悔い改めよ マタイによる福音書3章1~12節
降臨節の第2主日を迎えました。今日の聖書日課福音書には、洗礼者ヨハネが主イエスの先駆けとして、人々に悔い改めを説き罪の赦しを与える洗礼を授けていた物語が取り上げられています。
私たちは、降臨節第2主日の特祷で「慈しみ深い神よ、あなたは悔い改めを宣べ、救いの道を備えるため、預言者たちを遣わされました」と祈りました。
この祈りの言葉の預言者の一番最後に位置づけられるのが、洗礼者ヨハネです。
洗礼者ヨハネは、大声で人々に訴えました。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」。
洗礼者ヨハネは、直ぐに来られる救い主を指し示し、人々に悔い改めを宣べ伝えました。
始めに、今日の福音書から、洗礼者ヨハネの姿に注目してみましょう。マタイによる福音書3章4節にあるとおり、「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野密を食べ物として」いました。主イエスの時代の人々がこの「らくだの毛衣を身に着け、腰に革の帯をしている」という姿を聞けば、誰でも直ぐに一人の偉大な預言者を思い浮かべることが出来ました。それはエリヤです。福音記者マタイは、洗礼者ヨハネがエリヤと同じ格好をしていることに注目し、またこの洗礼者ヨハネの姿から誰もがエリヤのことを連想させる手法によって、この時代の様子をこの福音書の読者に伝えていると言えます。では、福音記者はなぜヨハネの格好に注目しているのでしょう。その事を理解するために、エリヤについて思い起こしてみましょう。
エリヤは紀元前800年代の預言者です。エリヤの働きは、旧約聖書列王記の中に記されていますが、列王記の上巻から下巻に移る頃に登場してきます。その時代は、イスラエル王たちが異教の神に心を揺さぶられたり誘惑されることの多い時代であり、エリヤはそのような王たちを相手に厳しく戦う預言者でした。その中でも、特に、紀元前850年の頃、イスラエルはアハズヤという王の時代のことです。ちょうど、列王記下第1章にある物語です。
アハズヤは不信仰な王でした。ある時、アハズヤは王宮の屋上の欄干から落ちて起き上がることが出来なくなってしまいました。アハズヤは、家臣に命じて自分が治るかどうか異教の神バアル・ゼブブに尋ねさせようとします。王の命令を受けた使者たちは出かけていきますが、その途中で彼らはエリヤに出会うのです。その時、エリヤは次のように言います。「あなたたちは、イスラエルに神がいないとでも思って異教の神の所に行くのか。異教の神バアル・ゼブブなどに頼るアハズヤは今寝ているベッドからもう二度と降りることはない。」
エリヤはこうに言って、王アハズヤの不信仰を激しく非難しました。王の遣いたちはアハズヤの所に戻って、途中でその人から言われたことを王に伝えます。すると王は「お前たちにそのようなことを告げたのはいったいどんな男だったのか」と尋ね、彼らは王に次のように答えるのです。
「毛衣を着て、腰には革の帯を締めていました。」
それを聞いたアハズヤ王は言いました。「それはテシュベ人エリヤだ。」
この姿からも分かるとおり、エリヤは極めて質素に禁欲の暮らしながら、ただ神の御心がこの世に現れることを祈りながら、神の言葉を取り次ぐ預言者でした。福音書に登場する洗礼者ヨハネも、このエリヤと全く同じ姿をしています。福音記者マタイは、洗礼者ヨハネをエリヤの再現として位置づけて描いているのです。そしてそのヨハネは、人々に悔い改めを迫り、罪の赦しのしるしとなる水による洗いを施す運動を興していたのでした。
旧約聖書のいちばん最後にマラキ書がありますが、その第3章23、24節にエリヤについてこう記されている箇所があるのです。
「見よ、わたしは大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。」
マラキ書は、主なる神はこの世界に対して最後の審判を下される時に、その先駆けとして預言者エリヤを遣すと預言しました。旧約聖書の時代も時が進むと、イスラエルの人々の間に、裁きの時が来て、その時神に選ばれた者は救いに入ることができると考えるようになってきました。そして救い主の誕生が待ち望まれる時代になっていました。
このような時代に洗礼者ヨハネは現れました。ヨハネは預言者エリヤの姿と重なります。ヨハネは大いなる恐るべき日が来る前に遣わされるべきエリヤであり、救い主の先駆者となり、救い主イエスを具体的に指し示したことを福音記者マタイは私たちに伝えているのです。
救い主の先駆けである洗礼者ヨハネはこう言います。
「悔い改めよ、天の国は近づいた。」
私たちは、今、教会暦では、神の御子イエス・キリストを迎える備えの時を過ごしていますが、私たちは今日の聖書日課福音書から、救い主の到来が間近であることを思い、その備えをするように促されています。洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、神の子を迎える時は近づいた。」と私たちに向かって叫んでいます。もし私たちが罪に支配され、私たちの心が罪に占領されているとしたら、私たちの中に神の御子を宿せる場所は用意されていないことになります。罪を悔い改めようとしない者にとって「終わりの時」とはその罪が顕わにされ、裁かれる時になるでしょう。そうであれば、罪を悔い改めない人にとって、裁き主にお会いすることは、先のマラキ書の言葉のように「大いなる恐るべき日」になるでしょう。私たちは洗礼者ヨハネの「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉をどれだけ真剣に、どれだけ自分のこととして聞いているのでしょうか。
もし、私たちが、たった今主なる神と顔を合わせてお会いするとしたら、私たちはどんな思いになるのでしょう。或いは、主なる神が、たった今、この世界の営みを全て完成すると宣言なさるとしたら、私たちはどのようにその時を迎えるべきなのでしょう。その時、私たちはやるべきだったのにやり残したり真剣に向き合うべきだったのにそうできなかったことや、相手と和解すべきだったのにそのままにしてしまったことや、与えられ利用したりはしたもののこちらからは与えず尽くせずにやりに残してしまったこと、やり足りなかったこと等々が一瞬のうちに浮かび上がり、裁かれて当然である自分を思い知ることになるでしょう。
私は「終わりの時」について色々と考えるとき、いつも思い出すことがあります。それは、20年以上も前に、車を走らせていた時にラジオから流れていた番組で紹介されていた川柳の一句です。
それは、「オペ前夜懺悔をしたきことばかり」という句でした。手術を明日に控えた病院のベッドで、独りで、手術についての不安だけでなくこれまでの自分のあらゆる言葉と行いが思い出されてくる心の内が、よく表現されていると思います。
このような思いを糸口に考えてみると、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、神の国は近づいた」と説く言葉は、私たちにとっても切実な課題であり、しかも神の子を迎える準備をする私たちに相応しい言葉であることが理解できるのではないでしょうか。
洗礼者ヨハネが迫る「悔い改め」は、やがていつか来る時の備えではなく、今ここで、自分の心をしっかりと神に向けることなのです。私たちの心の奥底にある自分の罪深さを認めて向き合い、そこに宿ってくださる御子イエス・キリストを迎える準備をするために「悔い改めよ」と洗礼者ヨハネは訴えています。
主イエスを救い主と信じて受け容れる人にとって、洗礼者ヨハネの「悔い改め」を促す言葉は、恐ろしい言葉なのではなく、私たちが主なる神とお会いする喜びへの招きです。主イエスを私たちの内に深くお迎えできるように、御心に適う備えを進め、悔い改めにふさわしい実を結べるよう、洗礼者ヨハネの言葉を迎え入れ、導かれて参りましょう。
私たちは、降臨節第2主日の特祷で「慈しみ深い神よ、あなたは悔い改めを宣べ、救いの道を備えるため、預言者たちを遣わされました」と祈りました。
この祈りの言葉の預言者の一番最後に位置づけられるのが、洗礼者ヨハネです。
洗礼者ヨハネは、大声で人々に訴えました。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」。
洗礼者ヨハネは、直ぐに来られる救い主を指し示し、人々に悔い改めを宣べ伝えました。
始めに、今日の福音書から、洗礼者ヨハネの姿に注目してみましょう。マタイによる福音書3章4節にあるとおり、「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野密を食べ物として」いました。主イエスの時代の人々がこの「らくだの毛衣を身に着け、腰に革の帯をしている」という姿を聞けば、誰でも直ぐに一人の偉大な預言者を思い浮かべることが出来ました。それはエリヤです。福音記者マタイは、洗礼者ヨハネがエリヤと同じ格好をしていることに注目し、またこの洗礼者ヨハネの姿から誰もがエリヤのことを連想させる手法によって、この時代の様子をこの福音書の読者に伝えていると言えます。では、福音記者はなぜヨハネの格好に注目しているのでしょう。その事を理解するために、エリヤについて思い起こしてみましょう。
エリヤは紀元前800年代の預言者です。エリヤの働きは、旧約聖書列王記の中に記されていますが、列王記の上巻から下巻に移る頃に登場してきます。その時代は、イスラエル王たちが異教の神に心を揺さぶられたり誘惑されることの多い時代であり、エリヤはそのような王たちを相手に厳しく戦う預言者でした。その中でも、特に、紀元前850年の頃、イスラエルはアハズヤという王の時代のことです。ちょうど、列王記下第1章にある物語です。
アハズヤは不信仰な王でした。ある時、アハズヤは王宮の屋上の欄干から落ちて起き上がることが出来なくなってしまいました。アハズヤは、家臣に命じて自分が治るかどうか異教の神バアル・ゼブブに尋ねさせようとします。王の命令を受けた使者たちは出かけていきますが、その途中で彼らはエリヤに出会うのです。その時、エリヤは次のように言います。「あなたたちは、イスラエルに神がいないとでも思って異教の神の所に行くのか。異教の神バアル・ゼブブなどに頼るアハズヤは今寝ているベッドからもう二度と降りることはない。」
エリヤはこうに言って、王アハズヤの不信仰を激しく非難しました。王の遣いたちはアハズヤの所に戻って、途中でその人から言われたことを王に伝えます。すると王は「お前たちにそのようなことを告げたのはいったいどんな男だったのか」と尋ね、彼らは王に次のように答えるのです。
「毛衣を着て、腰には革の帯を締めていました。」
それを聞いたアハズヤ王は言いました。「それはテシュベ人エリヤだ。」
この姿からも分かるとおり、エリヤは極めて質素に禁欲の暮らしながら、ただ神の御心がこの世に現れることを祈りながら、神の言葉を取り次ぐ預言者でした。福音書に登場する洗礼者ヨハネも、このエリヤと全く同じ姿をしています。福音記者マタイは、洗礼者ヨハネをエリヤの再現として位置づけて描いているのです。そしてそのヨハネは、人々に悔い改めを迫り、罪の赦しのしるしとなる水による洗いを施す運動を興していたのでした。
旧約聖書のいちばん最後にマラキ書がありますが、その第3章23、24節にエリヤについてこう記されている箇所があるのです。
「見よ、わたしは大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。」
マラキ書は、主なる神はこの世界に対して最後の審判を下される時に、その先駆けとして預言者エリヤを遣すと預言しました。旧約聖書の時代も時が進むと、イスラエルの人々の間に、裁きの時が来て、その時神に選ばれた者は救いに入ることができると考えるようになってきました。そして救い主の誕生が待ち望まれる時代になっていました。
このような時代に洗礼者ヨハネは現れました。ヨハネは預言者エリヤの姿と重なります。ヨハネは大いなる恐るべき日が来る前に遣わされるべきエリヤであり、救い主の先駆者となり、救い主イエスを具体的に指し示したことを福音記者マタイは私たちに伝えているのです。
救い主の先駆けである洗礼者ヨハネはこう言います。
「悔い改めよ、天の国は近づいた。」
私たちは、今、教会暦では、神の御子イエス・キリストを迎える備えの時を過ごしていますが、私たちは今日の聖書日課福音書から、救い主の到来が間近であることを思い、その備えをするように促されています。洗礼者ヨハネは「悔い改めよ、神の子を迎える時は近づいた。」と私たちに向かって叫んでいます。もし私たちが罪に支配され、私たちの心が罪に占領されているとしたら、私たちの中に神の御子を宿せる場所は用意されていないことになります。罪を悔い改めようとしない者にとって「終わりの時」とはその罪が顕わにされ、裁かれる時になるでしょう。そうであれば、罪を悔い改めない人にとって、裁き主にお会いすることは、先のマラキ書の言葉のように「大いなる恐るべき日」になるでしょう。私たちは洗礼者ヨハネの「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉をどれだけ真剣に、どれだけ自分のこととして聞いているのでしょうか。
もし、私たちが、たった今主なる神と顔を合わせてお会いするとしたら、私たちはどんな思いになるのでしょう。或いは、主なる神が、たった今、この世界の営みを全て完成すると宣言なさるとしたら、私たちはどのようにその時を迎えるべきなのでしょう。その時、私たちはやるべきだったのにやり残したり真剣に向き合うべきだったのにそうできなかったことや、相手と和解すべきだったのにそのままにしてしまったことや、与えられ利用したりはしたもののこちらからは与えず尽くせずにやりに残してしまったこと、やり足りなかったこと等々が一瞬のうちに浮かび上がり、裁かれて当然である自分を思い知ることになるでしょう。
私は「終わりの時」について色々と考えるとき、いつも思い出すことがあります。それは、20年以上も前に、車を走らせていた時にラジオから流れていた番組で紹介されていた川柳の一句です。
それは、「オペ前夜懺悔をしたきことばかり」という句でした。手術を明日に控えた病院のベッドで、独りで、手術についての不安だけでなくこれまでの自分のあらゆる言葉と行いが思い出されてくる心の内が、よく表現されていると思います。
このような思いを糸口に考えてみると、洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、神の国は近づいた」と説く言葉は、私たちにとっても切実な課題であり、しかも神の子を迎える準備をする私たちに相応しい言葉であることが理解できるのではないでしょうか。
洗礼者ヨハネが迫る「悔い改め」は、やがていつか来る時の備えではなく、今ここで、自分の心をしっかりと神に向けることなのです。私たちの心の奥底にある自分の罪深さを認めて向き合い、そこに宿ってくださる御子イエス・キリストを迎える準備をするために「悔い改めよ」と洗礼者ヨハネは訴えています。
主イエスを救い主と信じて受け容れる人にとって、洗礼者ヨハネの「悔い改め」を促す言葉は、恐ろしい言葉なのではなく、私たちが主なる神とお会いする喜びへの招きです。主イエスを私たちの内に深くお迎えできるように、御心に適う備えを進め、悔い改めにふさわしい実を結べるよう、洗礼者ヨハネの言葉を迎え入れ、導かれて参りましょう。