洗礼者ヨハネの命 マタイによる福音書11章2~11節 A年降臨節第3主日 2022.12.11
先主日、私たちは降臨節第2主日の特祷で、「慈しみ深い神よ、あなたは悔い改めを宣べ、救いの道を備えるため、預言者たちを遣わされました」と祈りました。そして、先週の聖書日課福音書では、その旧約時代の預言者として最後の人として位置づけられる洗礼者ヨハネが人々に大声で悔い改めのしるしとなる洗礼を授けている場面が取り上げられていました。
今日の聖書日課福音書には、洗礼者ヨハネが捕らえられて獄中にいるとき、自分の弟子を使者として主イエスに遣わした箇所が採り上げられています。
洗礼者ヨハネは、主イエスの所に自分の弟子をおくり、「来たるべき方は、あなたですか」と尋ねさせています。これに対して、マタイによる福音書第11章10節で、主イエスは旧約聖書の言葉を用いて「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」と書いてあるのはこの人のことだ、と言って、主イエスが洗礼者ヨハネのことを意味付けておられます。
洗礼者ヨハネは今、ヘロデ・アンテパス王に捕らえられて獄中にいます。なぜ投獄されることになったのかについては、マタイによる福音書第14章に記されています。
当時ユダヤの地方を治めていた領主ヘロデ・アンテパスにはフィリポという兄弟がいました。ヘロデは自分の兄弟フィリポの結婚相手であるヘロディアを奪って自分の妻にしてしまうのです。ユダヤの人々はこのようなヘロデ・アンテパスを批判的に思いながらもこの男を恐れて皆黙っていました。ところが、洗礼者ヨハネはヘロデのところに出向き、公然と「あの女と結婚することは律法で許されていない」と告げて批判しました。ヘロデはヨハネを捕らえて牢に入れてしまいます。そしてヘロデは、ヨハネのことを殺そうと思うのですが、民衆がヨハネのことを支持していることを考え、またヘロデはヨハネを殺す理由も見つからず、そのままヨハネを牢の中に置いておきます。ヨハネは、ある意味で臆病者のヘロデ・アンテパスによっていつ殺されるかも分からないまま牢の中で過ごしています。このようにして牢で過ごす洗礼者ヨハネの思いは、わたしたちの想像を遙かに超えて不安であり、また辛いものであったに違いありません。
洗礼者ヨハネは、ヘロデに捕らえられる前、人々に神の怒りが差し迫っていることを大声で叫び、悔い改めを迫り、洗礼を授けていました。ヨハネは人々に向かって、来るべき救い主にお会いする時に備え、罪を告白して洗礼を受けるように大声で勧めていました。このヨハネは自分の言葉においても行いにおいても、神の義を示す人でした。ヨハネは、ヘロデ・アンテパスが兄弟の妻を奪って自分のものにしたことについても毅然とした態度でヘロデに迫りますが、その事がきっかけになって、ヨハネは投獄されたのです。
こうして牢にいるヨハネにも、自分が指し示した救い主イエスのお働きについての噂が伝わってきていました。ヨハネは自分の使者(弟子)を主イエスのところに遣わして、主イエスにこう尋ねるのです。
「来るべき方はあなたでしょうか。」
ヨハネはこの時、きっと自分がヘロデに殺されることを予感して心が揺らいでいたのでしょう。自分が全身全霊をかけて「見よ、神の小羊」と指し示し、「わたしはその履き物をお脱がせする値打ちもない」と言って紹介したイエスが本当に「来るべきお方(救い主)」なのかと、ヨハネは自分の弟子を遣わして主イエスに尋ねないわけにはいかないほどにその確証を求めたくなっていたのでしょう。ヨハネは神の義に基づいて領主ヘロデを正面から批判した事によって、死を覚悟しなければならない状況に追い込まれています。もし自分のしたことが、何かによって、また誰かによって、しっかりと消えない意味を与えられなければ、自分の人生は空しいものになってしまうとヨハネは思ったのでしょう。そして、ヨハネにとってその「誰か」とは、また「何か」とは、自分が全身全霊をかけて指し示した主イエス以外にはあり得なかったことも言うまでもありません。
主イエスは、ヨハネが遣わしてきた弟子にお答えになりました。
「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」
主イエスが伝えたこの言葉は、今日の旧約聖書日課イザヤ書第35章の預言がイエスを通して実現しているということでした。
このみ言葉は、預言者イザヤがこの世界が神の望む姿に回復した時の姿を謳ったものです。この世界が神の御心が成就したときの姿とは、すべての人の目が開け、すべての人が自分の足で歩き、すべての人が本当のことを聞き分け、死んだ人も生き返り、貧しい人にも喜びの知らせがもたらされるようになることです。イザヤはメシアが到来した時の様子をそのように思い描いて謳っているのです。そして、主イエスはその時が既に今来ているとヨハネに告げなさいと言っているのです。イザヤが預言した救い主の到来はこのように今実現していると主イエスは言っておられます。
この言葉を受けた洗礼者ヨハネの弟子は、この主イエスの言葉を伝えるためにヨハネのもとに戻ります。それはただ戻るのではなく、主イエスに遣わさていくのです。
洗礼者ヨハネは、獄中でこの御言葉を受け、イエスこそ確かに自分が指し示してきた救い主であると確信し、安心して主イエスに自分のすべてを委ねることができたことでしょう。いや、それ以上に、洗礼者ヨハネは主イエスを指し示して人々に悔い改めを説いた自分の働きに大きな満足を与えられたことでしょう。
洗礼者ヨハネは、この後、ヘロデ・アンテパスの誕生を祝う場で、妻ヘロディアの悪巧みによって首を切られて殺されることになります。それでもヨハネはそのようにして自分の生涯が閉じられることになる不安や恐れも乗り越えて、自分が来たるべき救い主を指し示した生涯は確かなそして消えない意味をが与えられていることを確信できたことと思います。旧約聖書の預言者たちが語り指し示してきた神の救いの完成が主イエスによって示されている事を告げられ、洗礼者ヨハネはその確信をもって神のもとに召されていきました。
洗礼者ヨハネは、「旧約時代の最後の預言者」と位置づけられます。洗礼者ヨハネのことは旧約聖書には記されてはいませんが、救い主イエスにお会いするために「悔い改めよ」と人々に訴えたという意味で、洗礼者ヨハネは「旧約時代の最後の預言者」と言えます。ヨハネの働きが主イエスによって成し遂げられ、意味づけられ、ヨハネはヘロデに殺されても、洗礼者ヨハネの生涯は主イエスによって決して消えない意味が与えられ、ヨハネは永遠の命に生かされています。
この視点を持って、洗礼者ヨハネの弟子たちのことに移してみましょう。不安を抱いて獄中のヨハネによって遣わされたヨハネの弟子は、主イエスご自身からイザヤ書の御言葉によって自分の先生のしてきたことをしっかりと意味づけていただき、今度は主イエスからいただいたその確信をヨハネのところに携えていく役目を主イエスから与えられています。ヨハネもその弟子も、主イエスによって再び新しい命の中に生かされ、ヨハネもヨハネの弟子たちもこれまでとは違う主イエスの福音の光を放ち始めるのです。
このことは、洗礼者ヨハネとその弟子たちに限ったことではなく、旧約時代を生きた預言者たちもそうであり、また新約時代を生きる私たちにも言えることなのです。
天体にたとえるなら、地球も水星も金星も、火星も木星も、太陽を回る惑星はどれも太陽を中心にして位置づけられて初めてそれぞれの軌道が見えてくるように、私たちも主イエスによって与えられた神の愛の中に受け入れられ意味づけられることによって初めて自分が生きていることの確信を得ることができるのです。また、惑星は、自分で光を放つのではなく、太陽の光を映し出しているように、洗礼者ヨハネも、私たちも、主イエスを映し出す時にこそ人々の前に光りを輝かすことができるのです。
主イエスの御降誕の日が近づいてきます。私たちは、洗礼者ヨハネがそうであったように、私たちも主イエスに受け入れられ、永遠の命のうちに生きることものとされることを教えられます。私たちは主イエスによって与えられる喜びを得て、神の愛の光を映し出す者とされますように。
posted by 聖ルカ住人 at 06:07|
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