」と応じていた頃から育ってきたのではないでしょうか。

キリスト教の保育とは、小さいときから倫理や道徳とその行動様式を厳しく訓練するより、まず暖かく豊かな心の交流のある人間関係を子どもに体感させることにあると私は考えます。

 そうであれば、まず子どもに先駆けて心底暖かく豊かでなければならないのは私たち大人であるはずです。神は、なかなかそうなれない私たち大人にあの歓声を通して小さな神の国の姿を示して、私たちが神の絶対的な愛を受け入れるように招いておられるのではないかと思うのです。

20087月あいりんだより)

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「今が華」と励まされて

 私たち夫婦が3人の男児を育てるのにエネルギーを使っていた頃、教会の或るおばあさん信徒がよく次のように言って妻の子育てを励ましてくださいました。

 「今が華よ。」

 子どもの行動範囲が広がり、一時も目を離せない中で、炊事、洗濯、掃除などの日常的な家事をしながら、育児をする時期があります。私たち夫婦は、3人の男児の子育てに時間的なゆとりもなく、夢中で子育てをする時期に、幾度「今が華よ」という言葉に自分を取り戻し、励まされたことでしょう。

 この言葉をかけて戴いたとき、私の胸には「そうは言っても・・・。」という思いも付きまとっていたことも認めねばなりません。でも、それはかつて私たち夫婦よりもっと厳しい状況下でお仕事もし、子育てをなさった方の実感でした。

 既に3人の息子たちは成人し普段は老夫婦二人で過ごしている私は、子育てに奮闘する若いご夫婦やお母さんを見かけると、「今が華よ」という言葉を贈りたくなります。

 子育ては、時間的にも、心理的にも、経済的にも負担がありますが、親子の関わりの中でこそ知ることのできる子どもの命の輝きを見逃すことなく、「今」の子育てを楽しんで欲しいと思います。子どもは、そして私たちは、「今」しかない時を日々生きているのですから
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2023年01月09日

積極的に聴きましょう  2008年6月

積極的に聴きましょう  

 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。 (ヨハネの手紙一 4:16


  「積極的に話す」はよく耳にしますが、「積極的に聴く」ということには、一瞬「おや?」と思われた方も多いのではないでしょうか。

 子どもが言葉や文字を獲得していくこととその心理には深い関わりがあります。それは、言葉や文字の獲得に限らず、意欲や能動性の土台に深く関わる問題です。

 私たちはどんな時に話したくなるでしょうか。自分の思いや気持ちを伝えたいときや分け合いたいときではないでしょうか。そうであれば、まず、自分が安心して自分を表現することが許されていると感じることのできる暖かな雰囲気が必要になります。そのような雰囲気の中で、お互いに自分の思いや気持ちを伝えあい、お互いに理解し合えた喜びを重ねることで、人はさらに能動的に自分を表現するようになり、本当の自分を適切に表現しまた相手を適切に理解できるようになっていけるのです。

 もし子どもたちがこのような土台がないままに、情報としての言語や文字、記号としての言語や文字を与えられても、子どもの中にしっかりとした意味とともに習得されることは難しくなります。

 私はかつて「お母さんの膝の上で絵本を読んでもらう子どもの視線」に興味を持ったことがありました。子どもはお母さんの膝の上に座っていますので、お母さんはなかなか気づきにくいのですが、お母さんの膝で落ち着いて絵本を読んでもらうときの子どもはとても能動的です。お母さんの朗読に合わせて子どもの視線は絵本の上をあちこち動き回り、子どもは耳と目の両方からそのお話を味わっています。時にはページをめくろうとするお母さんの手を押さえてその部分を自分の心(頭かもしれません)に納めようとするかのような姿も見られます。そこにはお母さんと子どもの一体の作業があり、その中で子どもは絵本から語られる言葉とその言葉の内実を結び合わせ、意味ある言葉を獲得していきます。その過程で、子どもは頭と心の中で、単に絵本を「読んでもらう」という受動的なことをしているだけでなく、とても自発的で積極的な作業をしているのです。

 これが、テレビ番組やビデオの場合だったらどうでしょう。子どもは自分のペースによってではなく、テレビの画面にペースに自分を合わせていくことを強いられ、時には能動的にメッセージを集めようとする能動性が停滞してしまいます。テレビやビデオは子どもの心にナマで応答してくれることはありません。幼稚園の視聴覚教材も、大人が楽をするためのものではなく、あくまでもその内容をみんなが共有してその先の発展につなげるための補助的な教材であると思いますし、各ご家庭にあってレリビや電子機器の利用についてもそうであって欲しいと願っています。

 子どもたちが能動的に、積極的に生きられるようになることを支援しようとすれば、温かな心に裏打ちされた心の交流、対話が必要です。その楽しさを体で知っている子どもたちは、明るく生き生きと他の人と関わり、コミュニケーションの道具である言葉の獲得やその表現力も年齢にふさわしく成長していきます。そのような中でテレビ番組やビデオのことが話題になることもあるでしょう。子どもは、まだ経験の幅も狭く言動が稚拙であったり不十分であったりすますが、私たち大人は子どもが自分から純粋に一所懸命に表現しようとする思いをしっかり受けとる必要があります。私たちは子どもに向かって教えたり話しかけたりすることに積極的である以上に、子どもの話をじっくりと聴いて理解しようとすることに積極的であるように心がける必要があるのかもしれません。

(あいりんだより20086月)

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2023年01月08日

イエス、洗礼を受ける  マタイによる福音書第3章13-17  主イエス洗礼の日

イエス、洗礼を受ける   マタイによる福音書第3章1317   顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 2023.1.08

 今日、顕現後第1主日は、「主イエス洗礼の日」です。

 主イエスの公生涯は、主イエスご自身が洗礼者ヨハネから洗礼を受けることで始まっていきます。

 私たちはこの主日に、主イエスが洗礼を受けて、この世に生きる私たちと共にいてくださる徴として洗礼を受けてくださったことを感謝したいと思います。

 人類学、民俗学、宗教学などの分野の用語に、「通過儀礼(イニシエーション)」という言葉があります。人が、個人としてまた集団として生きていく上で、その生き方がある段階から次の段階に深まったり昇ったりする節目に執り行われる儀式のことを言います。

 イスラエルでは、生まれて8日目に割礼を施しますが、それはその幼子がイスラエル民族の一員であることを示すための徴を身に記す大切なイニシエーションです。幼子はそのことを未だ自覚する年齢ではありませんが、イスラエル民族の一員である徴を身に受け、家族や同朋に迎え入れられ、見守られながら育つ上で大切な儀式であることは、今も変わりありません。

 主イエスも生まれて8日目に割礼を受け、イエスという名を付けられましたが、それから30年ほど経って、イエスは公に宣教の働きを始める時が来ます。

 主イエスにとって、ナザレでの大工として生きてきたことから公に宣教の働きへと転換していくとき、洗礼者ヨハネから洗礼を受けることは大切なイニシエーションであったと言えるでしょう。

 その頃、洗礼者ヨハネはヨルダン川で人々に洗礼を授ける運動をしていました。ヨハネは、まことの救い主が世に現れる時は満ちており、その救い主にお会いする備えとして、罪を告白して悔い改めるように、その徴として洗礼を受けるように勧め促していました。

 主イエスは、30歳の頃、ヨハネが洗礼を授けているヨルダン川にやって来られました。きっと沢山の人が列をつくり、順にヨハネの前に進み出て自分の罪を告白して祈り、ヨルダン川に身を沈めていたのでしょう。そして、主イエスが身を沈める番になり、川の中にいるヨハネの前に進み出ます。ヨハネは驚き、主イエスに洗礼を施すことを躊躇いました。

 洗礼者ヨハネは、目の前のイエスが誰であるかを知っていました。ヨハネは自分がイエスに悔い改めの洗礼を授けるのに相応しくないことを知っていました。そうではなくて、主イエスが自分を生かしてくださるお方であることをよく理解していたのです。

 ヨハネはこう言いました。

 「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」

 これに対して、主イエスはお答えになりました。

 「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは我々にふさわしいことです。」

 これまでナザレで大工ヨセフの子として生きて来たイエスが、人々に神の国を宣べ伝えて生きていくへと変わる大切なイニシエーションを、今洗礼者ヨハネの前でヨルダン川に身を沈めてなさろうとしておられます。

 水の中に身を沈めることは古い自分が水の中に葬られてそれまでの罪が洗い流されることを表し、水の中から上がることは罪のない新しい自分として再び生まれる事を表します。

 本来は罪のない主イエスがヨハネから敢えて洗礼をお受けになるこの儀式には、ナザレで生活してきたこれまでの自分から「人の子は枕するところもない」と言われるまでになって神の国の実現のために命を献げる大切な意味が含まれています。同時に、主イエスが洗礼をお受けになることは、やがてこの世の罪人のために死んで復活なさる「死と甦り」のテーマを宣教の公生涯のはじめにお示しになったことと意味づけることもできるでしょう。

 洗礼者ヨハネは主イエスの洗礼を思い止まらせようとしますが、主イエスは「正しいことをすべて行うのは『我々に』ふさわしい」と言っておられます。ここで主イエスが敢えて「我々に」と複数形で言っておられることに注目してみましょう。

 主イエスが洗礼を受けることは主イエスだけにとって大切なことなのではなく、洗礼者ヨハネによっても大切なことであり、それだけではなくこの世界の人々にとって、またこの世界の歴史の転換点であるという意味においても大切なイニシエーションであったと言えます。

 神さまが私たち一人ひとりに与えて下さった使命とそのご計画は、人それぞれの顔立ちが違うのと同じように、それぞれの人に固有であり、仮に表面的には同じ仕事をしてもその意味は一人ひとり違います。私たちはそれぞれに与えられた取り替えることの出来ない人生を、主イエスに同伴していただきながら歩みます。私たちが正しく神の御心を行おうとする時、その傍らにはいつも主イエスがいて下さることを、主イエスはここで「我々」という言葉を用いて示して下さっていると考えてみましょう。神の子がこの世界に来られて罪人の側に回って下さり、罪人と共に生きて下さり、罪が赦されて一人ひとりが大切は人として受け容れられ、生かされる新しい世界がここに始まるのです。

 このように、主イエスがヨハネから洗礼をお受けになることは、イエス個人的なことなのではなく、主イエスとヨハネの二人にとっても御心が実現していく大切な出来事であり、それはまた主イエスと今を生きる私たちにとっても大切な事なのです。

 この世に、貧しくされ弱くされている人々がいる以上、その人々が認められ癒され解放されるように自分の使命を全うするのは、主イエスにとってもヨハネにとってもまた私たちにとって相応しいことであり、今、そのイニシエーションが行われるのです。

 そして、主イエスが洗礼をお受けになって水から上がると、すぐに天が裂けて神の霊が主イエスに降りました。当時の人は、天はドームのようになっていて、神はその天蓋の上でこの世界を支配しておられると考えました。主イエスが洗礼を受けてこの世に神の国を伝える働きをお始めになることは、天におられる神とこの世の主イエスの間に何の隔てもない姿が実現することであり、神自らが天を開いてその繋がりを示されたということです。そして、主なる神は、この主イエスのことを「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と言って祝福なさいました。主イエスの洗礼によって、罪ある人が裁かれて滅びることなく、主イエスによって再び生まれ、正しく生きる力を得て神さまのご計画の中に命を得ることが示されたことは天の喜びなのです。

 主イエスが神と私たちとの間にある罪の隔てを取り除いてくださり、私たちはこのお方を信じる信仰によって、誰でも、分け隔て無く、神の御前に進み出ることが出来るようになりました。それは主イエスがただ独り罪無きお方としてこの世の生涯を送ったということに留まらず、神の子が私たちの側に回り、私たちと共にいて下さることなのです。主イエスは、私たちが古い自分に死んで新しい命に生まれ変わるために、私たちと共に生きて下さいます。私たちは、私たちの罪も、過ちも、主イエスによって赦されています。

 やがて教会は、主イエスを救い主と信じて受け容れる人々にとって、洗礼は単なる悔い改めの徴に留まらず、主イエスの死と甦りにあずかって永遠に神の子として生きる約束を与えられるイニシエーションとして引き継ぐようになりました。

 洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになって公生涯をお始めになった主イエスは、十字架の死と復活の後、生涯の一番最後にこう言っておられます。

 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる(マタイ28:19-20)。」

  今日は、主イエスが洗礼をお受けになって公に宣教の働きを開始した事を覚える主日です。主イエスが、洗礼をお受けになって、私たちと共にいてくださることを公に示して下さったことを感謝いたしましょう。

 主イエスがすべての人を洗礼の恵みへと招いておられます。多くの人々に主イエスが共にいてくださる恵みと感謝を伝えていくことが出来ますように。

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2023年01月06日

きれいな言葉で  2008年5月

きれいな言葉で

 いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。(コロサイの信徒への手紙第3章6節)

 「言葉」について考えようとするとき、私はすぐ思い出す出来事があります。

 それは、ある駅で幾人かの人が列を作って電車を待っているときのことでした。プラットホームに放送が流れました。

 「次の列車は、強風の影響で5分ほど遅れて到着する見込みです。お急ぎのところ、まことにご迷惑をおかけいたしますが、しばらくお待ちください。」

 すると、ホームを歩き回っていた6歳ぐらいの男の子が、ぶつぶつ独り言を言い始めました。

 「何やってんだよ、早く来いよ。ぶっ飛ばすぞ、テメエ。まったくもう・・・。」

 ホームの雰囲気は一変してしまいました。列をつくっていた人たちも驚いたようにその子を見ては、どう受け止めたらよいのか戸惑っている様子です。やがてまた放送が流れました。

 「大変お待たせいたしました。まもなく列車が参ります。」

 すると、列の中で週刊誌を見ていた父親らしき人がその子に声をかけました。

 「おい、どこ歩き廻ってんだよ、こっち来て並んでろって言ってただろ。バカ。連れていかねえぞ。」

 私たちは、言葉で物事を認識したり理解したりします。一つのできことについても、その受け止め方は十も二十もあることでしょう。例えば、電車の到着が遅れている時だって、「原因は何かな」と考える人もいれば、「人身事故でなければいいな」と考える人もいれば、「5分くらい何でもないさ」と思う人もいるでしょう。

 さて、私たちは子どもたちにどんな言葉かけをしているでしょうか。言葉は私たちの認識の仕方を正しく、豊かにするためにとても大切であることは言うまでもありません。幼子の言語の獲得と状況理解の能力にも深い関わりがあります。そうであれば、私たち子どもと関わるものは、優しく、丁寧で、きれいな言葉を使いたいものです。そして、子どもたちも、他者との関係を深めたり高めていくときに互いに支え合い活かし合える言葉を交わせるように成長して欲しいものだと思います。

 聖書の中に「初めに言があった。言は神と共にあった。」(ヨハネによる福音書1:1)とありますが、子どもたちが良い言葉を獲得し神さまの御心を映し出す人に育つように、子どもと関わる私たちがまずきれいで豊かな言葉を交わし合うものでありたいと思います。

 (2008年5月「あいりんだより」)

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2023年01月04日

「目が合う」こと

 このごろテレビやラジオのニュースの内容で気になることがあります。

 私には考えられないような暴力事件が起こり、暴力をふるった人が逮捕され、「調べによると、容疑者は被害者のAさんと目が合ってむかついたから殴りつけたと話しているようです。」というような報道をしばしば耳にします。このような視線を向けることを今の若者言葉では「ガンをつける」と言うのでしょうか。

 私が気になるのは、「目が合った」ことが相手を攻撃するきっかけになっていることです。

 皆さんは「目が合う」と言うことから何を連想するでしょう。私は「目が合う」ことから親子関係の出発を思い起こします。お母さんは生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて赤ちゃんと目を合わせ、優しい言葉をかけたり、笑顔をつくったり、授乳したりします。そしていつの間にか、どちらからともなくお互いに目を合わせて笑顔を交わし合うようなります。

 かつて、赤ちゃんの前でお母さんが赤ちゃんの笑顔や声に全く反応しないとどうなるかの実験をした人がいました。赤ちゃんにはちょっと気の毒でしたが、生後7から8ヶ月の赤ちゃんの前でお母さんがほんの3分ほど能面のようになって全く反応しないようにしてみたのです。するとその僅かの時間の間に、赤ちゃんの表情は見る見る不安そうになり、赤ちゃんはべそをかき始めてしまいました。人が目を合わせて笑顔を交わし合うことは、人間関係の最も基本的なことであり、信頼関係の始まりであると言うことが出来ます。そして、知らない人同士の場合でも、目が合えばお互いにニッコリし合ったり、軽く挨拶をする文化のある国もあります。

 互いに目が合ったから相手を威嚇したり攻撃したりするのはなぜなのでしょう。もしかしたらそれは縄張りを主張し合いそれを侵したら攻撃する「4つ足動物」の行為なのではないでしょうか。もしかしたら、「相手と目が合ったからむかついた」とか「睨んできたから睨み返した」というのは、人が小さいときに身に付けてきた「人と目が合ったら微笑み返す」という、人としての基本的な信頼感を身に付け育む機会がないままに過ごしてきた人なのかと考えてしまいます。

 私たち大人は、自分の周りの子どもたちが幼いときから、笑顔で温かな視線をおくるように心がけてみてはどうでしょう。


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2023年01月01日

主イエス命名の日   ルカによる福音書第2章21節    2023.01.01

主イエス命名の日    ルカによる福音書第2章21節    2023.01.01


 世界は、ひび割れた厳しい状況にありますが、こうして新年を迎えられたことを共に主に感謝し、真の平和を祈り求めて行きたいと思います。

 新しい年を迎えた1月1日は、教会暦では「主イエス命名の日」です。今日の聖書日課福音書のルカによる福音書第2章21節にはこう記されています。

 「八日経って割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。」

 主イエスの時代、誕生から8日経った日は、イスラエルの民の男児の場合には、二つの意図を持った大切な日でした。その二つの意図とは、名を付けられることと割礼を施されることです。

 割礼は、男性性器の包皮にナイフをあてて開くことで、その行いそのものはイスラエル民族以外の近隣諸民族の間でも行われていたことはエレミヤ書第924節などに記されており、現代でも割礼を行う習慣のある民族、部族もあるようです。

 イスラエルの民はこの割礼をアブラハムによって神との間に結んだ契約とし、イスラエルの民独自の意味を持たせ、この割礼を受けることによってイスラエル民族の一人として認められ、迎え入れられることになりました。イスラエルの民にとって、割礼は神に選ばれた民の一員であることのしるしであり、彼らが「無割礼の者」と言えば、「汚れた異国人」「神の救いの約束から外れている者」を意味しました。そしてキリスト教が主イエスによって民俗宗教としてのユダヤ教を乗り越えて異邦人の間に広がっていくときに、ユダヤ人以外の信仰者に割礼を施すべきかは大きな問題となり、エルサレムで使徒たちの会議が開かれ、割礼は必要ないということが決められたことは使徒言行録第15章に記されています。このエルサレム会議は主イエスの十字架刑の後、10数年から20年近くが経ったことのことであろうと考えられています。

 イエスがユダヤの習慣に従ってこの割礼を受けたということは、イエスも当時のイスラエル民族の一人として生きていくことを表しており、この福音書を記したルカは、イエスはこうしてそのお生まれから十字架の死に至るまでイスラエル民族の一人として生きた神の子であり、イエスは神とイスラエルの民との契約のしるしである律法の下に生き、律法を全うしたことをこの福音書の中で示していくことになるのです。

 イエスが生まれて8日目に割礼を受けたことは、イエスが律法の支配下にあるユダヤ人として、十字架の向かって具体的な働きが始まったしるしとなったと言えるでしょう。

 そして、主イエスの降誕から8日経ったこの日のもう一つの大切な意味は、この幼な児にイエスという名前がつけられたことを記念することです。

 「名付ける」という言葉に注目してみると、原語のギリシャ語ではκaλeω(カレオー)であり、英語のcallに相当します。このκaλeωという言葉は「名前を付ける」という意味にとどまらず、英語のcallもそうであるように、「召し出す、招く、あずからせる」などの意味が含まれています。そして、「イエス」とは「主(ヤハウェ)は救い」という意味であり、まさにこの幼児は「ヤハウェは救いである」ことを人々に示すご生涯がこの名前によって方向付けられ、神の子としての具体的な歩みが始まったと言えるでしょう。

 これまでにも幾度か触れてきたことですが、「良い概念」とはその名の示す範囲(外延)とその内容(内包)が明確であることです。しかし主なる神はそのような範囲(外延)を設定できるお方ではなく、神の存在と働きの内容(内包)については説明しつくすことなどできないお方なのです。

 出エジプト記の第3章の中で、モーセが主なる神の名を尋ねる場面があります。主なる神は、エジプトで奴隷となっているイスラエルの民を脱出させるためのリーダーとしてモーセを選びますが、モーセはその選びに尻込みして、主なる神に尋ね、神の名を確かめようとします。モーセは、イスラエルの民は私に「お前を遣わしたその名は何か」と問うてくるに違いないが、その時私は彼らに何と言えば良いのでしょうと尋ねます。

 その時、主なる神はモーセに「私はいるという者である(教会共同訳)」「わたしはあるという者だ(新共同訳)。」とお答えになっています。

 つまり、主なる神は何時、どこにあっても、どのような状況の時にも、それぞれの人生に共におられる神であるであると言ってモーセに答えておられるのです。とても名を付けて呼ぶことなどできない神が、人となって、その生まれから馬小屋に追いやられ十字架に磔にされる生涯をおくることになろうとも、この世界に神の御心を示すために来られ、その神の独り子は、「イエス」と名付けられました。そしてイスラエルの具体的な時代状況の中で貧しい人々と共に生きてくださいました。その生涯が、生まれて8日目に割礼を受け、イエスと命名されて始まることを、私たちはこの日に記念しています。

 かつてユダヤ教の指導者たちは主なる神との契約のしるしであった律法を解釈し直して細かな規則ずくめにし、律法の細則はかえって神の御心から人々を引き離し遠ざけてしまいました。主イエスはその隔てをご自身の十字架と復活によって取り除き、主なる神と私たちの関係を回復してくださいました。

 その恵みを私たちはこの主日に確認し、感謝したいと思います。私たちはこの神の子がイエスと名付けられたことによって、主イエスの名によって祈ることができます。

 私はかつて小学生に「イエスの名によってとはどういうことですか」と質問されたことがありましたが、その時私は次のように説明しました。

 私は質問した生徒に「今、授業中だけど、職員室に行ってチョーク(白墨)をもらって来て下さい」と言うと彼は「はい」と言って教室を出ようとしました。

 そこで私は彼に、あなたが授業中であるにもかかわらず廊下を歩いて職員室に入って行って「チョークを下さい」と言えるのはチャプレン小野寺の名によって遣わされるからで、生徒が生徒の名で教室を出て行って職員室で「チョークを下さい」と言っても職員室の先生はチョークを渡してくれないでしょう。この例えのように、私たちは主イエスの名によって祈り、主イエスの名によって祈られたことは神の御前に届けられるし、私たちは主イエスの名によって罪を赦されており、主イエスの名を信じる者を祝福し導いて下さるのです。と説明しました。

 私たちが主イエスの名によって祈ることは、主イエスが私たちを用いて祈ってくださることと同等の意味があり、私たちが主イエスの名によって生きることは、主イエスご自身が私たちの中に生きていてくださることでもあります。

 私たちは主イエスの名によって祈ります。馬小屋に生まれた幼な児がイエスと名付けられたことにより、私たちは救い主イエスの名によって神としっかりと結ばれる恵みを与えられました。私たちの祈りが主イエスご自身の祈りとなって神の御前に届けられ、主イエスご自身の祈りが私たちを通して発せられるのです。このように、主イエスが人となり、イエスと名付けられたことは、私たちにとっても大きな恵みです。

 私たちは、迎えたこの年を、主イエスの御名によって祈り、主イエスの御名によってそれぞれの生活を導かれ、主イエスの御名によって日々の歩みを進めていくことが出来ますように。

posted by 聖ルカ住人 at 06:14| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする