2023年01月30日

信じること、信じてもらうこと (あいりんだより2009年2月)

信じること、信じてもらうこと

 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

                 (ヨハネによる福音書第20章29節)

 上記の言葉は主イエスが、甦りを信じられない弟子トマスに現れて、告げた言葉です。他の弟子たちは復活した主イエスに出会ったにもかかわらず、トマスはその場にいませんでした。トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました。その後トマスも他の弟子たちと一緒にいる時、主イエスは復活の姿を現しトマスに上記の言葉を告げたのです。

 この言葉は、「信じる」ということを思い巡らせるとき、沢山のことを教えられる言葉です。わたしは、「信じる」ことは子育ての中でもとても大切なことだと思います。

 かつて、わたしは次のような事例に出会いました。

 ある園児が登園しても落ち着かず、自分の家のことや母親のことをしきりに気にして、そわそわとして家に帰りたがっています。次第に明らかになってきたのは、ご両親が子どもの前で激しい口論をし、怒った母親は実家に戻ってしまったということでした。それも今回が初めてではなく、時々あることで、そのたびに子どもは小さな胸を痛めていたようでした。子どもにすれば、自分の母親が目の届かないところにいると、「またわたしを置いて、どこかへ行ってしまうのではないか。今度はもう戻ってこないのではないか。」と思って胸が一杯になり、いてもたってもいられなかったのでしょう。

これは、人間関係の中で、ことに幼い子どもと大人の関係において、信頼関係がしっかり保たれることの大切さを思わされる事例です。この事例から、わたしたち大人が、いつも子どもに信頼されるに足る存在になっていることがいかに大切であるかを学ぶことができるでしょう。

 「信じる」とは、現状を見ないでただ闇雲に何かを思い込むことではありません。「信じる」とは、目で見て確認しなくても本当のことや正しいことに基づいて、そこにしっかりと立てると言うことです。子どもの成長を信じる人は、子どもを悲しませたり不安がらせたりはしないはずです。

 ある心理学者は、人が精神的に発達していく上で最初の課題となるのが「基本的信頼関係」を築くことと言いました。人の成長には信じ合える関係が必要なのです。落ち着いた暖かい関係の中で、大人が子どもの存在を認め、受け入れ、支えていくところに、自分と身近な他者を「信じる」力が生まれます。自分が自分であることに自信を持ち、その自分をしっかりと相手に関わらせていくベースには、自分を信じることと相手を信じることが必要不可欠なのです。

 そうであれば、「子どもが信じる対象として自分はふさわしいか」と絶えず自分に問い返しそうなれるように努めることが、子育てに関わる人にとって大切なことであると言えるでしょう。

 わたしたちは、子どもの信頼の対象として全てのことが完璧ではありませんし、その必要もないでしょう。でも、まず神がそのようなわたしたちを愛し、赦し、信頼してくださっていることを心に留めたいと思います。わたしたちは子どもの信頼の対象として不十分かもしれませんが、そのようなわたしたちでも、神に信頼されていることを基盤として子どもたちに関わり、信頼される大人となれるよう努めて参りましょう。子育ての具体的なテクニックなどは、こうした「信じること、信じてもらうこと」を前提としていることを心に留めたいと思います。

(「あいりんだより」2009年2月号)

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2023年01月29日

幸いは貧しい人に  マタイにいよる福音書第5章1-12  顕現後第4主日

幸いは貧しい人に マタイにいよる福音書第5章1-12  顕現後第4主日    2023.01.29

 今日の聖書日課福音書には、マタイによる福音書のいわゆる「山上の説教」のはじめの部分が取り上げられています。

 マタイによる福音書全体を見渡してみると、福音記者マタイは、主イエスの「言葉(説教)」の部分と「行い」の部分を交互に繰り返す形で編集しており、今日の聖書日課福音書は、第5章から第7章までが一纏まりの最初の「言葉(説教)」の部分です。そして、その後に第8章と第9章が癒しを中心にしたイエスの「行い()」の部分、そして第10章と第11章が弟子たちを派遣するに当たっての主イエスの「言葉(説教)」の部分と続き、マタイによる福音書全体が大きな「言葉(説教)」の纏まりと「行い」の纏まりを交互に示しつつ展開するように編集されています。

 今日の聖書日課福音書は「山上の説教」の冒頭であり、主イエスが人々に公に教えを述べられた最初の箇所のその最初の部分です。つまり、この箇所は、主イエスが公生涯で最初に教えを宣べたその始めの言葉と位置づけられます。

 主イエスは、弟子たちや多くの群衆が見守る中、口を開き、話し始めました。

 「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」

 主イエスに限らず、公の場で人が第一声に何を言うのかは、重要な意味を持っています。その人が最初に何を言ったのかは、その物語全体を暗示したり方向付ける大切な意味を含んでいることがあります。ましてこのマタイによる福音書が、み言葉とみ業の部分をまとめて意図的に編集をしたことが明らかであれば、マタイが伝えようとした主イエスのお姿がその山上の説教の第一声によく示されていると考えられます。その言葉が「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」です。

 日本語訳では主語になっている「心の貧しい人」が冒頭に来ていますが、この訳し方は整い過ぎているように思えます。

 大勢の人々を前に話す主イエスを想像して訳せば、この箇所は「幸いなのだよ、魂の貧しい人たちは!」となるのではないでしょうか。

 主イエスは、ご自分の周りに集まって来た人々に向かって、神のお与えになる幸いを宣言することから教えを説き始めました。主イエスのこの宣言は、この教えを聞いている人々の中に、大きな衝撃を与えたことでしょう。

 「幸い」についての内容があまりに違うからです。

 私たちにとって「幸い」とは何でしょう。また幸いの条件とは何でしょう。

 『広辞苑』で「幸い」を引いてみると、「運が良く、恵まれた状態にあること。幸福、幸運」と記されいます。多くの場合それは自分の欲望が満たされている状態を意味するのではないでしょうか。

 「自分の幸せ」と考えた時、おのおの具体的な中身は違っても、例えば家内安全、商売繁盛、健康維持、学力増進、身内の平穏無事などなど、自分の願いや欲求が満たされかつ平穏であることが幸いだと考えるのが一般的です。

 でも、主イエスは、幸せがそのようなものだとは言いませんでした。

 主イエスは「心の貧しい人々は幸いである」と言っていますが、この言葉をもっと原文の意味を強めて言うならば、「祝福されている。欠乏している人、霊において。」となります。

 他の日本語訳の聖書では、この箇所を「ただ神により頼む人は幸いだ。(共同訳)」とか「心底貧しい人たちには、神からの力がある。(本田哲郎神父訳)」と訳しています。また「頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ。(山浦玄嗣訳)」とも訳されています。

 自分の無力を知って、全てのことを主なる神に委ねて寄りすがるほかない人々こそ祝されている、と主イエスは言っておられるのです。

 「貧しい(ptωχοsピオーコス)」という言葉にも注目してみましょう。

 この言葉は「背を曲げる、恐れで縮こまる、萎縮する」という意味から生まれた言葉であり、神の前に救いを求めて屈むことが「貧しい」の意味です。つまり、神に祝される人とは、多くの苦難の中でも神に寄りすがって神との交わりを求めて止まない人々なのだということなのです。

 人は誰でも一生に2度そのような意味での自分の「貧しさ」を曝して、主なる神の前に出る時があるのではないでしょうか。その時とは「誕生」の時と「死」の時です。その時、私たちは命の与え主であるお方の前に全てを任せるほかありません。

 特に「死」はそれまでどれほどの財を築き業績を上げようと、全てを手放して自分を誰かに、何かに、お任せするほかありません。このように人は誰でも、他の何も頼みとすることが出来ず、死の先にまで全てを支配しておられる方に全てをお任せする以外に何も出来ない時があるのです。その時、人は誰もが自分の貧しさを知ってその受け容れるほかありません。

 主イエスは、そのような貧しさを死の間際にだけではなく、生きている真っ直中で味わっている人や味わわざるを得ない人は幸いである、神からの祝福をいただいている、と言っておられるのです。

 今、主イエスを取り囲んでいるのは、神の前に差し出せるものなど何もなく、もしあるとすればそれは貧しい自分だけ、という人たちです。主イエスはそのような人々をじっとご覧になって「幸せなのだよ、あなた方は」と言っておられます。私たちが自分では何も良い評価を与えることも出来ず、低く、悪く、貧しく捉えることしか出来ないようなことや、自分では認めたくない貧しさをも、主イエスは受け容れてくださり、その人を認めてくださり、その人を幸いな者、神に祝福されている者へと一挙に変えてくださいます。

 主イエスは、宣教の始めに先ず貧しい人々の幸いを宣言してくださいました。これが主イエスの「公生涯における宣教の第一声」であり、主イエスはこれからこのテーマを十字架の死に向かって生きていかれます。

 教会とは、このような貧しい自分を受け容れてくださり、愛してくださり、祝福してくださる主イエスによって生かされようとする人々の集まりです。その信仰以外に教会員であることの資格は必要ありません。

 パウロは今日の使徒書の中でそのことを教えています。

 パウロは「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」と言っています。人間的な知恵、能力、家柄などを誇ることは、人の心が神に向かうことを妨げます。人間的な知恵、力、家柄などは、人の「貧しさ」を自覚させず、そこに生まれる不遜や傲慢は人が神と出会う道を閉ざす誘惑にさえつながるのです。私たちが自分の貧しさを認めて神の前にその自分を開くときに、神は貧しさを幸いに変えて祝福してくださいます。パウロはユダヤ人ベニヤミン属の生まれでファリサイ派教育を受け、その自分を誇っていました。パウロは、主イエスが律法の細則を守らずに汚れた人々に関わることに我慢できず、その信仰を持つ人を受け入れられずに迫害しましたが、やがてキリストと出会って回心し、「自分の弱さを誇ろう」と言い「私は弱い時にこそ強い」とまで言うように導かれました。

 主イエスは私たちのことも弱さに生きるように導いてくださいます。本来、私たちが、貧しく価値の無い者でありながらも教会に集い生きることが出来るのは、私たちの貧しさの中に宿って力を与えてくださる主なる神の愛を知っているからです。

 主イエスは、ご自身の説教の第一声で、ただ神により頼むほか無い貧しい人たちの幸いを宣言してくださいました。しかも、主イエスはそれを説教によってお示しになっただけではなく、ご自身の行い(み業)の中で、貧しさに徹して生きぬいてくださり、貧しい人の幸いを身をもって示してくださいました。

 主イエスは言っておられます。「天の国はその人たちのものである。」

 「天の国」とは、神の御心が現れ出ている姿であり、私たちの中に神の御心が行き渡っている状態を意味しています。神の前に自分の弱さ、貧しさを知り、ただひたすら神により頼む人々に神の国の姿が現れ出ることを主イエスはご自身の教え(説教)の第一声とされたのでした。

 私たちも自分の貧しさに気付き、受けいれ、そこに働く主イエスの恵みによって祝され、天の国の喜びに与らせていただきましょう。主イエスが宣言された「貧しさの中にこそ与えられる祝福」に生かされて参りましょう。


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2023年01月24日

冬、来たりなば・・・。 (あいりんだより2009年1月)

冬、来たりなば・・・。

   神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。 (コリントの信徒への手紙Ⅰ 10:13)

 私は、この正月ひどい風邪をひいて寝込んでしまいました。ただうなって寝ているほか何もできない自分をもどかしく思いながらも、症状に耐えて横になっているとき、上記のタイトルや聖書の言葉が脳裏に浮かんできました。

「冬、来たりなば、春遠からじ。」

 日本には季節の移り変わりがあって、四季にはそれぞれの美しさがあります。私が小学生の時、強い木枯らしに打たれながら過ごす冬の日々の生活の中で、当時の担任の先生が教えてくださった言葉が今も思い出されます。それは単なる季節の移り変わりを表す言葉ではなく、厳しく辛い状況の中にも希望を抱いて生きることを促す言葉であったように思います。

 しっかりと冬を越した年の桜は美しいと言われます。また、寒さに当たらなかった水仙やヒヤシンスなど春の花は咲きが良くないとも言われます。これらのことは単に目先の悩みや苦しさをごまかす言葉ではなく、私たちをより深い真実へと向かわせる言葉なのではないでしょうか。

 時々、私たちは、子育てが一直線に順調に進むものではないことを思い知らされます。それは、ちょうど高くジャンプしようとするなら一度膝を折って体を沈み込ませるのと同じように、子どもたちも精神的に成長しようとするとき、これまでの自分が崩れるような経験をしたり再構築しなければならないからなのではないかと思うのです。樹木が四季を過ごして年輪を作るように、子どもたちも試練を越えてこそたくましく育つのです。

 たとえば、プラレール遊びの中で小さな単純な円形のレールを構成して満足していた子どもが、もっと沢山レールをつないで電車を走らせようとするのなら、一度はその小さな円形のレールをはずして、直線レール、曲線レール、切り替えポイントなどを使って、しかも最後にはすべてをつなぎ合わせて電車がいつまでも走るようにすることを学んでいきます。それと同じように、子どもは自分を作りかつ崩し、伸びる時としゃがみ込む時という成長の四季を繰り返しながら、一段と大きく育っていくのではないでしょうか。

 今は、寒い冬の時期です。やがて、立春になる頃から、季節は三寒四温を繰り返しながら春に向かいます。子育ても、私たち大人の思い通りにならないときこそ、子どもたちの新しい可能性への歩みが始まるのかも知れません。それは、神さまが私たち大人に対して、子どもの新しい可能性に気付かせるために与える試練なのかも知れません。

 私は寝床でうなりながら、こんな言葉も思い出していました。

 「花の咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて花咲く春が来る。」

 子育ての基本は小手先のことではありません。子どもの抱える課題も、一朝一夕に解決できない場合の方が多いのではないでしょうか。

 比喩的な言い方になりますが、寒さの厳しいときにこそ子育ての基本に戻りましょう。(あいりんだより2009年1月号)



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2023年01月23日

クリスマスよ喜びを 2008年12月

クリスマスの喜びを

園長 小野寺達

 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである。」(ルカによる福音書第2章10~11節)


 神さまは、神さまがお創りになったこの世界を愛し、いつも気にかけておられました。神さまはこの世界のいろいろな出来事をご覧になりました。ことに、この世界に尊い命を受けたにもかかわらずはじき出されたり抑圧されたりして貧しく孤独に生きる人々をご覧になって、神さまはこの世界を深く憐れみ、そのような人々の弱さや貧しさにまで降りてきてくださいました。ただ天上であがめられていることに満足なさらず、敢えて弱く、貧しく、小さな姿を取って、神さまはこの世界に来てくださったのです。ヨセフとマリアとの間に生まれた幼子は神の子であるにもかかわらず、産着も揺りかごもなく、家畜小屋の中の飼い葉桶に寝かされたのでした。

 このように救い主を理解するところから、「馬小屋での救い主誕生」の物語や「貧しい羊飼いへの救い主誕生の知らせ」の物語が生まれてきたのでしょう。

 今から二千年近く前、イスラエルの片隅の馬小屋で生まれたイエスは、神の御心を実現しようと生き抜いた末に十字架に架けられて死んでいきました。そのイエスの生と死を目の当たりにした人々の中に、やがて「イエスは救い主(メシア)である」という信仰が生まれます。

 実は、このイエスの誕生日が1225日であったかどうかは定かではありませんし、イエスの誕生の場所が馬小屋であったかどうかも事実とは言い難いのです。聖書が伝えているのは、イエスの歴史的事実の記録ではなく、イエスの生涯をとおして多くの人が初めて神とは何であるのかを知り神の望んでおられることが何であるのかを理解することができたことと、そこからイエスこそ神の子であるという信仰が生まれたことです。

 わたしたちは、イエスをとおしてこの世に示された神の愛の働きを知ることができ、それを受け入れることによって本当の自分を取り戻すことができます。わたしたちは自分が神に愛されている事を受け入れるとき、自分と隣人を本当に愛することができるようになりますが、神を忘れると自分をこの世の優劣の基準で判断して思い上がったり逆に無価値だと思ったりしてしまうこともあります。

 わたしたちは、「我」は強くても中身は臆病であるようなところはないでしょうか。イエスは馬小屋に命を宿してくださいましたが、それはわたしたちの心の奥深くにひそむ貧しく弱いところに宿ろうとするためでした。わたしたちは、自分を神の子イエスの住まいとしているのですから、神さまと人々との交わりの中で喜んで自分と隣人を大切にして生きていくことができます。その喜びを分かち合うのがクリスマスです。

 クリスマスの喜びが、わたしたち一人ひとりの心の奥底からの喜びとなり、そしてまたわたしたちの幼稚園の枠を越えて拡がっていくようにと祈りたいと思います。

 もし、わたしたちが神のように全能であり万能であったら、その中から何をすることを選び取るでしょうか。神は「貧しさ」と「弱さ」を選び取りました。最も小さく弱く貧しい姿になってこの世に来てくださったイエスさまは、その誕生の出来事をとおして「さあ、神の愛を受けて、大切なあなた自身として生きなさい」と促しておられます。わたしは、キリスト教保育の基盤もここにあると思います。

(あいりんだより2008年12月)

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2023年01月22日

ガリラヤ湖の漁師たちを召し出す  マタイによる福音書第4章12~23節  A年(顕現後第3主日) 

ガリラヤ湖の漁師たちを召し出す  マタイによる福音書第4章1223節  A年(顕現後第3主日) 2023.01.25

主イエスの宣教の働き(公生涯)は、ガリラヤ地方で始まりました。

 当時、ユダヤ教の一般的なまた常識的な考えによれば、ガリラヤ地方からメシア(救い主)が出現することはないとされていました。今日の聖書日課福音書を記したマタイは、そのようなユダヤ教の考えを否定し、イザヤ書の言葉を用いて「異邦人のガリラヤ、闇の中に住む者は大いなる光を見た。・・・死の陰に住む人々に光がのぼった。」と、救い主イエスの働きが、神のご計画の中でガリラヤから始まっていることを伝えています。

 そして、主イエスは、宣教の働きの始めに、ガリラヤ湖で漁をする二組の兄弟を最初の弟子を召し出されたのです。

 ガリラヤ湖は、南北約21㎞、東西約12㎞の竪琴のような形をした大きな湖です。その竪琴の頂点つまり北のはずれにカファルナウムの町がありました。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネの各兄弟はこのカファルナウムに住み、ガリラヤ湖で魚を取って暮らす漁師でした。

 主イエスが彼らに声をおかけになったとき、彼らは自分の仕事の真っ最中でした。ペトロとアンデレは漁の真っ最中であり湖で網を打っていました。ヤコブとヨハネは、おそらく漁を終えていたのでしょう、父のゼベダイと一緒に舟の中で網の手入れをしていました。この二組の兄弟は、主イエスの「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」という招きの言葉に応えて、すぐに網を捨て、また舟を置いて、主イエスに従っていきました。

 ペトロと呼ばれるシモンとアンデレは、主イエスに声をかけられ、20節にあるように二人は直ぐに網を捨ててイエスに従いました。また、ゼベダイの子ヤコブとヨハネも主イエスに呼ばれると、22節にあるように、この二人も直ぐに舟と父親とを残してイエスに従いました。

 私たちはこのようにして主イエスに召し出された人の話を聞いて何を思うでしょうか。この福音書を記したマタイが強調しているのは、20節と22節で繰り返しているとおり、この二組の兄弟が「直ぐに従った」ことなのです。

 私たちはこの福音書の物語から、主イエスの招き(召し出し)に対して Yes No かをはっきり応えなければならない時があるということを覚えなければなりません。

 この二組の弟子たちに限らず、私たちも、自分は主イエスの宣教の働きに加わるのに相応しいかどうか、ためらったり尻込みしたくなる時があるかもしれません。しかし、主イエスの招きを熟慮して、弟子になる条件が備わっているかどうかを吟味してからお返事をしますというのであれば、一体誰が主イエスの召しに応えられるでしょう。

 主イエスに召し出されるということは、教会の牧師になることだけに関わる問題ではありません。召命とは、どのような職業に就くにしても、その仕事を通して神の御心を生きることであり、自分の生きる場所に神の御心が一つ現れ出るように働くことです。私たちは何時どこにいても「御国が来ますように」、「御心が天に行われるとおり地にも行われますように」と祈りながら、自分が置かれている「今、この場で」その具体的な働きへと生きていくことが、召命に答えることであると言えるのではないでしょうか。

 大切なことは、自分がどのような場に置かれていても、自分の生き方をとおしてその場に神の御心が現れ出るように努めることであり、天の国はそこから開かれてくるのです。

 主イエスに召し出されると言うことは、例えば回心したパウロのように、何か特別な決定的な出来事を契機とするとは限りません。

 むしろ、神の呼びかけは、この二組の漁師たちのように、まさに生活の真っ只中に主イエスが働きかけてこられることなのではないでしょうか。

 「召し出しされる」と言うことは、二組の漁師がそうであったように、主イエスが他ならぬ自分の生活の中に入ってこられ、声を掛けてくださっている事を自覚して、その御声に真剣に応えることであり、その働きが教会の教役者であるかどうかに関わらず、また給与を得るための働きであるかどうかに限らず、私たちは主イエスの弟子として主イエスの招きに応えていくことを求められているのです。

 もし「主よ、あなたははっきりと私を招いてくださったことは一度もありませんでした」と言う人がいるとすれば、主なる神は「いや、私はあなたを召し出すために、毎日の生活の何気ないことの中で、あなたを招き続けていたのだ」とお答えになるに違いありません。

 教会の「聖書を語る会」などで、今日の聖書日課福音書の箇所を用いて自由に感想を述べ合うと、よく「ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネは、残された家族のことをどのように考えていたのだろう。そのことへの心配や痛みはなかったのだろうか」という感想が述べられます。主なる神の召し出しに応えることは、熟慮を重ねた上で納得して出来るとは限りません。この物語の中心にあるメッセージは、私を愛しておられる主イエスの呼びかけに気付き、私は主イエスに従うのか、それとも主イエスの招きに答えることをためらって、逃げたり拒んだりするのか、問題はその一点にあるのです。そして、私たちの思いを超えた恵みが神の招きの先にあると信じるのなら、私たちは招いてくださる神の恵みを無駄にすることなく、私たちの目の前のこと一つひとつを神の招きの出来事としてとらえ、それに応えていく歩みを進めていきたいのです。

 洗礼や堅信礼を受けることへの招きであれ、教会の交わりから離れている人の回復の招きであれ、あるいは日々の生活の中での小さな決断であれ、それが神の招きてあり、その招きの恵みに対して応える決断があるかどうかが問題となるのです。

 ヘブライ人への手紙第11章1-2節に次のような言葉があります。 

 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」

 この言葉が示しているように、多くの信仰の先人たちは信仰によってそれまでの自分とは異なる一歩を踏み出した時があります。仮にその先がどうなるのか見通せないような中でも、神がそのことを願っておられると信じて、その結果は自分の目で確かに確認できなくても、信仰の先人たちは神が願っておられる事柄を確信し、神から促されて初めの一歩を踏み出していくことによって、この世界に神の望む世界が一つ開かれていく経験を与えられたのです。そして、この経験は、神の召し出しを信じて応えることによってのみ得られる大切な経験だったのです。

 今日の聖書日課福音書は、主イエスに招かれた弟子たちが「網を捨てて」また「舟と父を残して」主イエスに従ったと記しています。これは主イエスが私たちに自分の財産を放棄することや修道士になることを求めていることではなく、家族を放り出して宣教者になることを勧めているわけでもありません。

 主イエスに従って「人間をとる漁師」として生きていくように召し出された人は、自分の目の前の出来事の一つひとつを主イエスに与えられた課題として捕らえ、召された自分が主なる神の栄光を顕わす器となるように生きていくのです。この点をはき違えると、たとえこれまでの職業を捨てて修道士になったとしても、自分の名誉のためにただ職業を変えたことにしかならず、主なる神や教会をただ自分の思い通りにしたいだけのことになるでしょう。

 私たちがどのような働きをするにしても、自分に与えられた生活を主イエスに従って御心を現していく態度こそ「人間をとる漁師」に相応しいと言えるのです。

 主イエスの招きの言葉に応えて、主イエスに導かれ、他の多くの人々を主イエスの群れに招き入れる「人間をとる漁師」としての歩みを進めていくことが出来ますように。
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2023年01月20日

眼差し (あいおんだより 2008年11月)

眼差し    園長 小野寺 達

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。」(ヨハネによる福音書第8章12節)

 子どもたちは、しばしば大人の眼差しを求めています。

 例えば、よちよち歩きの子どもが母親より先に歩いていて、道ばたに大きなミミズを見つけたとしましょう。その子どもは後ろにいるお母さんを振り返ります。そして、お母さんとしっかりと視線を合わせると、ミミズの先まで更に遠くよちよちと歩いていくのです。また、縄跳びができるようになった子は「お母さん、見ててね。」と言わんばかりの視線をお母さんに向けて縄跳びにチャレンジし、できると「ホラ、上手になったでしょ」と誇らしげにお母さんに視線を向けて、お母さんの眼差しを求めます。

 心理学の世界では子どものこのような動きをソーシャル・リファランスと呼んでいますが、子どもばかりではなく、人は誰でも「重要な他者」の眼差しを求めて承認を得ながら自分を確認していくのでしょう。この確認がいつも確かであれば、人は自分に自信を持てるようになり、更に他の人に対しても積極的に相手を支える関わりができるようになっていきます。この確かな眼差しを受ける経験が乏しいと、他人の気を引こうとして自分の本心とは違うのに目立つようなことをしてみたりトラブルを起こしたりすることにもつながります。また、自分にとって大切な人からの確かな眼差しを受けられない子どもは、自分の存在感がぐらついたり、何をやっても認めてもらえない思いを深めて無気力になっていく場合もあるようです。でも、確かな眼差しを受ける子どもは、多くの場合、大人が見守っているだけで遊びの質は深まり発展していきます。

 子どもを自由に遊ばせることとは、決して放任したり子どもに無関心でいたりすることではありません。自由に遊ぶ子どもにしっかり心を向けて暖かな眼差しを送ることは子どもの成長に欠かせないことであり、しっかり見守る大人が子どもの経験を共感しながら適切な言葉をかけていくことは子どもの情緒の安定にとって大切な要素です。また、私たち大人は、子どもを大きな危険や悪事から守ることも大切なことであり、そのためにも子どもたちをしっかり見守ることを忘れてはならないでしょう。こうした眼差しの中で、子どもたちは内在する成長力を少しずつ表に示すようになってくるのであり、具体的にできるようになる一つひとつの事柄はその成長力の実りであるといえるでしょう。

 秋の深まりを感じる季節になりました。今月は幼稚園でも小さな三角畑でさつま芋掘りをいたします。収穫の秋、実りの秋です。5月に植え付けたさつま芋が土の中でどのように育っているのか、掘り上げるのが今から楽しみです。自然の豊かな恵みを感謝するとともに、改めて子どもの内的な成長と収穫についても振り返ってみたいと思います。目に見えてできるようになったことも沢山あります。でも、目に見えてできるようになったことの支えとして、私たちは家庭で、幼稚園で子どもたちにどのような眼差しを向け、どのように言葉をかけてきたのかを振り返り、一層豊かな眼差しと言葉かけができるようになっていきたいと思います。

 たくさんの太陽の光を受けたさつま芋が大きく太くなるように、暖かな眼差しの中で子どもたちはその成長力を一層パワーアップしていくことでしょう。

 そして、私たちがこうして生かされている根源には神さまからの温かい眼差しがあることを信じたいと思います。

(あいおんだより2008年11月)

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2023年01月19日

59. 鶏(雄鶏) αλεκτωρ アレクトール

鶏(雄鶏) αλεκτωρ アレクトール

 鶏 αλεκτωρアレクトールという言葉は、「聖書のキーワード」として取り上げるには相応しくないかもしれません。聖書の中でキー概念となる言葉ではないからです。でも、聖書にある言葉として興味深いものがあり、取り上げてみました。

 教会の建物のてっぺんに風見鶏が立てられていて、「教会なのに十字架ではなくて、なぜ鶏なの?」と思った方はいますか。風見鶏は、「聖霊」の表現でもある「風」に反応するものの象徴として聖堂の屋根の高いところに立てられていることがあります。

 さて、聖書の中で鶏(αλεκτωρアレクトール)が出てくるのは、弟子のペトロがイエスのことを否認する場面であり、4福音書ともにこの場面で鶏が鳴いています。

 イエスは、最後の晩餐のあとに、ご自分の十字架の死を予告しますが、その予告を受け入れられないペトロにイエスはこう言いました。

 「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは3度、私を知らないと言うだろう(マルコ14:30)。」

 やがて捕縛されたイエスは大祭司の館の外で取り調べを受けますが、その場にそっと潜り込んだペトロは、その館の女から「この人はあのイエスの仲間だ」と言われて、イエスを否定し呪いの言葉さえ用いて「知らない」と言ってしまいますが、その時、鶏が鳴き、ペトロはイエスの言葉を思い出して泣き崩れたのでした。

 鶏は、人を寝床から起き上がらせる存在であり、人を我に返らせる存在の象徴とされます。

 αλεκτωρアレクトール(鶏)とφωνηフォーネー(声)を合わせてαλεκτροφωια(アレクトロフォニア:鶏の鳴く時刻)という言葉が、たった一度だけ(マルコ13:35に)出てきます。この鶏が鳴く時刻とはローマ式の時間区分によれば「第3の見張り時(夜中の12時から午前3時」であり、ペトロがイエスのことを「知らない」と言い、鶏が鳴いたのは午前3時頃のことだったと思われます。

 ここからは聖書物語のジョークです。

 天国の鍵を授かったペトロは、この世の生涯を終えた人々がそこに入るに相応しいかどうか判定するために、天国の門で番をしています。そこにかつてイエスを売り渡したイスカリオテのユダがやってきました。ペトロはユダを追い返しますが、しばらくすると再びやって来てユダは追い返そうとするペトロの耳元で何かをそっと囁きました。するとペトロは急に表情を変えてユダが天国のを門を通ることを許したのでした。

 この様子を見ていた他の弟子たちはユダに「お前、ペトロに何を言ったんだ?」と尋ねると、ユダはニヤリと笑って言いました。

「俺は一言コケコッコーって言ってみたのさ。」

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体感

体感     園長 小野寺 達

岩を土台としていたからである。(マタイによる福音書5:25

 先日、医院の待合室で何気なくある『子育て誌』を手にとってみました。その雑誌の特集に「夏こそトイレットトレーニングのチャンス」というコーナーがありました。大筋はどんなことなのか想像しながら開いてみました。

 しかし、その覧を読み始めて私は思わず「ここまでやるの!?」と声に出してしまい、待合室にいた人が私の方を見て苦笑いしていました。

 私を驚かせた内容とは、2,3歳の子どものトイレットトレーニングについて、「まず子どもに排尿の感覚を得させましょう」ということから説明を始めていたことでした。今から二〇年ほど前に子育て真っ盛りだった私にとって、我が子が2,3歳の頃には、既に子どもが排尿感覚を持っているのは当たり前のことと考えられました。私は、オシッコをしてしまった我が子が自分でパンツを下げながら「チーチ出ちゃった」と言っていたことを昨日のことのように思い出します。

 現代の子どもたちは、ある意味とても守られた環境の中にいます。例えば、排尿しても不快感を味わうことのないすぐれた素材の紙おむつ。季節を問わず温度を保ち除菌した空気のでるエアコンのある部屋。乗っていればあたかも自動的に目的地に到着するかのような移動。遊ぶことも、座っていれば画面の中でどんどん場面は展開していきます。そして、食べる物にしても骨を取り除いた魚に完全調理されたカレーやハンバーグなどなど。このような意味で守られた環境では、かえって子どもの身体的感覚は育ちにくく磨かれにくいのではないでしょうか。そして、実はこどもの対人関係はまずます希薄になってしまっているのではないでしょうか。だからこそ『子育て誌』の特集も子どもに自分の身体感覚を掴むようにさせることから始めているのでしょう。

 さて、それではこうした環境に置かれた子どもたちに対する私たち大人の責任や課題は何でしょう。その答は、難しい表現になってしまいますが、子どもの心身の感覚を共感的に理解して言葉をかけたりスキンシップをすることを増やすことだと思います。なぜなら、子どもに限らず私たち人間は他者との対話(コミュニケーション)を通して自分の認識を深めたり確認することができるからです。努めて一緒にいる機会を持ち、子どもの取り組んでいることに手は出さずに目を掛け、形容詞を使って子どもの気持ちに共感する言葉をかけてあげるのが、子ども自身が身体感覚を養っていくことの基本だと思います。また、ブランコ、トランポリン、でんぐり返し、鉄棒、かけっこなど、その他何でも積極的に体を動かす遊びを通して、その場での感覚や感触を言葉に表現できるように支援していくことも大切なことです。

 スポーツの秋。寒くなる前に、屋外でたくさん体を動かして遊ぶ時を作りたいと思います。筋肉の緊張とリラックス、手足のバランス感覚をはじめ、子どもたちのあらゆる身体感覚を豊かに、しかも鋭く育てていきたいと思います。

(あいりんだより2008年10月)

posted by 聖ルカ住人 at 15:26| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月18日

説教のYouTube配信 2023年1月17日

説教のYouTube配信

 東松山聖ルカ教会では、コロナ対策の一環として、主日礼拝をYouTube配信をするようになって1年経った。ただし、個人情報を保護する意味でも対象を教会の信徒に限定し、配信を希望する人には書面での申し出をしていただき、その人に限定してライブ配信とその後の動画を閲覧できるような体制をとった。
 私たちの教会外の方々と情報交換する中で、他の教会の信徒も、コロナ禍で礼拝の開催が制限されていたり、教役者不在の主日には信徒の人が聖書朗読をするだけで説教がない場合もあり、せっかく私たちの教会でYouTube配信しているのなら、教会外の人たちにも閲覧できるようにすることを希望するという声も戴いた。
 そこで、これまでの対象者を限定したライブ配信の意図は保ちつつ、礼拝の中でも説教部分だけを切り取って配信することの可能性を検討した。結果、ライブ配信ではないが、説教部分を切り取って、試しに配信してみることにした。
 本教会から発信する福音のメッセージが動画を通して教会外の人々にも届くことを思うと、この20年ほどでパソコンの環境は大きく変化していることを痛感する。上手に用いていきたい。この作業を行うのは、私ではなく、パソコンやiPadの操作に詳しい教会員である。
 視聴していただくには、パソコンの検索エンジンを用いて、例えば「東松山聖ルカ教会 YouTube」などと入力すれば、容易にアクセルできると思う。
 まだ1月15日顕現後第2主日の聖餐式の動画のみだが、できるだけコンスタントに続けてアップロードできるように努めていきたい。
 ちなみに、以下が一昨日の礼拝における説教のURLである。 
posted by 聖ルカ住人 at 20:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月17日

My祈祷書・My聖歌集のすすめ

  50年近く前のこと、私の堅信礼準備の時に、当時の牧師にこう言われました。「自分の祈祷書、聖書、聖歌集は持っていますか。自分の祈祷書で礼拝し、自分の聖歌集で歌いなさい。」

 親のお下がりの祈祷書と聖歌集を使っていることを伝えると、牧師は堅信礼の記念に祈祷書をプレゼントして下さいました。堅信式後に初陪餐そして祝会、戴いた祈祷書の表紙裏に按手してくださった教区主教、牧師、ゲストで来会した米国聖公会の執事(女性)にサインをしていただきました。その祈祷書と相変わらず親の聖歌集と聖書をカバンに入れて主日に出かける教会生活が続きました。

 再び教会に戻ろうと思うようになった頃、祈祷書を読み通してみたことを思い出します。その時の感想は「まさに揺り籠から墓場まで」の祈りが用意されているということでした。その内容は、日々の朝夕の礼拝(当時の文語祈祷書では「早晩祷」でした)や聖餐式、聖婚式や産後感謝式、病床の祈り、通夜、葬送式、逝去記念の祈り、聖職按手式や牧師任命式等々で、現行祈祷書も殆ど変わりありません。私には、主日の礼拝でもこのような祈祷書の全体を感じながら祈ることは大事なことのように思えるのです。

 現行祈祷書の中の聖餐式本文はp.162~ですが、その前に「準備の祈り」が数種類あることはご存知ですか?教会暦に応じて、聖餐式の前にその準備の祈りも出席者と一緒にしたいと思う時もあります。また、様々な感謝や祈願の祈りも掲載されていることもご存知でしょうか?日々、自分の言葉で祈ることの大切さを踏まえつつ、祈祷書にある成文祈祷をすることで自分の祈りが補われたり軌道修正されたりすることもあります。是非My祈祷書をお持ちになって、主日の礼拝にもMy祈祷書で礼拝することを心がけていただきたいと思うのです。

 My祈祷書を持つことの意味を理解すれば、My聖歌集を持つことの意味もお分かりでしょう。

 現行の『日本聖公会聖歌集』も先ず1ページ目から読んでみると興味を引くかもしれません。ここには挙げませんが「へえ、そうなのか!」と思うことが誰にでもいくつかあるはずです。また、目次をみれば580曲の聖歌がどのような順番に並んでいるのかなどの概要も理解できるでしょう。きっと聖歌を歌うことの恵みや楽しみと共に聖歌にまつわる知識や雑学も楽しいものになるのではないでしょうか。

 私が昔お世話になったある信徒の方は、自分の聖歌集に何時その歌を歌ったかを小さく記録していて、その聖歌をある主日礼拝で歌った後、「この聖歌はあなたのお祖母ちゃんのお葬儀でも愛唱歌として歌ったね」と懐かしそうに話しかけて下さったことがありました。その人の古今聖歌集511(現行聖歌集471)「恵みのかげに」のページには「小野寺リウさん愛唱歌」とでも書かれていたのでしょうか。先月、他教会の親しい信徒の方が逝去され葬儀に行きました。その方の愛唱歌としてその聖歌が歌われ、主の御許でこの聖歌が幾度も歌われるだろうと思いました。

 祈祷書と聖歌集だけでなく、聖書も自分の本を持って、自分の礼拝用書で礼拝することは大切なことであると思います。「My聖書」については機会を改めて記したいと思います。

 教会備え付けの礼拝用書を用いても、コピーを用いても、その内容に変わりはありませんが、自分の信仰生活を日常化するために、是非自分の祈祷書、聖書、聖歌集を持って大いに用いていただきたいと思います。

(『マラナ・タ』東松山聖ルカ教会教会通信2023年1月号)


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