2022年12月18日

クリスマスを迎える

12月 クリスマスを迎える

 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。(ヨハネによる福音書第19)

  12月です。クリスマスについて思い巡らせたいと思います。

 今から2000年近く前、世界の片隅で人々を愛して関わり続けた末に十字架にかけられて死んだイエスという男がいました。彼の一生は無駄であったように見えながら、この人を救い主と信じる人々によって受け継がれ、教会が成立しました。教会はイエスを伝え、イエスをとおして示された愛の働きを行い、イエスと同じように迫害を受けたり弾圧されたりしますが、世界は少しずつこの愛に動かされ、やがて大きく変わっていったのです。

 他の人を愛して関わり続けることは武力や冨や権力の前には無力であるように見えますが、本当の愛を受けた人は自分を取り戻して、生きる力と希望を得るのです。そして、愛され慰められることを求めることから、他の人を愛し慰めと励ましを与えて平和をつくり出す人へと生まれ変わっていくのです。

 「キリスト」とは「救い主」の意味です。そして「マス」は「礼拝」という意味です。つまり、救い主(キリスト)であるイエスの誕生を覚えて感謝してその喜びと平和を分かち合い、礼拝(マス)するのがクリスマスです。

 愛そのものは、目に見えるものではありません。他の人に言葉をかける時や何かをする時に、愛はそこに溶け込んでいるのです。神の愛が、この世界にイエスという人となって溶け込んで現された記念の日がクリスマスだと言えるでしょう。しかも、神はこの世界の貧しく汚れた場所に愛を宿してくださいました。その愛を受けた私たちは、感謝してその愛を分かち合い、イエスにならって愛を実践することを神から促されています。神の愛はひ弱な優しさを育てることではなく、平和をつくり出す心や正義を貫く強さを育てることにもつながっています。それに伴う苦しさや難しさの中にも救い主は共にいてくださるのです。

 子どもたちが、クリスマスを迎える準備をしながら、ご自分の命を賭けてこの世界に愛を与えてくださったイエス・キリストのことを少しでも理解できるように勉めて参りたいと思います。

 ご一緒に主イエス・キリストの御降誕を感謝しましょう。

(愛隣幼稚園(宇都宮)園便り『あいりんだより』2007年12月 )


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神が共にいてくださる  マタイによる福音書第1章18~25       A年降臨節第4主日

神が共にいてくださる   マタイによる福音書第1章1825       A年降臨節第4主日 2022.12.18


 降臨節第4主日を迎えました。

 主イエス不在のクリスマスは華やかです。しかし聖書が伝えるイエス誕生物語は、今日の聖書日課福音書の箇所に限らず、華やかさの根底にある深い感謝と喜びの源を伝えています。

 今日の聖書日課福音書より、マタイによる福音書第1章23節のみ言葉を心に留めましょう。

 『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は「神は我々と共におられる」という意味である。』

 青年ヨセフは、マリアとの結婚を控え、希望に満ちた幸せな時を過ごしていたことでしょう。ヨセフはマリアとささやかな家庭を築き新しい生活を始める期待に胸をふくらませていたと思われます。当時の婚約は律法の上で結婚に等しい重みがあり、今の婚約より遙かに社会的な拘束力も強いものでした。

 その大切な時期に、ヨセフの知らないうちに、婚約者マリアが身籠もりました。ヨセフは驚き、真っ暗闇の底に突き落とされるような思いに襲われたことでしょう。「自分の知らないうちに婚約者マリアが身籠もるとは。私はどうすればいいのだ。」と言って、戸惑い、憤り、悲しむヨセフを私たちは想像することができます。

 マタイによる福音書第1章19節には、「夫ヨセフは正しい人であったので」と記されています。ヨセフは当時の律法に基づいて正しく生きていた人で、婚約期間中も律法に忠実に生活していたはずです。そのヨセフには婚約者のマリアが「姦淫の罪」を犯したなどとはとても考えられません。しかし、ヨセフの目の前には、確かに身籠もっている自分の婚約者マリアがいます。

 もしマリアが姦淫の罪を犯したのであれば、「正しい人」であるヨセフが選ぶるべき道は2つありました。一つは、法廷に訴え出ることです。旧約聖書の律法によれば婚約者の裏切りは既婚者の裏切りと同じ扱いをすることになりますので、法廷に訴えることになります。でも、ここでヨセフがマリアを法廷に訴えることはヨセフがマリアを信じていないことを公にすることになるのです。それでは、マリアはいっそう苦しむでしょう。でも、いずれにしても、やがてマリアが身籠もっていることは誰の目にも明らかになります。

 申命記第2222節以下には婚約者の不貞、姦淫について記しています。

 「ある人が夫がいる女と寝ているのを見つけられたならば、その女と寝た男もその女も死ななければならない。」それに続けて「ある男と婚約した処女の娘がいて、別の男が町の中で彼女に目をつけ、彼女と寝たならば、二人を町の門の所に引き出し、石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。」

 ヨセフが訴え出ればマリアは、申命記第22章にあるとおり、石打ちによって処刑される可能性もあります。それはヨセフの望みではありませんでした。

 そこでヨセフはもう一つの道を選びました。

 それは、マリアとの結婚を密かに解消して離縁することでした。

 申命記第241節には「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった時は、彼女に離縁状を書いてわたし、家を去らせることができる」とあります。

 ヨセフはマリアのことを公にはせず、律法に従ってわずかな証人を立てて、マリアに離縁状を渡し、ヨセフがマリアの許から離れていくという選択肢があります。ヨセフはマリアが身籠もった責任を自分が引き受けて、人々の批判や中傷も皆自分が受けることにして、マリアと別れてひっそりと生きていく事を選ぶのです。

 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表沙汰にするするのを望まず、密かに離縁しようと決心」しますが、それはこの律法に従っての決断であったのです。

 ヨセフにとってこれが自分に出来る限界でした。この後、マリアが子どもを抱えてどう生きていくかということや、マリアとその子が未婚の母と子という負い目を背負って生きていく困難があることなど、ヨセフには分かっていても、マリアと密かに離縁するのがその時のヨセフには一番「正しい」ことであり、それ以外にはどうすることも出来ない状況にありました。

 しかし、このような悩みと困難の中で、主の天使がヨセフの夢に現れて告げました。

 「恐れずマリアを妻に迎え入れなさい。マリアに宿った子は聖霊の働きによるのである。」

 福音記者マタイは、この出来事について、旧約聖書イザヤ書第7章14節の言葉を引用して、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」ということが実現する事なのだと語ります。そしてインマヌエルとは「神は我々と共におられる」という意味であると説明しています。

 ヨセフは自分の悩みと困難の真っ直中で、「神は我々と共におられる」と呼ばれるお方がマリアを通して生まれることを告げられました。ヨセフは、こんなに深く辛い出来事を通して、自分がインマヌエルと呼ばれる救い主の父親となるために選ばれていたのでした。

 マタイによる福音書は、先ず第1章1節からイエス・キリストの系図があり、その直後に今日の聖書日課の個所があります。イエス・キリストの系図の中には、当時いわば「穢れ」とされた者が幾人か混じっています。また、当時の考えによれば、系図は男性によって繋ぐのが当然とされていましたので、今日の福音書の個所のようにイエスの出生が父親のヨセフを通してではなく乙女マリアを通して記されしかもそれを公にされることは、イエスがアウトローの生まれであることを公にすることに他なりませんでした。普通であればこうした記述は伏せておきたいことであったり、出来ることなら他の人に知らせずに済ませたいことであるはずです。福音記者マタイはこの福音書によって主イエスの生涯を記して、このイエスこそキリスト(救い主)であることを知らせているのですが、その始まりに置いた系図で、敢えてイエスは「汚れ」の混じる「罪の子」としてこの世に生まれたことを伝えている、と言えるでしょう。

 そのようにしてお生まれになった主イエスは、やがてインマヌエル(神は私たちと共にいます)をこの世に実現する働きを始めていきます。その生涯は、殊に病の人々や障害を負った人々など、その当時は悪霊に取り憑かれたと考えられ罪人扱いされていた人々と共に生きて、その痛みや悲しみを共に負う生涯でした。

 私たちは他の人と共にいることの大切さを知ると同時に、その難しさを覚えざるを得ません。私たちは、日々の生活のごく身近なことでさえ自分の本当の思いが理解されていない時に歯がゆさや苛立たしさを感じます。主イエスは、その時代の中で、重い皮膚病の人たちや罪人呼ばわりされ差別されている人々と共に生きる道を歩まれました。罪人呼ばわりされる人々たちは主イエスに関わっていただく前には、理解されずに蔑まれ、認められないことで味わう絶望感は私たちの想像を遙かに超えていたと思われます。主イエスはそのような人々と共に生きる事をお選びになり、その人々の重荷を共に担い味わって過ごされ、身をもってインマヌエル(神は私たちと共にいます)という神の子の姿を示してくださいました。そして、主イエスは、最後には十字架の上から、絶望のうちに死に逝く人とさえ共にいてくださることをお示しになりました。

 私たちは、自分の中にある痛みを深く内省する時、他の人々の痛みに対しても少しは共にいることができるようになれるかもしれません。その大切さを認識する一方で、私たちがどんなに他の人と共に生きようとしても、私たちは他の人との間には「共にいる」ことの限界があることも認識すべきです。そして、主イエスは、そのような他の人との間の埋めることの出来ない断絶した孤独感や他の人々が踏み込むことの出来ない奥底にまでも共にいて下さるために、敢えて貧しく汚れた姿をとってこの世界に来て下さったのです。

 マタイによる福音書の最後、第2820節で主イエスはこう言っておられます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」

 神は、主イエスのお生まれの時に「神は私たちとともにいます」ことをヨセフに知らせました。主イエスはそのご生涯を「自分は神に見捨てられている」と思い悩む人々と共に過ごして「神は私たちと共にいます」ことをお教えになり、最後に主イエスを救い主と信じる人々に宣教をお命じになり、その働きに出て行く者と共に世の終わりまで共にいてくださると約束して下さったのです。

 私たちは、主イエス・キリストのご降誕の日を間近にして、インマヌエルの主イエスをお与えくださった神の恵みを思い起こしたいと思います。その感謝と喜びを心に留め、主イエスがいつも私たちと共にいてくださることを喜び祝うクリスマスを迎えましょう。

            願わくは、父と子と聖霊の御名によって。アーメン

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2022年12月15日

「バブバブ(喃語)」を受け止めましょう

「バブバブ(喃語)」を受け止めましょう 


 このごろ、お父さんやお母さんの中に、子どもと何をどう話して良いのか分からないという声が聞かれます。共通の話題がないとか、子どもが何を考えているのか分からないという声も聞かれます。

 私は、子どもの考えていることを知り、共通の話題にする大切さを認める一方で、子どもが話している時の情緒や話をもっと続けたくなる雰囲気をつくる大切さも強調したいと考えています。

 赤ちゃんは、しっかりとした思考と言葉で話すようになる前から、明確な言葉にはならない言葉を発して「話をする」ことの楽しさを身につけていきます。

 「アーゴー、ウングウング」、「バブバブ、ワウワウ、アーウ」。

 これを喃語と言います。私の記憶では、我が子がこのようなお話しをし始めたのは、お座りができるようになった頃だったでしょうか。喃語は赤ちゃんからお話です。喃語は、言っている意味内容が大切なのではなく、赤ちゃんが周りの人に自分の存在を訴え、受け容れてもらえるように精一杯の自己表現して、大切な人とコミュニケーションをしようとすることそのものに大切な意味があるように思えます。

 そのような場で、お母さんはどう応対したらよいのでしょう。赤ちゃんの話の中味には意味がないからといって無視すべきではありません。先ほども申し上げたように赤ちゃんはお母さんをはじめ周りの人に自分の存在そのものを認めてもらおうとしています。お母さんの方からも、「あなたの存在を認めていますよ」ということを伝えてあげましょう。

 赤ちゃんの喃語に応じて、優しい顔で、穏やかな落ち着いた声で、「そう、そうなの」、「お話上手ですねぇ」、「お母さんはあなたのお話聞くと楽しいですよ」などと、赤ちゃんと視線を合わせて言葉を掛けてあげましょう。

 赤ちゃんは自分の表現をお母さんに認められて、自分の存在に自信と勇気を持つことでしょう。お母さんが喃語に応じるとき、赤ちゃんは、大人の言葉で言えば「自分が自分でいて良いんだ」「自分が表現することを受け止めてくれる人がいてくれる」という経験を重ねることになります。赤ちゃんへのこのような対応は、赤ちゃんの「自己肯定感」の獲得につながります。

 大人でもそうです。自分が一個の存在として認められていることを実感できるとき、人は自分で育とうとする力を伸ばしていくことが出来るのです。まして未だ小さく未成熟な赤ちゃんであれば、しっかりと受け止めてもらえれば、それだけ自分を大切にしてのびのび育つ基盤が出来るのです。この時期には話の内容より、自分が表現することがお母さんに受け入れられ、自分の存在に確かな手応えを感じられることが大切です。

 まだまだ具体的なものの名前など発音できない時期でも、人間は一個の人格として認められることによって、情緒の安定した発育が促されることを心に留めておきたいと思います。

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2022年12月13日

食欲の秋に

食欲の秋に

 見よ、全地の生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。(創世記第1章29節)                                                    

 秋です。幼稚園の小さな畑でさつま芋掘りをします。実りの秋であり、食欲の秋です。

 人間は一年の内で夏にいちばん夏に太りやすいのだそうです。定温動物である人間の体温は36度前後であり、その体温を保つためは暑い時期より寒い時期の方が沢山のエネルギーを必要とすることになります。涼しくなって体温と外気温の差が大きくなると体脂肪を燃焼させて体温を保つ必要が生じますから、当然その分のエネルギーを食料として体内に取り入れたくなり、秋は食欲が増加するのだと聞いたことがあります。真偽のほどは分かりませんが、秋は食べ物が美味しく感じられます。

 近年、家庭での生活習慣が大きく変化し、夜更かしをして睡眠時間が不足している子どもや朝食を採らない子どもが増加しているようです。政府もこの問題を重視し「早寝、早起き、朝ご飯」というキャッチフレーズにより、規則正しい生活の必要性と朝食の大切さを訴えています。私の個人的な経験からも、朝食をしっかり採れる子どもは心身の発育のバランスも良いと言えそうです。

 ある統計調査によると、学力テストの結果と朝食を採っているかどうかには高い相関関係があるということです。朝食をしっかりとっている子どもの方が圧倒的に高い学力を示すという調査結果があるのですが、それは単に高い学力の要因が朝食の栄養とエネルギーにあるということではなく、しっかりした食生活習慣のある家庭では勉強を含むその他の生活習慣もしっかりしている傾向があるということなのかもしれません。当たり前のことなのですが、朝食を採るゆとりのある家庭の子どもは、その分、親子でのコミュニケーションの量も質も高くなると言えるでしょう。

 愛隣幼稚園では、一週間のうち給食の日より子どもたちがお弁当持参で登園する日の方が多いのですが、このことについても各ご家庭で積極的な意味を踏まえていただけると幸いです。

 子どもたちが幼稚園に持ってくるお弁当には、各ご家庭からの大切なメッセージが含まれています。「愛情弁当」という言葉がありますが、まさのその言葉のとおり、幼い子どもたちにとってのお弁当は、子どもたちが家族と離れて過ごすときにも「自分が家族と確かな絆で結ばれている」ということを実感する大切な媒体となるのです。比喩的な表現を用いれば、お弁当の中には「その子の家庭そのものが凝縮している」と言えるでしょう。

 幼稚園ではお弁当の時間になるとそれまでとは違う時が流れ始めます。みんながお弁当を開くと、その場は子どもたちの家庭が持ち込まれたようになり、会話もそれまでとは違う特有の雰囲気に包まれます。自分の好き嫌いを理解した上で各ご家庭で工夫されたお弁当は、子どもたちにとって言葉では言い尽くせない愛情が感じられるのです。どうぞ、子どもたちの食欲が増し楽しく昼食時間を過ごせるお弁当作りにご協力ください。食事は単に体内に栄養を補給する時間ではなく、幼稚園では大切なコミュニケーションの時間でもあります。幼稚園ではお弁当をいただきながら豊かな会話がたくさん交わせるように努めて参りたいと思います。

 食欲の秋を心身の充実の時にしていきたいと思います。

(『あいりんだより』2007年11月)

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「神さまのくださる一等賞」

神さまのくださる一等賞

   尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。(ローマの信徒への手紙第12章10節)

  秋です。スポーツの秋です。秋には幼稚園でも運動会があり、遠足もあり、多くの子どもにとって秋は楽しく大好きな季節です。

 でも、中には、競走しても一番になったことはないし力くらべをしても負けばかりで、運動会はあんまり好きではないという子もいます。競走しても勝てないことは悪いことでも恥ずかしいことでもないのですが、私たち大人でもついつい我が子を他人と較べて優劣の中で評価して一喜一憂してしまうこともあるのではないでしょうか。

 運動会が近づく頃、私は子どもたちに「神さまがくださる一等賞」のことを話します。

 みんな誰でも生まれた日が違い、顔も声もそれぞれに違っていて、一人ひとりは取り替えられないのだから、体の大きな子と小さい子がいて、足の速い子がいれば遅い子がいて当然なのです。そしてみんなで競走すれば、誰かが先にゴールに着くし誰かが後からゴールに着くのも当たり前なのです。

 でも、神さまはその到着順で人を評価なさるのでしょうか。いいえ、そうではありません。みんな誰でも神さまにかけがえのない人としてこの世界に命を受けているのですから、神さまは私たち一人ひとりが自分の最高のプレイが出来たら、その人みんなに一等賞をくださるのです。「自己新記録」は神さまのくださる一等賞なのです。

 教会に伝わる次のようなお話しがあります。

 律法の専門家が死を前にして自分を振り返り、こう思って自分の一生を悔やみます。神は死の門の前で私を裁くとき、「あなたはモーセ(旧約聖書に登場する偉人と理解してください)のように律法に忠実に生きたか?」とはお尋ねにはならないだろう。むしろ「あなたはわたしがあなたに与えた人生を、取り替えられない唯一のあなたとして生きたか?」とお尋ねになるだろう。ああ、わたしはただ罪人と比較して優越感に浸って生きてきただけだった。

 厳しい話ですね。

 私たちは、他人と比較して優越感や劣等感を持ちながら生きるのではなく、神から与えられた自分をしっかり生かしていくことが望まれています。そして、親として教師として、子どもたちが自分の様々な能力を伸ばしていけるように支えて関わっていきたいと思います。

 神さまは「あなたに与えた人生をあなたらしく存分に生きていますか?」と尋ねておられます。結果として失敗しても良いし、負けても良いと思います。神さまからいただいた体も心も声ものびのびと精一杯つかって、子どもたちがいろんな面で自己新記録を更新して神さまから一等賞をいただくことのできる秋にしましょう。

(『あいりんだより』2007年10月)

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2022年12月12日

布おむつを使った時代の知恵

布オムツを使った時代の知恵

  私がこの文章を記したのは、2006年の頃だったと思います。私は、今でもこの文章が決して古くさいとは思えず、変わらない真理を含んでいると思うのです。どうぞ、読んでください。

 文明は人間関係の質を変えます。

 赤ちゃんを育てるのに今では紙オムツを使うことが当たり前になっています。私には現在高校生を頭に3人の子どもがいますが、私たち夫婦は子育てをするのに、当時次第に少数派になりつつありましたが、布のオムツを使いました。

 そうしたのにはいくつかの理由がありました。

 布のオムツを使ったことは、経済的なことや地球資源に関する問題意識のこと、オムツかぶれを起こさないようにということなどもその理由ですが、私たち夫婦に「紙オムツより布オムツの方が良い」という信念のようなものがあったことが一番の理由であったように思います。

 その「信念のようなもの」の中味を振り返ってみると、以下のようなことだったのではないかと思います。

 赤ちゃんは大人との心身の接触と交流の中で育ちます。紙オムツを使うより布オムツを使った方が、赤ちゃんも快適だろうし、交流も豊かになると考えたのです。

 赤ちゃんが排泄したとき、こまめに取り替えてあげていると、オムツが濡れたり汚れたりすると赤ちゃんは次第に泣いて教えるようになってきます。赤ちゃんが泣くことは決して否定的なことではなく、大人の言語表現と同じことなのです。赤ちゃんがオムツが濡れたことを泣いて表現して親に訴えていることについて出来るだけ適切に対応してあげるように心掛けました。やがて、赤ちゃんのオムツが濡れて泣くとその表現を受け取った親が出来るだけ手早く取り替えてあげる、というサイクルができてきます。そのサイクルが分かり始めると、時には「そろそろおしっこかな」と察してオムツをはずしておマルに座らせたり、トイレに連れて行って「シー、シー」とおしっこを促して成功することも増えてきました。こうして親と赤ちゃんの間に次第に生活のリズムも出来てくるのです。

 赤ちゃんと親の生活のリズムが比較的安定してくると、その中で排泄をする時間も親の方で察することが出来るようになります。

 このようなトイレットトレーニングは、赤ちゃんが自分の排泄を自分でコントロールしていく上で、きっと私たちが意識している以上に役立っているのではないかと考えました。

 親として、時には子育てに楽をしたくなります。楽をしたいからこそ、赤ちゃんの体のリズムを親もつかんで、トイレでの成功率が上がるように心掛けたのです。

 紙オムツは年々改良されているようで、脇漏れがなかったり、オムツの中におしっこをしてもサラサラした感覚であったり、本当に便利になっているようです。でも、便利であるために、かえって子どもに対する配慮が希薄になってきているような気がします。紙オムツの便利さのために、一日のおむつ交換回数は紙オムツ利用者の方が明らかに少ないのです。でも、オムツ交換の回数が少なくなる分、赤ちゃんのあのプクプクしたお尻の手触りの心地よさを味わう回数も減るのです。オムツを交換している最中に噴水のようにおしっこをされてしまった時の、2割の面倒臭さと8割のいとおしさなどは布オムツ利用者の方がずっとたくさん経験し、子育ての楽しさを実感するのではないでしょうか。

 「そろそろおしっこじゃない?」「いいのよ、うちは紙オムツだから」はじめこのような会話を聞いたとき私は唖然としましたが、このような考えのお母さんは増えているようですね。

 子育てをする基盤の「愛」は、我が子に「愛しているよ」と語りかけることで育まれるとは限りません。むしろ「愛」は色々は子育ての行いの中に溶け込んでいると言えるでしょう。オムツを取り替えたり、お風呂に入れたり、あやしたり、毎日の何気ないやりとりの中に親の愛情は溶け込んでいて、それが毎日子どもに具体的に関わる中で伝えられていくように思うのです。

 世の中はどんどん便利になりました。でも、便利さのゆえに失ってきたものもあるような気がしてなりません。布オムツを用いていた時にたくさんあった赤ちゃんとの交流が紙オムツを用いるようになって少なくなったのではないかと思うことがあります。いえ、紙オムツのことはホンの一例なのです。

 文明が発達すると人間関係の質まで知らず知らずのうちの大きく変わってしまうことをよくわきまえて、赤ちゃんが心身共に健康に豊かに育つために何を大切にしたらよいかをいつも模索していくことが求められているのです。

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2022年12月11日

「温かく、肯定的な経験を」

「温かく、肯定的な経験を」

         いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。(コロサイの信徒への手紙第3章6節)

 生まれたばかりの赤ちゃんを見ていると、例えば物を掴むことや物を食べることなど、どの一つをとりあげてみても、それがどれほど凄いことかを改めて思わされます。

 初めて離乳食を口にした赤ちゃんは、その半分以上が口から外へ出てしまい、お腹に入るのはほんの僅かです。それでも食べ物を幾度も幾度も口元まで運んでもらっているうちに、やがて口を開けること、食べ物を認識して口を閉じること、モグモグしながら舌で食べ物をのどの奥に送り込むこと、飲み込むことまでをじょうずに出来るようになっていきます。赤ちゃんがその動作を繰り返すうちに、一連の神経回路は次第に枝分かれしつつ強化されていくのです。そうした当たり前の小さな事の積み重ねが、やがて自分でお箸を持って食事をする事へとつながっていきます。その間、私たち大人は、毎日単純とも思える子育ての仕事を温かな心と眼差しを向けながら続けていく必要があります。

 身体的な機能の発達面のことばかりではなく、人間の精神の形成についても同じようなことが言えるのではないでしょうか。子どもたちは、他の人と柔らかな視線と優しい言葉を交わし合い、そこから豊かで心地よい反応をたくさん受け取ることによって、人を信頼できるようになり、良い対人関係を形成していく心の方向性が出来てくるものと考えられます。それは、子どもたちが一人ひとり自分を掛け替えのない自分としての存在感を持てることにつながりますし、生きていくことの基本的な自信を獲得していくことにもなります。

 外国の最貧層の人々の中で教育ボランティアをする人の話を聞く機会がありました。そこでは毎日の生活の中で、小さな子どもたちが何かと「バカヤロー」「ちくしょー」「殺してやる」と口にするのに胸が痛んだとのことでした。劣悪な環境の中で必死に生きる人々の思いがその様な言葉で表現される事に悲しみを覚えたとも言っておられました。私はその話を聞きながら、子どもに対して人的にも物的にも精神的にも、肯定的で、支持的で、明るく、清潔な環境を整え、その中で子どもたちが自分の成長する力を育んでいくこと大切さと必要さをあらためて感じました。

 最近、幼少期の子どもが大人との間に基本的信頼関係を結ぶことの出来ない事例が増えています。子どもたちが良い生活習慣を身につけるためには、その前提として、人を信頼して自由に自分を表現することが可能な環境をしっかり整える事が必要であり、その中で子どもたちが「人と共に生きることは楽しく幸せなことなのだ」という経験を重ねることが必要なのです。

 各ご家庭も幼稚園も、子どもたちにとっての人生の土台をつくる基地になれますよう努めて参りましょう。 

(『あいりんだより』  2007年9月)

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洗礼者ヨハネの命   マタイによる福音書11章2~11節

洗礼者ヨハネの命  マタイによる福音書11章2~11      A年降臨節第3主日 2022.12.11

  先主日、私たちは降臨節第2主日の特祷で、「慈しみ深い神よ、あなたは悔い改めを宣べ、救いの道を備えるため、預言者たちを遣わされました」と祈りました。そして、先週の聖書日課福音書では、その旧約時代の預言者として最後の人として位置づけられる洗礼者ヨハネが人々に大声で悔い改めのしるしとなる洗礼を授けている場面が取り上げられていました。

 今日の聖書日課福音書には、洗礼者ヨハネが捕らえられて獄中にいるとき、自分の弟子を使者として主イエスに遣わした箇所が採り上げられています。

 洗礼者ヨハネは、主イエスの所に自分の弟子をおくり、「来たるべき方は、あなたですか」と尋ねさせています。これに対して、マタイによる福音書第1110節で、主イエスは旧約聖書の言葉を用いて「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」と書いてあるのはこの人のことだ、と言って、主イエスが洗礼者ヨハネのことを意味付けておられます。

 洗礼者ヨハネは今、ヘロデ・アンテパス王に捕らえられて獄中にいます。なぜ投獄されることになったのかについては、マタイによる福音書第14章に記されています。

 当時ユダヤの地方を治めていた領主ヘロデ・アンテパスにはフィリポという兄弟がいました。ヘロデは自分の兄弟フィリポの結婚相手であるヘロディアを奪って自分の妻にしてしまうのです。ユダヤの人々はこのようなヘロデ・アンテパスを批判的に思いながらもこの男を恐れて皆黙っていました。ところが、洗礼者ヨハネはヘロデのところに出向き、公然と「あの女と結婚することは律法で許されていない」と告げて批判しました。ヘロデはヨハネを捕らえて牢に入れてしまいます。そしてヘロデは、ヨハネのことを殺そうと思うのですが、民衆がヨハネのことを支持していることを考え、またヘロデはヨハネを殺す理由も見つからず、そのままヨハネを牢の中に置いておきます。ヨハネは、ある意味で臆病者のヘロデ・アンテパスによっていつ殺されるかも分からないまま牢の中で過ごしています。このようにして牢で過ごす洗礼者ヨハネの思いは、わたしたちの想像を遙かに超えて不安であり、また辛いものであったに違いありません。

 洗礼者ヨハネは、ヘロデに捕らえられる前、人々に神の怒りが差し迫っていることを大声で叫び、悔い改めを迫り、洗礼を授けていました。ヨハネは人々に向かって、来るべき救い主にお会いする時に備え、罪を告白して洗礼を受けるように大声で勧めていました。このヨハネは自分の言葉においても行いにおいても、神の義を示す人でした。ヨハネは、ヘロデ・アンテパスが兄弟の妻を奪って自分のものにしたことについても毅然とした態度でヘロデに迫りますが、その事がきっかけになって、ヨハネは投獄されたのです。

 こうして牢にいるヨハネにも、自分が指し示した救い主イエスのお働きについての噂が伝わってきていました。ヨハネは自分の使者(弟子)を主イエスのところに遣わして、主イエスにこう尋ねるのです。

 「来るべき方はあなたでしょうか。」

 ヨハネはこの時、きっと自分がヘロデに殺されることを予感して心が揺らいでいたのでしょう。自分が全身全霊をかけて「見よ、神の小羊」と指し示し、「わたしはその履き物をお脱がせする値打ちもない」と言って紹介したイエスが本当に「来るべきお方(救い主)」なのかと、ヨハネは自分の弟子を遣わして主イエスに尋ねないわけにはいかないほどにその確証を求めたくなっていたのでしょう。ヨハネは神の義に基づいて領主ヘロデを正面から批判した事によって、死を覚悟しなければならない状況に追い込まれています。もし自分のしたことが、何かによって、また誰かによって、しっかりと消えない意味を与えられなければ、自分の人生は空しいものになってしまうとヨハネは思ったのでしょう。そして、ヨハネにとってその「誰か」とは、また「何か」とは、自分が全身全霊をかけて指し示した主イエス以外にはあり得なかったことも言うまでもありません。

 主イエスは、ヨハネが遣わしてきた弟子にお答えになりました。

 「行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」

 主イエスが伝えたこの言葉は、今日の旧約聖書日課イザヤ書第35章の預言がイエスを通して実現しているということでした。

 このみ言葉は、預言者イザヤがこの世界が神の望む姿に回復した時の姿を謳ったものです。この世界が神の御心が成就したときの姿とは、すべての人の目が開け、すべての人が自分の足で歩き、すべての人が本当のことを聞き分け、死んだ人も生き返り、貧しい人にも喜びの知らせがもたらされるようになることです。イザヤはメシアが到来した時の様子をそのように思い描いて謳っているのです。そして、主イエスはその時が既に今来ているとヨハネに告げなさいと言っているのです。イザヤが預言した救い主の到来はこのように今実現していると主イエスは言っておられます。

 この言葉を受けた洗礼者ヨハネの弟子は、この主イエスの言葉を伝えるためにヨハネのもとに戻ります。それはただ戻るのではなく、主イエスに遣わさていくのです。

 洗礼者ヨハネは、獄中でこの御言葉を受け、イエスこそ確かに自分が指し示してきた救い主であると確信し、安心して主イエスに自分のすべてを委ねることができたことでしょう。いや、それ以上に、洗礼者ヨハネは主イエスを指し示して人々に悔い改めを説いた自分の働きに大きな満足を与えられたことでしょう。

 洗礼者ヨハネは、この後、ヘロデ・アンテパスの誕生を祝う場で、妻ヘロディアの悪巧みによって首を切られて殺されることになります。それでもヨハネはそのようにして自分の生涯が閉じられることになる不安や恐れも乗り越えて、自分が来たるべき救い主を指し示した生涯は確かなそして消えない意味をが与えられていることを確信できたことと思います。旧約聖書の預言者たちが語り指し示してきた神の救いの完成が主イエスによって示されている事を告げられ、洗礼者ヨハネはその確信をもって神のもとに召されていきました。

 洗礼者ヨハネは、「旧約時代の最後の預言者」と位置づけられます。洗礼者ヨハネのことは旧約聖書には記されてはいませんが、救い主イエスにお会いするために「悔い改めよ」と人々に訴えたという意味で、洗礼者ヨハネは「旧約時代の最後の預言者」と言えます。ヨハネの働きが主イエスによって成し遂げられ、意味づけられ、ヨハネはヘロデに殺されても、洗礼者ヨハネの生涯は主イエスによって決して消えない意味が与えられ、ヨハネは永遠の命に生かされています。

 この視点を持って、洗礼者ヨハネの弟子たちのことに移してみましょう。不安を抱いて獄中のヨハネによって遣わされたヨハネの弟子は、主イエスご自身からイザヤ書の御言葉によって自分の先生のしてきたことをしっかりと意味づけていただき、今度は主イエスからいただいたその確信をヨハネのところに携えていく役目を主イエスから与えられています。ヨハネもその弟子も、主イエスによって再び新しい命の中に生かされ、ヨハネもヨハネの弟子たちもこれまでとは違う主イエスの福音の光を放ち始めるのです。

 このことは、洗礼者ヨハネとその弟子たちに限ったことではなく、旧約時代を生きた預言者たちもそうであり、また新約時代を生きる私たちにも言えることなのです。

 天体にたとえるなら、地球も水星も金星も、火星も木星も、太陽を回る惑星はどれも太陽を中心にして位置づけられて初めてそれぞれの軌道が見えてくるように、私たちも主イエスによって与えられた神の愛の中に受け入れられ意味づけられることによって初めて自分が生きていることの確信を得ることができるのです。また、惑星は、自分で光を放つのではなく、太陽の光を映し出しているように、洗礼者ヨハネも、私たちも、主イエスを映し出す時にこそ人々の前に光りを輝かすことができるのです。

 主イエスの御降誕の日が近づいてきます。私たちは、洗礼者ヨハネがそうであったように、私たちも主イエスに受け入れられ、永遠の命のうちに生きることものとされることを教えられます。私たちは主イエスによって与えられる喜びを得て、神の愛の光を映し出す者とされますように。

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2022年12月10日

いじめてよい理由もいじめられて良い理由も無い

いじめてよい理由もいじめられて良い理由も無い

 保護者の方々が「自分の子どもはいじめられていないかしら」と我が子を心配する時勢です。

 誰も他の人のことを悲しませたり苦しめたり嫌がらせをするようなことがあってはなりませんし、また、逆の立場から言えば、いじめの対象されたりしてもならないのです。

 私は時々「いじめられる方にも問題がある」という言葉を耳にしますが、そんなことはありません。

 確かにトラブルを起こしやすい人やそのために不適応を起こしやすい人もいるかもしれないし、いじめの対象にされやすい人はいるようです。

 でも、例えばスポーツが下手でいつもチームのお荷物になっているような人がいたとしましょう。その人は、スポーツが下手だからと言っていじめられてよいのでしょうか。出来ないからと言って蔑まれたりからかわれてよいのでしょうか。スポーツの上手な人は下手な人をいじめてよいわけがありません。

 もし、いつも行動が遅くて周囲を困らせるような人がいたとしたら、周りの人たちのすべき事は、その人の行動が遅くならないように支援していくことであり、具体的には少しでも自分で早くできるようにその方法を教えたり手伝うことであったりすることなのです。

 イジメはあくまでもイジメる側の問題です。多くの場合、自分にとって不都合となる相手の人権を踏みにじってまで保身しようとするところにイジメの原因があります。いじめる人は、自分を保とうとするときにそのような行動を取ってしまう心の狭さや卑劣さを認識すべきなのです。

  みんなが暮らしやすい世界を創り上げていくために「他人を(そして自分自身をも)いじめてよい理由なんか無い」ということを肝に銘じておきたいものです。

posted by 聖ルカ住人 at 11:19| Comment(0) | 子育て応援 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

泥、水、砂の遊び

ドロ、水、砂の遊び

「天は神の栄光を物語り、 大空は御手の業を示す」(詩編第19編2節)

 本屋さんで,保育誌を立ち読みしてみました。7月の保育のテーマやねらいには、季節柄、「水や砂をつかった遊びに親しむ」というような言葉が目立ちます。

 私は、ドロ、水、砂の遊びは、子どもの発達のためにもとても大切な遊びだと思っています。子どもたちには、機会を作り、ドロ、水、砂の遊びを存分に楽しませたいと思いますし、ご家庭でもぜひそうできるように心掛けていただきたいと願います。

 なぜなら、先ず、ドロ、水、砂という素材は神さまがおつくりになったままの「生」の素材だからです。子どもたちが、生の素材とふれ合うことは、電子機器やテレビ画面に向かう遊びと違い、心の浄化を促します。言葉を換えれば、子どもたちはドロ、砂、水に触れてその「生」の感覚を味わい、その生の感覚を基本に据えて、遊びを進めていくことになります。それに従って、子どもたちは素直に自分を表現するようになり、周りの人とその経験を共有したり、更に意欲的に造形遊びを発展させていくようになるのです。

 子どもたちが山を作り、海や川を作り、水を流し、園庭に一つの大きな世界が出来上がっていくのを見ていると、そこにはあたかも神さまが天地をお創りになった時と同じ光景ではないかと思われるような世界が見られることがあります。

 たちはドロ、水、砂の感覚を実感することで、確かな自分をつかみ始め、しっかりとした自分を育てることを知り、それが山や海の姿となって表現され、流す水にも自分の心のエネルギーをコントロールしている様子が垣間見られます。このように、子どもの遊びは、見事に子どもの心の内側を表現し、とりわけドロ、水、砂の遊びはこのような子どもの成長を刺激するのです。そして、この素材は、何度でもやり直しが出来る素材であり、それだけに子どもたちは失敗を恐れず思い切ったチャレンジが可能になります。

 こうした遊びの楽しさは、子どもに限ったことではなく、私たち大人も例えば海や川で童心に返って遊んだ時の心地よさや開放感を振り返ってみれば、誰でも納得のいくことでしょう。

 聖書の中に「天は神の栄光を物語り、 大空は御手の業を示す」(詩編第19編2節)という言葉があります。この詩編の言葉を借りて言えば、子どもたちがドロ、水、砂で十分に遊び込んでいる時の姿は子どもたちの栄光を物語り、そこに創られる造形の世界は子どもの世界を映し出すものになるでしょう。

 夏です。暑くなりますが、子どもたちが十分に遊び込んでのびのびと自分を表現することを経験し、そこから生きる力を育てていってほしいと思います。

(『あいりんだより』2007年7月)

posted by 聖ルカ住人 at 11:03| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする