2022年12月18日

クリスマスを迎える

12月 クリスマスを迎える

 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(ヨハネによる福音書第19)

  12月です。クリスマスについて思い巡らせたいと思います。

 今から2000年近く前、世界の片隅で人々を愛して関わり続けた末に十字架にかけられて死んだイエスという男がいました。彼の一生は無駄であったように見えながら、この人を救い主と信じる人々によって受け継がれ、教会が成立しました。教会はイエスを伝え、イエスをとおして示された愛の働きを行い、イエスと同じように迫害を受けたり弾圧されたりしますが、世界は少しずつこの愛に動かされ、やがて大きく変わっていったのです。

 他の人を愛して関わり続けることは武力や冨や権力の前には無力であるように見えますが、本当の愛を受けた人は自分を取り戻して、生きる力と希望を得るのです。そして、愛され慰められることを求めることから、他の人を愛し慰めと励ましを与えて平和をつくり出す人へと生まれ変わっていくのです。

 「キリスト」とは「救い主」の意味です。そして「マス」は「礼拝」という意味です。つまり、救い主(キリスト)であるイエスの誕生を覚えて感謝してその喜びと平和を分かち合い、礼拝(マス)するのがクリスマスです。

 愛そのものは、目に見えるものではありません。他の人に言葉をかける時や何かをする時に、愛はそこに溶け込んでいるのです。神の愛が、この世界にイエスという人となって溶け込んで現された記念の日がクリスマスだと言えるでしょう。しかも、神はこの世界の貧しく汚れた場所に愛を宿してくださいました。その愛を受けた私たちは、感謝してその愛を分かち合い、イエスにならって愛を実践することを神から促されています。神の愛はひ弱な優しさを育てることではなく、平和をつくり出す心や正義を貫く強さを育てることにもつながっています。それに伴う苦しさや難しさの中にも救い主は共にいてくださるのです。

 子どもたちが、クリスマスを迎える準備をしながら、ご自分の命を賭けてこの世界に愛を与えてくださったイエス・キリストのことを少しでも理解できるように勉めて参りたいと思います。

 ご一緒に主イエス・キリストの御降誕を感謝しましょう。

(愛隣幼稚園(宇都宮)園便り『あいりんだより』2007年12月 )


posted by 聖ルカ住人 at 20:07| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神が共にいてくださる  マタイによる福音書第1章18~25       A年降臨節第4主日

神が共にいてくださる   マタイによる福音書第1章1825       A年降臨節第4主日 2022.12.18


 降臨節第4主日を迎えました。

 主イエス不在のクリスマスは華やかです。しかし聖書が伝えるイエス誕生物語は、今日の聖書日課福音書の箇所に限らず、華やかさの根底にある深い感謝と喜びの源を伝えています。

 今日の聖書日課福音書より、マタイによる福音書第1章23節のみ言葉を心に留めましょう。

 『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は「神は我々と共におられる」という意味である。』

 青年ヨセフは、マリアとの結婚を控え、希望に満ちた幸せな時を過ごしていたことでしょう。ヨセフはマリアとささやかな家庭を築き新しい生活を始める期待に胸をふくらませていたと思われます。当時の婚約は律法の上で結婚に等しい重みがあり、今の婚約より遙かに社会的な拘束力も強いものでした。

 その大切な時期に、ヨセフの知らないうちに、婚約者マリアが身籠もりました。ヨセフは驚き、真っ暗闇の底に突き落とされるような思いに襲われたことでしょう。「自分の知らないうちに婚約者マリアが身籠もるとは。私はどうすればいいのだ。」と言って、戸惑い、憤り、悲しむヨセフを私たちは想像することができます。

 マタイによる福音書第1章19節には、「夫ヨセフは正しい人であったので」と記されています。ヨセフは当時の律法に基づいて正しく生きていた人で、婚約期間中も律法に忠実に生活していたはずです。そのヨセフには婚約者のマリアが「姦淫の罪」を犯したなどとはとても考えられません。しかし、ヨセフの目の前には、確かに身籠もっている自分の婚約者マリアがいます。

 もしマリアが姦淫の罪を犯したのであれば、「正しい人」であるヨセフが選ぶるべき道は2つありました。一つは、法廷に訴え出ることです。旧約聖書の律法によれば婚約者の裏切りは既婚者の裏切りと同じ扱いをすることになりますので、法廷に訴えることになります。でも、ここでヨセフがマリアを法廷に訴えることはヨセフがマリアを信じていないことを公にすることになるのです。それでは、マリアはいっそう苦しむでしょう。でも、いずれにしても、やがてマリアが身籠もっていることは誰の目にも明らかになります。

 申命記第2222節以下には婚約者の不貞、姦淫について記しています。

 「ある人が夫がいる女と寝ているのを見つけられたならば、その女と寝た男もその女も死ななければならない。」それに続けて「ある男と婚約した処女の娘がいて、別の男が町の中で彼女に目をつけ、彼女と寝たならば、二人を町の門の所に引き出し、石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。」

 ヨセフが訴え出ればマリアは、申命記第22章にあるとおり、石打ちによって処刑される可能性もあります。それはヨセフの望みではありませんでした。

 そこでヨセフはもう一つの道を選びました。

 それは、マリアとの結婚を密かに解消して離縁することでした。

 申命記第241節には「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時は、彼女に離縁状を書いてわたし、家を去らせることができる」とあります。

 ヨセフはマリアのことを公にはせず、律法に従ってわずかな証人を立てて、マリアに離縁状を渡し、ヨセフがマリアの許から離れていくという選択肢があります。ヨセフはマリアが身籠もった責任を自分が引き受けて、人々の批判や中傷も皆自分が受けることにして、マリアと別れてひっそりと生きていく事を選ぶのです。

 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするするのを望まず、密かに離縁しようと決心」しますが、それはこの律法に従っての決断であったのです。

 ヨセフにとってこれが自分に出来る限界でした。この後、マリアが子どもを抱えてどう生きていくかということや、マリアとその子が未婚の母と子という負い目を背負って生きていく困難があることなど、ヨセフには分かっていても、マリアと密かに離縁するのがその時のヨセフには一番「正しい」ことであり、それ以外にはどうすることも出来ない状況にありました。

 しかし、このような悩みと困難の中で、主の天使がヨセフの夢に現れて告げました。

 「恐れずマリアを妻に迎え入れなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。」

 福音記者マタイは、この出来事について、旧約聖書イザヤ書第7章14節の言葉を引用して、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」ということが実現する事なのだと語ります。そしてインマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味であると説明しています。

 ヨセフは自分の悩みと困難の真っ直中で、「神は我々と共におられる」と呼ばれるお方がマリアを通して生まれることを告げられました。ヨセフは、こんなに深く辛い出来事を通して、自分がインマヌエルと呼ばれる救い主の父親となるために選ばれていたのでした。

 マタイによる福音書は、先ず第1章1節からイエス・キリストの系図があり、その直後に今日の聖書日課の個所があります。イエス・キリストの系図の中には、当時いわば「穢れ」とされた者が幾人か混じっています。また、当時の考えによれば、系図は男性によって繋ぐのが当然とされていましたので、今日の福音書の個所のようにイエスの出生が父親のヨセフを通してではなく乙女マリアを通して記されしかもそれを公にされることは、イエスがアウトローの生まれであることを公にすることに他なりませんでした。普通であればこうした記述は伏せておきたいことであったり、出来ることなら他の人に知らせずに済ませたいことであるはずです。福音記者マタイはこの福音書によって主イエスの生涯を記して、このイエスこそキリスト(救い主)であることを知らせているのですが、その始まりに置いた系図で、敢えてイエスは「汚れ」の混じる「罪の子」としてこの世に生まれたことを伝えている、と言えるでしょう。

 そのようにしてお生まれになった主イエスは、やがてインマヌエル(神は私たちと共にいます)をこの世に実現する働きを始めていきます。その生涯は、殊に病の人々や障害を負った人々など、その当時は悪霊に取り憑かれたと考えられ罪人扱いされていた人々と共に生きて、その痛みや悲しみを共に負う生涯でした。

 私たちは他の人と共にいることの大切さを知ると同時に、その難しさを覚えざるを得ません。私たちは、日々の生活のごく身近なことでさえ自分の本当の思いが理解されていない時に歯がゆさや苛立たしさを感じます。主イエスは、その時代の中で、重い皮膚病の人たちや罪人呼ばわりされ差別されている人々と共に生きる道を歩まれました。罪人呼ばわりされる人々たちは主イエスに関わっていただく前には、理解されずに蔑まれ、認められないことで味わう絶望感は私たちの想像を遙かに超えていたと思われます。主イエスはそのような人々と共に生きる事をお選びになり、その人々の重荷を共に担い味わって過ごされ、身をもってインマヌエル(神は私たちと共にいます)という神の子の姿を示してくださいました。そして、主イエスは、最後には十字架の上から、絶望のうちに死に逝く人とさえ共にいてくださることをお示しになりました。

 私たちは、自分の中にある痛みを深く内省する時、他の人々の痛みに対しても少しは共にいることができるようになれるかもしれません。その大切さを認識する一方で、私たちがどんなに他の人と共に生きようとしても、私たちは他の人との間には「共にいる」ことの限界があることも認識すべきです。そして、主イエスは、そのような他の人との間の埋めることの出来ない断絶した孤独感や他の人々が踏み込むことの出来ない奥底にまでも共にいて下さるために、敢えて貧しく汚れた姿をとってこの世界に来て下さったのです。

 マタイによる福音書の最後、第2820節で主イエスはこう言っておられます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」

 神は、主イエスのお生まれの時に「神は私たちとともにいます」ことをヨセフに知らせました。主イエスはそのご生涯を「自分は神に見捨てられている」と思い悩む人々と共に過ごして「神は私たちと共にいます」ことをお教えになり、最後に主イエスを救い主と信じる人々に宣教をお命じになり、その働きに出て行く者と共に世の終わりまで共にいてくださると約束して下さったのです。

 私たちは、主イエス・キリストのご降誕の日を間近にして、インマヌエルの主イエスをお与えくださった神の恵みを思い起こしたいと思います。その感謝と喜びを心に留め、主イエスがいつも私たちと共にいてくださることを喜び祝うクリスマスを迎えましょう。

            願わくは、父と子と聖霊の御名によって。アーメン

posted by 聖ルカ住人 at 09:45| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする