2022年12月07日

「愛」って何?

 「愛」って何?

 これから、子育てについて私が思うことをいろいろ話をしたいと思いますが、先ず、かたい話から始めましょう。
 人間関係の基盤にあるのが愛です。愛を基盤にしてこそ良い人間関係が創られます。
 でも、よーく考えてください。私たち、この「愛」という言葉の中身をホントに分かって使っているのでしょうか。昔から演歌にもロックミュージックにもこの言葉は「耳にタコができる」ほど耳にしてきました。
 『広辞苑』を引いてみました。「愛」とは・・・。
 ①親兄弟のいつくしみ合う心。広く人間や生物への思いやり。
 ②男女間の愛情。恋愛。
 ③かわいがること。めでること。大切にすること。
 途中省略して
 ⑦キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと。→アガペー。
 そして⑧の愛蘭(アイルランド)略
というのまでありました。
 辞書の説明の限りではそういうことなんだけれど、愛って何でしょう。
 わたしが「愛」について教えられたのは、愛の反対語を考えたときです。
 論理学の上では、「愛」という言葉はその反対語を挙げることのできる言葉ではありませんが、敢えて「愛」の反対語を思い巡らせてみたいと思います。
 普通、わたしたちが「愛」の反対語は何ですかとたずねられたら、どう答えますか。多くの人は「憎しみ」とか「恨み」とか答えるでしょう。きっと90パーセントくらいの人はそう答えるでしょう。
 でも、キリスト教でいう愛の反対語はむしろ「無関心」「無関係」です。無視したり関わろうとしないことの方が、恨んだり憎んだりするより、「愛無き行為」なのです。マザー・テレサは、物質的な先進国日本の問題はこのような意味での「愛」がないことだと言いました。
 この反対語からもう一度「愛」という言葉について考えてみましょう。
 「愛」とは、自分の隣にいる人に関わることです。誰もが神さまから与えられた大切な命を宿しています。その命が損なわれたり無駄にされることの無いように、自分の隣にいる相手を支えて関わりぬくことが愛なのです。そうであれば、聖書でイエスの説く「愛」は、好きかどうかの感情を表す言葉ではなく、他の人に関わろうとする意志や行為を表す言葉であるとも言えるでしょう。
 「子育て」にはそのような意味での「愛」が必要です。目の前にいる隣人である我が子が、神からプレゼントされた命を豊かに大きく育むためには、体の栄養と同時に「愛」が必要なのです。時には自分の思い通りにならないからと言って苛立ってしまったり、子育てに疲れを感じるときもあるでしょう。でも、そんな時はあなたが神からを受けていることを思い起こしてください。そしてその愛に生かされて最も身近な隣人である我が子にどこまでも関わっていけますように。


posted by 聖ルカ住人 at 23:51| Comment(0) | 子育て応援 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

色とりどりの子どもたち

『色とりどりの子どもたち』

 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。」(マタイによる福音書6:28)

 明るい5月になりました。「花の5月」と言われます。在園生たちがまだ赤ちゃんだった頃、人気グループのSMAPが歌う『世界に一つだけの花』という音楽が、毎日のようにラジオから流れていました。「どの花も二つとない特別なオンリーワンの花、他の花と較べることなく、その花を咲かせることに一生懸命になればいい」という意味の歌詞だったでしょうか。

 私はこの歌を聞くと、いつも上記の聖書の言葉を連想します。そして、小さな子どもたちが一人ひとり取り替えのきかない命を神さまから与えられていることを思い、オンリーワンの存在としてそれぞれに自分の花を咲かせることができるように育って欲しいと祈る思いになります。

 野の花の一つひとつがその花らしく咲くためには、天の恵みとしての太陽の光と雨の水が必要になります。その恵みを受けて野の花は次第にその中に宿している特性をあらわし、やがてオンリーワンの花を咲かせるのです。

 私たちの場合はどうでしょう。私たちがオンリーワンの存在となるためには体の成長とともに心や知力の成長が必要になります。私たち人間の心身の成長には、自然の恵みだけではなく人と人との「交わり」を必要とするのです。私たち人間は、他の人々との交わりの中で、「愛」という栄養を与え合い受け合いながら次第に成長していきます。子どもは放任されていては自分で心や知力を育てていくことを学べず、目の前の課題を解決していくために自分の力を集中することも出来なくなります。また、人と人との暖かな交わりを持った経験のない人が他の人の成長を支援することも難しくなるでしょう。私たち大人はきめ細かく丁寧に子どもたちに関わり、子どもたちが自分で育とうとする意欲を引きだしていきたいと思います。そして、子どもたち一人ひとりがオンリーワンの花を咲かせるための成長の過程を子どもたちと共に喜ぶ者でありたいと思います。

(愛隣幼稚園『あいりんだより』2007年5月)

posted by 聖ルカ住人 at 23:01| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

『愛隣』という名前

『愛隣とは』

 「隣人を自分のように愛しなさい。」(ルカによる福音書第10章27節)

 私たちの幼稚園の名前である「愛隣」は、聖書の教えです。この言葉は、主イエスさまがある人から「何をしたら。永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と問いかけられたことにお応えした言葉です。その答の中心が「愛」なのです。

 「愛」とは何でしょう。聖書が伝える「愛」とは、「神さまのお考えが相手と自分の間に現れ出ることを願って、どこまでも関わり続けること」です。ですから、相手に対して無関心でいることや相手を思わず自分勝手に振る舞うことは、主イエスさまの教える「愛」とは正反対のことであると言えます。

 近年、親子や地域に限らず、人間関係がずいぶん希薄になり危うくなってきているように感じるのは私だけでしょうか。人間に本来与えられているさまざまな可能性は、人と人の関係の中で芽を出し、花開き、実を結びます。例えて言えば、人が人として精神的に成長していくために必要な栄養が「愛」であり、人は「愛」によって互いの「愛」を育むのです。そして、子育ても幼稚園教育も原点はこの「愛」にあるのです。愛に基づき、「今、神さまは私の目の前の隣人に何をすることを願っておられるのだろう」と自分に問いかけながら、私たちは子どもたちと関わり、良い交わりを創り上げていきたいと思います。

 春です。幼稚園も新年度に入りました。教職員一同、互いに「愛」を育み、自分と同じように隣人を愛する人になれるよう、祈り合いつつ、神さまから与えられた勤めに励んで参りたいと存じます。その中から、子どもたちも自分のように隣人を愛する人に育っていくにちがいありません。 

 『あいりんだより』2007年4月号

*『あいりんだより』は、私が愛隣幼稚園(栃木県宇都宮市)に園長として勤務した2007年4月から2015年3月までの園便りの巻頭文です。

posted by 聖ルカ住人 at 10:14| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする