2022年12月05日

『バラになったのぞみ』のこと

『バラになったのぞみ』のこと           司祭 ヨハネ 小野寺達

  東松山聖ルカ教会の教会通信『マラナ・タ』の第2号(2021年8月号)に、「平和を思う」と題して、私の父親が作出した「のぞみ」という名のバラについて、父の遺文を紹介しつつ掲載させていただきました。

 教会報『我が牧者』にも、「同じ文章でよいから是非『のぞみ』の物語を紹介したい」とのご提案があり、私はここに再度「バラになったのぞみちゃん」のことを掲載していただく機会が与えられました。その時の文章を再度ここに掲載していただいてもよいと思いましたが、私はその後もう一つの父の文章に出会いました。内容は、前回とほぼ同じではありますが、今回はもう一つの父の文章を共有していただければ幸いです。

 昨年の8月以来、「のぞみ」にまつわる二つの大きな出来事がありました。

 その一つは、『バラになったのぞみちゃん』という小冊子が再発行されたことです。私がこの冊子を知ったのは、2020年3月にNHKEテレの『趣味の園芸』で「のぞみ」が採り上げられたときのことでした。その番組では、日本人の作出したばらと作出者を5分間ほどの連載特集で「天津乙女」「芳純」などの剣弁高芯のばらを中心に一つずつ採り上げ、その最終回が小野寺透作出の「のぞみ」だったのです。その中で渡辺桂子さんが発行された『バラになったのぞみちゃん』(非売品)という冊子により「のぞみ」の命名の由来が紹介され、反響を呼び、私の所にもその冊子が欲しいという依頼や問い合わせが数件あったのです。

 しかし、私たち家族は渡辺桂子さんとは面識もなく、その冊子の入手方法も分からず、やがて彼女が逝去されたという情報だけがどこからか伝わってきていました。私は、既に「のぞみ」は小野寺の親族を離れて世界に羽ばたいており、親族だということで「のぞみ」と関わることはかえって控えていたと言ってもよいと思います。

 ところが、2022年に入って間もない頃だったかと思いますが、私の所に島田秀郎さんという方からメールが届いたのです。

 島田秀郎氏は2019年の冬に東京のある病院に入院されてリハビリに励んでおられる頃に、同じ病院に渡辺桂子さんが入院され、二人は知り合い友だちになりました。お二人の入院生活の中で、ある日渡辺さんは島田氏に「バラになったのぞみちゃん」の話をされ、渡辺さんは島田さんに彼女が持っていた最後の一冊「バラになったのぞみちゃん」をお渡しになったのです。それから時が過ぎ、既に渡辺さんは逝去され、「のぞみちゃん」を思い出した島田氏はもう一度その冊子を出版して沢山の人にこれを知らせたいという思いを強くされたのでした。島田氏はその思いや最後の一冊の小冊子のことなどをクリスチャンの友人に話したところ、幾人かの繋がりを経て「のぞみの作出者小野寺透の息子は日本聖公会の司祭で水戸の教会の牧師をしている」ということにまでたどり着き、島田氏からその冊子が間もなく再発行されるので出来たら贈りますというお知らせを受けたのでした。

 私は、島田秀郎さんから送っていただいた300部の小冊子を多くの方にお渡しすることを自分の課題としてこの数ヶ月を過ごしてきました。この『バラになったのぞみちゃん』の小冊子にはどのような背景となる出来事があったのかを島田氏の文章や『マラナ・タ』第2号に掲載した私の文章など印刷して、この小冊子に沿えて多くの方にお送りし、私の手許の小冊子は25部(10月末現在)を残すまでになりました。

 そしてもう一つ、この渡辺桂子さんと島田秀郎さんの流れとはまったく別の流れでで、絵本『ばらになったのぞみ』が刊行されたことを報告させていただきます。

 大雨をもたらした台風が通り過ぎた9月19日、牧師館の電話が鳴りました。相手の方は「今、東京にいるのだけれど、台風の影響で飛行機が全便欠航となり、今日は熊本に帰れなくなって時間が出来たので、東松山まで会いに行きたい」とのこと。電話の相手は『バラになったのぞみ』(文・おがわるり 絵・かとうゆうみ 熊日出版制作)と題する絵本を出版された小川留里さんでした。

 私は、その絵本が今年の7月1日付けで発行された直後に偶然にこの刊行を知り、直ぐに出版元に注文していたのですが、その時に合わせて手紙を書き『マラナ・タ』第2号、島田秀郎氏によって再発行された故渡辺桂子氏作成の小冊子『バラになったのぞみちゃん』とその冊子再発行の経緯を記した島田氏の文章などを出版社にお送りしたのでした。

 間もなく私の手許に届いた郵パックの中には、絵本と一緒に著者小川さんの手紙といくつかの資料が添えられており、その中に、熊本ばら会会長(当時)故高木寛氏が日本ばら会の会報『ばらだより』に寄稿なさった文章のコピーがあり、高木寛氏はその文章の中で小野寺透と「のぞみ」を紹介してくださっていました。以下がその文章ですが、紙面の都合により一部省略と字句修正の上、ここにご紹介します。

 題は「バラになった幼女のぞみ」です。

 5年ほど前に小野寺先生から一通の手紙をいただきましたが、同封してある1985年にカナダのトロントで開催された第7回世界ばら会議で講演された小野寺先生の「ばらになった幼女のぞみ」を拝読して、はじめて「のぞみ」に秘められた悲しい物語を知ることができました。この感動すべき物語を出来るだけ忠実に紹介したいと思います。

 1985年にカナダで開催された世界ばら会議に出席するため、日本からの長い空の旅のあと、トロント空港に着いた私を上品な紳士が私を迎えてくれました。彼は、カナダ聖公会の司祭評議員今井献氏で、私の姪ののぞみの父であります。

 第二次世界大戦が終わりに近づいたころ、私の妹と若い聖公会の司祭は結婚して一年しか経っていなかったが、彼に召集令状が届けられました。

 二人はやがて生まれてくる子どもの名を捜しました。それは男にも女にもふさわしい名前であり、また希望に満ちたものでなくてはならなかったのです。

 そして、子どもが生まれたら「のぞみ」と命名するように二人で約束して彼は入隊しましたが、南太平洋の最も激しい戦いがおこなわれている島におくられ、生死の間をさまよう毎日を過ごしました。のぞみが生まれたときも、消息は全くわかりませんでした。司祭の親は満州に住んでいました。そのころは、女性がそこに行くことは大変困難で、まして赤ちゃんを連れて行くなんて、とても出来ることではありませんでした。

 しかし遂に彼女は、子どもを連れて1945年の雪の降る日に、満州行きの最後の船に辛うじて乗ることが出来ました。のぞみと母親と祖母が落ち着いた生活を楽しむことが出来たのも束の間で、やがて悲しい終戦を迎えました。

 一方、生死不明ののぞみの父は、九死に一生を得て、1945年の暮れに日本に帰国しましたが、満州に居る彼の家族の消息は全く判りませんでした。

 あらゆる手段と教会関係の協力によって、やがて消息が伝わってきました。

 女性の家族にとって、満州で生き延びることがきわめて困難であったために、のそみの祖母が亡くなり、続いて母が死に、3歳になったのぞみだけが生きているという便りが届きました。時が経ち、1947年の寒い冬に、満州からの撤退が終わりに近づいたとき、のぞみが帰国するというニュースが届きました。それは4歳の幼女にとって、堪えがたい長い長い旅でした。

 帰国予定の日に、彼女の父は胸を躍らせて品川駅に迎えに行きました。しかし、無駄だったのです。一日延期になったと告げられました。翌日、再び駅に迎えに行きました。彼の手には、のぞみのための小さい白い手袋が握り締められていました。汽車が到着して、彼は娘を捜しましたが、悲しいかな、のぞみは丁度2時間前に最後の息を引き取ったと告げられたのです。初めて抱く娘のぞみはまだ温かく、まるですやすやと眠っているようでした。

 その後、私は私が作出したグランドカバーローズに、死んだ姪の名をとって「のぞみ」とつけました。この世を去った少女が今も尚咲きこぼれ、世界の人から愛されていることは、私にとって大きな驚きであり、感謝に堪えません。

 私は、私の講演を次のように結びました。「のぞみの父親がカナダとイギリスにおいて司祭としての長い生活を終えて静かに余生を送っているトロントで、「のぞみ」について講演することが出来たことは、神の導きであります。神に感謝!」

 この文章の後に、高木寛氏はご自身の思いを綴っておられます。その一部を引用させていただきます。

 私は、この悲しい物語を読みながら、戦争のもたらす悲惨さに心いたむ思いでした。父親は、子供を抱きしめて、頬ずりしながら感ずる温かさに幸せの時をもつものですが、のぞみの父親は初めて抱きしめる娘になお残された温かみが、やがて次第に冷たくなってゆくのを、どんな思いで堪えられたのでしょう。ジャック・ハークネス氏は、小野寺氏の趣味の背景には「民族の間の、平和と愛を広める際に、ばらは政治より大声で訴える。」という信念が存在すると称えています。私も「のぞみ」を栽培していますが、日本が生んだ平和の薔薇として、アンネのばら同様に、多くの人に見てもらいたいと願っています。

 バラの栽培を趣味として私の父と交流のあった高木寛氏が上記の文章を記してくださったのは1993年7月20日付けです。そして、高木寛氏と交流のあった小川留里さんによって本年(2022)7月1日付けで絵本『バラになったのぞみ』が生まれました。私と妻は東松山聖ルカ教会を訪問してくださったおがわるりさんと初秋の半日を牧師館で語り合って過ごすことが出来ました。彼女は「自分の中にのぞみが生きている」と言っておられました。

 「のぞみ」のきわめて個人的な物語の中に、人類の普遍的な課題が見えてきます。「のぞみ」は、世界中の子どもたちがもう「のぞみ」と同じ経験することなどない世界を実現するために、どのように生きるのか、何が出来るのか、何をすべきかを私たちに問いかけてきます。私にとってこの一年間は「のぞみ」に関する出来事がこれまでになく多い年でした。そして、私はこの一連の出来事を通して、この世では会うことのなかった私の叔母(今井純子スミコ)と従姉妹(今井のぞみ)は、私にとって遠い第三者なのではなく、私の家族なのだという思いを強く持つようになりました。叔父の今井献司祭は後半生を英国とカナダで過ごし、2007年11月27日に96歳で逝去しておりますが、今も日本聖公会東京教区のレクイエムで覚えてくださっています。1984年11月に私の両親と妻と今井献司祭とで純子とのぞみの墓参をした日が昨日のことのように思い出されます。

(『我が牧者』東松山聖ルカ教会 教会報 2022年12月11日発行 より)

*訂正とお詫び 文中の 渡辺桂子さんのお名前が、誤って「渡辺祥子」と記載されていた箇所があるとのご指摘をいただきました。ご指摘をありがとうございます。訂正させていただきます。

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posted by 聖ルカ住人 at 18:03| Comment(1) | エッセー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする