2022年12月31日

成長の時  2008年4月

成長の時                                      園長 小野寺 達

 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。(コリントの信徒への手紙一 第3章6節)

 春の花咲く季節です。草花が伸びゆく季節です。この季節は子どもたちにとっても大人にとっても、変化と成長の大きな節目です。

 この節目の時に、子どもたちは、たとえば、「幼稚園生になった」「一つ大きくなった」「上級生になった」と、成長の喜びを感じていることでしょう。

 幼稚園生の時期は、集団での生活やそこでの行動の仕方を少しづつ学んでいく時期でもあります。三歳前の子どもたちは、集団で遊んでいるように見えるときでも、お互いに関わりはまだそれほど密接であるとは言えず、遊び方も同じ事を一緒に並行してすることが多く、まだ役割を分担したり相手を配慮したりする行動は多くありません。しかし、子どもはこの三歳から六歳の時期に役割を分担したり、互いに違う役割を取りながら成長していくことを学び始めます。

 違う者同士だから、その場で起こることは一回一回異なり、その経験は一つ一つが子どもを育みます。時には友だち同士で意見が違ったり感じ方が違って、それがケンカにまで発展することもあるでしょう。でも、その経験は一人ひとり違っていることに気づくことになり、そのことを通して自分と友だちについての理解を深め、互いを尊重し、いっそう協力したり共同の作業を楽しめるようになっていくのです。

 幼稚園年齢の子どもたちはこのような成長のさなかにいるのですが、子どもたちはまだまだそのチャレンジを始めたばかりです。成長の大切な時期を過ごす子どもたちには失敗をおそれず、精一杯自分を表現しながらこの幼稚園での生活を創り上げてほしいと思っています。

 わたしたち教職員は、できるだけ子どもたちの気持ちを拾い上げることを努め、子どもたちの自分理解と他者理解を図っていきたいと思っています。わたしたち教職員一同子どもたちに「育ち」を支え、子どもたちの成長の喜びをたくさん味わいながら、保育者として成長して参りたいと願っております。どうぞよろしくお願いいたします。

(20084月 あいりんだより)

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2022年12月28日

高い高ーい、アンヨアンヨ

  小さな子どもたちが、自分の体で沢山の経験を積み重ねていくことはとても大切なことです。近年、子どもも大人もテレビの画面などを通して遊ぶことが増えて、実際に自分の体を動かしてその感覚と共に達成感を味わうことが少なくなってしまったように思います。

 つい最近、ある幼稚園の先生からこんな話をお聞きしました。

 入園したばかりの4歳児が、スタスタと滑り台の階段を上っていきました。次の瞬間、先生は心臓が止まるかと思うほどビックリしたのです。滑り台の天板まで上ったその子は立ったまままるで空中を歩くかのように次の一歩を踏み出したのです。宙を泳いだその子は、滑り台の斜めの滑り板(お尻をつけて滑り降りてくる部分)にひっくり返って下まで滑ってきました。幸い滑り板が受け止めてくれたから良いものの、もし少しでも体が外に傾いていたらと思うと今でもゾッとします、とその先生は言っておられました。

 生育を調べてみると、その子の遊びはテレビ、ビデオ、テレビゲームが圧倒的に多いとのこと。実際の滑り台に上った時も、あたかもテレビゲームの中のキャラクターが空中に歩き出していくかのようで、実際の滑り台がどのようなものなのか身をもって経験したことがなかったかのようだったということです。

 この一件の原因を画面での遊びに結びつけてしまうのはあまりに短絡的かもしれませんが、少なくともこうした切り口から考えてみることは必要なことであり大切なことなのではないでしょうか。

 振り返ってみると、最近の乳幼児は本当に体を十分に動かしたり触れ合ったりする機会が減っているようです。親が両手で子どもの脇の下あたりをもって「たかいたかーい」と高く抱き上げてみたり、子どもを同じ方向を向かせて自分の足の甲の上に立たせて「いちに、いちに、アンヨ、アンヨ」と歩いてみたり、仰向けに寝た父親の膝の上や足の裏に子どもを腹這いにさせて「ヒコーキ、ブーン」をしたり、おんぶ、肩車、ぐるぐる回し等々、子どもは本来スキンシップをとる単純な遊びが大好きなのです。それは子どもが何よりも親との触れ合いの中で自分を感じることが出来るからです。そして自分の体と感覚を実感するからで、それは子どもが自分自身を獲得していく大切な作業でもあるのです。

 私も昔我が子と「ヒコーキブーン」をやっていて上からよだれを投下されたことも幾度もあります。また「もっと高く」というので、私の両手で子どもを高く掲げたら、その手が滑って子どもをわきに落としそうになったこともあります。

 大事な子どもさんに怪我を負わせることなど無いように気を付けてください。でもこうした遊びは、親子のスキンシップを図る上でもとても楽しい者です。そのような遊びを沢山経験したこは、きっと身体バランスのよい子になりますよ。

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2022年12月27日

御国がきますように

み国が来ますように

「御国がきますように。御心が行われますように、天におけるように地にも。」マタイによる福音書第6章10節

 教会で古くから伝えられてきた祈りに「主の祈り」があります。「聖書」の中でイエスさまが弟子たちに教えた祈りとして記されており、今では世界各国の言葉に訳されています。愛隣幼稚園では日本語で唱えていますが、世界で二〇〇〇年にわたって唱えられてきた祈りであり、この祈りは「世界を包む祈り」であると言えます。

 この「主の祈り」の中に「み国が来ますように」という言葉があります。私たちの生きているこの世界に「み国(天の国)」が来るとは、どこか特別の地域を区切ってそこが神の領土であると宣言するようなことではなく、私たちが生活している直中に「そこには確かに神が共にいてくださる」という姿が現れ出ることであり、神さまのお考えになっている姿がそこに現れ出るということなのです。

 そうであれば、私たちが「み国が来ますように」と祈ることは、私たちがじっとしていれば神さまがそのような理想の世界をもたらしてくれるということではなく、私たちを天の国を実現させる器として神さまに用いていただけますように、と言うことであることが分かるでしょう。

 愛隣幼稚園では日々の祈りの中で「主の祈り」を唱えまた歌っています。「主の祈り」を日々捧げながら過ごしてきた子どもたちが、やがて大きく育ち、み国の実現の働き人になって欲しいと思います。それは、大袈裟なことではなく、自分の家族や友人を愛することや、自分の仕事を通して社会や隣人のために尽くすことなど、一見平凡でありながら地道に神さまの御心を実践するところから始まる働きであるように思います。

 神さまに向けて祈る愛の心と、自分の隣り人を大切にできる愛の心は、十字架の縦の棒と横の棒に例えられます。この両者がしっかりと組み合わされて十字架ができます。

 3月です。年間最後の月です。主イエスさまの十字架を思いつつ、「み国が来ますように」と心から祈り、いつかは子どもたちがみ国の実現のために働く人に大きく羽ばたくことを夢見ながら、子どもたちと共に育っていきたいと思います。

(「あいりんだより」2008年3月)

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天に一人を送る 12月26日

 去る12月18日に、敬愛する信徒Y兄が逝去され、今日、志木聖母教会で葬送式が行われた。
 私は、式服持参で式に参列し使徒書を朗読させていただいた。  
 Y兄は、私が7年間チャプレンとして出向した立教小学校で、当時読書課の先生をしながら教務の中枢を担っておられ、前教頭退任の後には、教頭もなさった。
 そのような「肩書き」は、私が報告するまでもないが、個人的な思い出も沢山ある。
 私の執事按手式の時には、Y兄が教区の文書部長をしておられ、式の中で沢山撮った写真をまとめてファイルにしてプレゼントして下さった。私が立教小学校に赴任した4月に、まだ荷物整理をしている合間に家族で初めて小学校を訪ねたとき、たまたま校門辺りにおられたY兄は正門をくぐる私たち家族を嬉しそうに手を振って迎えてくれた。読書研究会のメンバーに私を加えて下さり、先生方と学び色々な本と出会わせてくださった。定年前に他校の校長として招かれたY兄は、送別会には「アカペラで・・」と言って「名月赤城山」を披露して下さった。
 本日の葬送式の後で、喪主の親族のご挨拶の中で、Y兄は施設で過ごした最後の頃も聖歌や立教大学応援歌『行け!立教健児』を歌うと嬉しそうにしていた、と言っておられた。
 そのご挨拶を聞きつつ、私も昔のことを思い出した。そして、お別れのお花入れの時に、「Y先生には、立教小学校で3年生までお世話になった二男のことも応援していただきました。二男はその後慶應大学に進み野球をやっていたのですが、先生はご自分の手帳に慶應の塾歌を書いているのを見せて下さって、二男を応援して下さっていて、とても嬉しかったです。」と、こちらからもご遺族にご挨拶申し上げた。
 二男がちょうど現役大学生選手だった頃、たまたまお会いしたときに私が持っていた慶應のユニフォーム型の小さなストラップY兄にお渡ししたことがあり、その時にもY先生はとても喜んでおられたことも思い出した。また数年経って「息子は今筑波の大学院に行って、野球のことで論文を修士論文を書いています」とお伝えした時にも、「それじゃ僕の後輩だ」と嬉しそうだった(Y兄は東京教育大のご出身であった)。
 息子たちが小学生だったときのこと、Y先生が「Mくん(私の長男)が「ユングの本ありますか」と言ってきてビックリしましたよ」と楽しそうに笑っておられたことも懐かしい。抽選に当たった『モモ』100万冊記念シンポジウムにご一緒に行ってくださり、河合隼雄氏の話や小学生女児の作文朗読を堪能したこともY兄と共有した豊かな思い出である。
 教区の諸行事が志木聖母教会で行われることが多く、いろいろな会合のおりにY兄にお会いすると、いつも「3人の息子さん、お元気ですか。どうしてますか?」と聞いてくれて、それぞれの様子を話すのを嬉しそうに聞いてくれていて、こちらも嬉しかった。
 几帳面であったY兄は、ご自分の葬儀のことなどを含め、ご自分の願いや希望をしっかりと書き残してご遺族に託しておられたと聞いた。
 一件堅物のように思う人も多かったが、Y兄は信仰に基づいた強さを据えつつ、実は少しお茶目な人だったと私は思っている。
 心から、Y兄の天国での平安を祈る。
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2022年12月25日

言が世に宿った ヨハネによる福音書第1章1~14      降誕日 

言が世に宿った  ヨハネによる福音書第1章1~14      降誕日    2022.12.25

 今年、日本漢字検定協会が選んだ今年を表す漢字一文字は「戦」でした。心の痛む今年のクリスマスです。私たちは、このような年のクリスマスだからこそ、主イエスが、神と人との絆となり、また人と人との絆となるために、この世に来て下さり、神の愛をしっかり示してくださったことを確認したいと思うのです。

 降誕日の聖書日課福音書は、ヨハネによる福音書の第1章1節からの箇所が用いられています。

 この福音書を記したヨハネは、主イエスのことを「言」という一言によって表現して伝えようとしました。

 今年を表す言葉が「戦」であるとするなら、福音記者ヨハネが神の子主イエスを言い表す言葉は「言ロゴス」だったのです。

 教会で、救い主とは何か、どのような意味での救い主なのかを論じ、説明することを「キリスト論」と言いますが、その「キリスト論」の重要な聖書的根拠の一つに挙げられているのが、降誕日の聖書日課福音書に用いられるヨハネによる福音書冒頭の箇所です。

 ヨハネによる福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と始まります。この「言」は、原語のギリシャ語で「ロゴス(λογοs)」と言います。この福音書で、主イエスの生涯を伝えるにあたり、神の子主イエスの性質、性格を、神がこの世界にお与え下さった言(ロゴス)であると言って、その主イエスを誉め称えています。

 それでは、この「ロゴス」という言葉は、どのような意味なのかを理解する必要があります。

 「ロゴス」は、私たちが日常用いているような「言語」という意味もありますが、もっと深い意味があり、例えば私たちが何かを言葉にして話しをするとき、表面に出てくる言葉の源になっている考えや気持ち(例えば、理念や感情、それを言おうとした動機)があり、それを言語化します。私たちの中に「誰かにこのことを話そう」「このことを伝えよう」「この感動を言葉で表現したい」という突き動かされるような思いがあって、それを適切に表現するとき、言葉はその人の内にあるロゴスを生き生きと伝えることができます。福音記者ヨハネが伝える「ロゴス」とは、単に表面に出てくる言葉を意味しているだけではなく、その源にある「本質」を意味して、神は神のロゴスをイエスによってこの世に与えたとこの福音書の冒頭に示し、その内容へと入っていくのです。

 1837年にドイツ人宣教師カール・ギュツラフによって刊行された日本語訳聖書では、ヨハネによる福音書冒頭の箇所を「ハジマリニ カシコイモノゴザル」と訳されていることは広く伝えられています。

 この「賢い」は、広辞苑(第6版)には「「①おそろしいほど明察の力がある。②才知・思慮・分別などが際立っている。」をはじめ、素晴らしい、抜け目ない、望ましいなどと記されています。

 福音記者ヨハネは、天地創造の初めからこの「カシコキモノ」神の言(ロゴス)が神と共にゴザッタと言います。更に14節を見てみると、「言(ロゴス)はこの世に人の目に見える具体的な姿をとって私たちの間に宿った」と言います。神と共にあった言(ロゴス)かしこむべきお方が私たちのところに来て下さったので、私たちは神のお考えをはっきりと確認できました。そのロゴスの具体的な姿こそ主イエスであり、神と共にある神のロゴスであるイエスがこの世に与えられたことを神に感謝し賛美することからこのヨハネによる福音書は始まるのです。

 ヨハネによる福音書の始まりの箇所を読むと、旧約聖書創世記の初めを連想なさる方も多いことでしょう。創世記の初めの部分を読んでみます。

 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」

 創世記の冒頭で、主なる神がこの世に神のお考えを具体的行動に表して、一日一日をロゴスによって形作り秩序付けていきます。そして天地創造の第6日に、神は人間をお造りになりました。神はご自分のお姿に似せて、神にかたどって人をお造りになり、祝福してくださいました。ヨハネによる福音書では、このことを第1章3節の言葉でこう表現しているのです。

 「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」

 それにもかかわらず、人はすぐに罪を犯して神の御心から離れてしまいます。そして人は神の御心(ロゴス)との間に大きな亀裂を作り出してしまいました。この世界は神の御心から離れ、人は神と結び直す術を失ってしまいました。人が自分の力でどれだけ神のようになろうとしても、あるいは人がどれだけ自分の力で救いを創り出そうとしても、そうすればするほど明らかになるのは人の積み深さであり、神の御心から程遠いところで傲慢にならざるを得ない姿でした。聖書はこれを「罪」と呼びます。

 人が科学技術を駆使して立派な道具をつくり出しても、それは相手を支配し滅ぼす武器として用いられ、この世界は平和になるどころか、他人を支配し、服従しない者を亡ぼし、人間は互いに関係を壊し、心の溝を深め、ますます神の御心を傷めることへと向かってしまうのです。

 福音記者ヨハネは、4節でこのことを「暗闇は光を理解しなかった」と言っています。この世界は「初めに神のロゴスがあった」という基本、前提を忘れると、人は自分の権力を強くすること、奪うこと、支配すること、欲望を満たすことへと向かってしまい、暗闇の中で滅びへと向かうことになるのです。

 そのような暗闇が支配する世界に、神はご自分のロゴスを御子主イエスによって、私たちの目に見える小さく貧しいお姿となって、この世に送り込んで下さいました。

 ルカによる福音書が記すクリスマス物語によれば、御子イエスは生まれた時、布にくるまれ飼い葉桶の中に寝かされました。誰もその弱く貧しい者を顧みることなく、身重で旅する人が家畜小屋の飼い葉桶へと追いやられるような世界の直中へ、神は敢えてご自身の御心(ロゴス)を示すために主イエスを遣わして下さったのです。

 主イエスが馬小屋でお生まれになったことに表されているように、真の光が暗闇の中に輝いても、暗闇はこの真の光を理解しませんでした。

 ある神学者は「このように人間の欲望が渦巻き罪の満ちる世界の中で、御子が宿るために用意された場所があるとすれば、それは十字架の上だけであった。」と言っています。この世界の人々は、真の光であるロゴスによって自分の暗い部分を照らし出されますが、闇の人々はそのことを認めず、光を理解せず、拒み、掻き消すかのように馬小屋に宿ったロゴスである主イエスを十字架の上へと追いやっていくことになるのです。

 神は、その独り子が生まれる時には馬小屋へと追いやられ、その最期は犯罪人に仕立てられて十字架の上に追いやられることになるとしても、そのことを通してしか知らせることのできない神の愛をこの世に示し、この世界に生きる私たちを愛して下さいました。その愛を神の側から示して下さった記念の日がクリスマスであり、教会はこのことを神の御言葉(ロゴス)の受肉、「神の御言葉が人となった」と表現してきました。

 主イエスは、この世に神の子がおいでになったことなど誰も気づかないような時に、誰もそれとは分からないようなお姿をとって、来て下さいました。それは、たとえ私たちが自分では生きている意味が分からなくなったり生きていることが空しくなるような事があったとしても、神は神の側からこの世界を愛し、私たちが自分では自覚的には神に支えられているとか生かされているとか思えなくても、神は神の側から一方的に私たちを支え生きる力を与え続けていて下さっていることにつながっていくのです。

 そして、神の子は、弱く貧しく小さな存在となって私たちの弱さ、貧しさ、小ささの中に住み、私たちを無条件で愛してくださるしるしとなって下さいました。

 主イエスの生涯はその誕生から死までを通して、神のロゴスが愛と命であることを示しました。ちょうど写真のネガフィルムと印画紙に焼き付けられた絵がまるで違って見えるように、主イエスに神の愛の光が当てられる時、その信仰の目をもって主イエスを見ようとする者には、主イエスの恵みと真理とに満ちた姿が浮かび上がってきます。

 クリスマスは、神の愛が具体的な姿をとってこの世に宿った日です。それと同時にクリスマスは、私たちの罪が神の御子を馬小屋に追いやった日でもあります。

 主イエスを通して示された神の愛を心に深く迎え入れ、神の愛を人々に分け合い、私たちの世界にキリストが生きてくださるように祈り求めて参りましょう。

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2022年12月21日

温かな視線を交わし合う 2008年2月

温かな視線を交わし合う 

 キリストに結ばれて歩みなさい。(コロサイの信徒への手紙第2章6b節)

 親子関係は、赤ちゃんがお母さんのお腹の中にいるときから始まっています。新生児はまだ目がよく見えないと言われた時期もありましたが、私の子育て体験から言うと、赤ちゃんは(どの程度かは別として)かなり目が見えているという実感を持っていますが、皆さんはいかがでしょうか。例えば、生まれたばかりの赤ちゃんは、少なくとも目の前の三十㎝ほどの距離でサッカーボールほどの大きさのものは認識できることが分かっています。それは、ちょうど大人が赤ちゃんを抱っこしたときに、大人と赤ちゃんの目と目がしっかりと結び合う距離でもあります。

 授乳の時、赤ちゃんはコクンコクンと一定のリズムでお乳を飲み、少し休んでまた一定のリズムでお乳を飲むことを繰り返します。赤ちゃんは「少し休んで」いるときに、お母さんの顔をじっと見つめます。授乳時にこのような「間」をとるのは、ほかの動物にはない人間の赤ちゃん特有の行為なのだそうです。そしてこの「間」は、赤ちゃんがお母さんと目と目で暖かで平安なコミュニケーションを結ぶ大切な時なのです。「目と目を合わせて心を育む」、そんな言葉が思い浮かびます。そうであれば、お母さんはこの「間」が出来たときに、赤ちゃんに暖かな視線と向けてあげることが大切だということがよく理解できます。

 また、人間の目は、他の動物に較べていわゆる「白眼」の部分が他の人にもよく分かるようになっています。他の動物は人間ほど白眼の部分が多くありません。人間の目はその分その人の感情や思考が表れやすくなっているのです。「目は口ほどにものを言う」と言われるのもうなずけます。

 このようなことを考え合わせると、暖かな視線はコミュニケーションの基本であると言えるでしょう。私たちは子どもたちとの豊かな心の交流のために、暖かな視線を子どもたちに向けたいと思います。それは年齢に関わらず、人と人とが心を通わせる上で最も大切なことの一つです。もしいつも刺すような冷たい視線を浴びていては、大人だって心が縮む思いになり、他の人と目と目を合わせることができなくなるのではないでしょうか。

 私たちは神さまから大きな愛の視線を受けています。いつどこにいても、私たちは神さまの見守りの中で生かされているのです。この恵みに生かされて、私たちも互いに暖かく支持的な視線を向け合うことができます。神さまの愛の眼差しをしっかり心の奥にまで受けましょう。そして私たちからも、日々、暖かな視線を子どもたちに向けていきたいと思います。

 (『あいりんだより』愛隣幼稚園20082月)

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成長の時を見守り支える

成長の時を見守り支える 

 「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉第3章1節)

 新年おめでとうございます。本年も教職員一同で子どもたちの心身の豊かな育みのために努めて参りたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 我が家では、今年も一つヒヤシンスの水栽培をしています。秋に買った球根を冷蔵庫に入れて約一ヶ月の擬似冬体験をさせた後、12月始めに水栽培を始めました。先ず根が伸びるように薄暗いところに置いて、今は明るい部屋の中に置いてその成長を楽しんでいます。明るく暖かな部屋に置くかれたヒヤシンスは毎日少しずつ成長しているのが分かります。やがてつぼみの頭が見えてくるでしょう。花の咲く時が楽しみです。

 それぞれの子どもたちにも成長の時があります。ふさわしい環境の中で、十分に根を張る時、葉をしげらせる時、花を咲かせる時、実を結ぶ時、休眠する時。成長するのは子ども自身であり、私たちに出来ることは良い環境を整え、手出しをするのではなく眼差しを向けて見守ることです。それぞれの子どもの姿をしっかりと見極めながら、急がせるのではなく、かといって放任するのでもなく、心の栄養になる環境を整えて子どもたちの成長を共にする喜びを経験する年にしていきたいと思います。各ご家庭におかれましても、子どもたちが出来るだけ規則正しい生活が出来るようにご配慮いただければ幸いです。なぜなら、規則正しい生活は一日の中での「時」のメリハリをしっかりと創り出すからです。生き生きと心を通わせ、言葉を交わし合う生活を創っていく上でも、「時」をしっかりと意識していたいと思うのです。

 近年、日本の教育力の低下が指摘され、マスコミで昨年も高校生の学力が世界の他国に較べて順位を下げていることが話題になりました。特に思考力や応用力の低下が目立っているようです。その原因を考えてみると、子どもたちが幼い頃から周りの人たちと対話する機会を奪われ、自分の実感を大切にした心の触れ合いを無くしていることが挙げられるのではないかと思います。

 人と人との深く暖かな心の交流が無ければ人間としての成長はあり得ません。時代は私たちを怠惰にさせるほどに便利な道具や指先を動かすだけで遊んだ気になる遊具にあふれ、心と体を十分に動かしながら他の人とぶつかり合い、理解し合いながら心の交流を深めることが乏しくなってきています。その中で人は次第に孤立化し、「時」に対するメリハリも失っているかのように感じられます。

この年を、安易さや手軽さに流されることなく、子どもの確かな成長を信じ、願い、豊かな交わりのある生活を創っていくことができるよう、教職員一同で努めていきたいと思います。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

(愛隣幼稚園(宇都宮)園便り『あいりんだより』2008年1月 )

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一緒に絵本を読みましょう

一緒に絵本を読みましょう

  子どもは自分で言語表現する以上に周りの人の言葉やその雰囲気を頭でもハートでも理解しているものです。もし、言葉で話す程度にしか理解できていないにしても、その場の雰囲気を体で感じていますし、そう感じていることを前提にして接してあげることが大切です。子どもが片言を話すようになったら、是非親子で絵本を読む機会をとってあげてください。

 絵本にはテレビ番組やビデオとは違う良さがたくさんあります。その一つは、絵本は番組のペースではなく、親子のペースで読めることです。ある場面は繰り返し、ある場面はゆっくり、またある時は絵本に書いてないことも途中で付け加えたりしながら読めるのは絵本の素晴らしいところです。

 かつて、私の息子が妻の膝の上で絵本を読んでもらっていました。2歳になる前に頃のことだったと思います。その息子の表情を見て改めて気付いたことがありました。子どもは絵本の世界に入り込みます。子どもはお母さんに絵本を読んでもらいながら、お母さんの耳から言葉を味わい、自分の目で絵を味わい、体全体で絵本の世界を体験しているのです。視線は真剣な表情で絵本の上を、時に一点に止まり、時に駆けめぐり、ページがめくられるとまた食い入るように新しいページに思いを集中します。この時の親と子の作り出すリズムは、決してテレビ番組やビデオでは生まれません。絵本の世界は、その親子にしかない聖なる場を創ります。読み手のお母さん(或いはお父さん)は、少しゆっくりかなと思うペースで落ち着いた静かな声で読み聞かせてあげてください。子どもはその時、絵本の世界を経験していると同時に絵本を通してお母さん(或いはお父さん)と一緒に生きる世界を味わっているのです。

 テレビ番組やビデオの作品の中にも面白いものや興味を引くものはあります。楽しめる番組も沢山あるでしょう。でも、それは子どもが感じたり立ち止まって言葉を発したい時にも待ってはくれません。自分の感じることを自分のペースで心に捕らえ親と分かち合えることは、何物にも代えられない大切なことです。

 絵本の読み聞かせをする時間を取ってあげてください。そのうち子どもの方からお気に入りの作品を持って「読んで」と言ってくるようになるでしょう。お母さんの朗読は子どもの情操を養います。読み終わった時も、その余韻を大切にしてあげてください。すぐにコマーシャルが流れたりせず、読み終わった後のわずかな沈黙も親子の読書という聖なる時を引き立ててくれることでしょう。

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2022年12月19日

言葉かけの大切さ

 言葉かけの大切さ

 昔、私は、赤ちゃんは小さくてまだ話せないしまだ理解できないから言葉かけは無駄だと考えているお母さんにお会いしたことがありました。

 いいえ、赤ちゃんは何でも分かります。かりに百歩ゆずって、赤ちゃんはまだ言葉が分からないとしても、分かっているかのように言葉かけをしてあげることは大切なことなのです。まだ言葉の一つ一つの意味までは分からないとしても、赤ちゃんはお母さんが話しかける雰囲気や表情から、心の中で相当に強い反応を示しているのです。はじめのうちはごく大まかな快・不快という程度の反応かも知れませんが、お母さんの掛ける言葉が赤ちゃんの中に快適に入っていくこと、心地よく響くことは、赤ちゃんの精神的な成長にとって大切な「栄養」になります。また、言葉を獲得していく上でも大切なことなのです。

 ダッコして優しく子守歌を歌いながら軽くトントンと叩いてあげたり(パッティングと言います)、周りの様子や赤ちゃんの気持ちを代わりに言葉にしてあげるような言葉かけも有効だと考えられています。

 私たちが、満天の星を見上げても、はじめのうちは星の位置関係など見えませんが、幾度も幾度も夜空を見上げているうちに、そして星座を知るうちに、星は星座としてある程度のまとまりをもって認識できるようになるでしょう。赤ちゃんが言葉を理解していくのもこれと似たところがあります。お母さんの優しい声と言葉遣いによって自分に向けられる言葉を、幾度も幾度も耳にすることによって、赤ちゃんは自分の体験と言葉を結びつけ始めます。沢山のお話しの中から、赤ちゃんは、次第に重要な単語や言い回しをキャッチしはじめます。、

 言葉をかけられることは快い、言葉を受けることは心地よい、という経験を沢山重ねることは、赤ちゃんにとって単に言葉を獲得するために有効なだけではなく、情緒の安定した豊かな精神性を育むための第一歩でもあります。

 柔らかな声で、優しい言葉で、にこやかに沢山話しかけて上げましょう。

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巷のクリスマスに思う

 もう大分昔のこと、都内の大きな文具店でクリスマスカードを探したことがありましたが、残念ながら、気に入ったものを見つけることはできませんでした。

 私が探していたのは、例えば馬小屋の聖家族とか博士たちの訪問などの聖書が語るキリスト降誕の絵カードでした。でも、そのようなカードは一枚もなく「始めからキリスト教書店にいけば良かったな。」とがっかりしながら店を出ました。

 また、これも大分前のこと。降誕日が近づく頃、ラジオで「クリスマスソング特集」をやっていました。馴染みの聖歌も流れてくることを期待しながらラジオに耳を傾けていました。「ジングルベル」、「赤鼻のトナカイ」などの曲が流れ、「それでは最後の曲です。クリスマスと言えば、これを抜きには考えられません」いう前置きを聞いて、私は「今度こそ『きよしこの夜』だ!」と思いました。でも、紹介されたのは「ホワイトクリスマス」で、結局、一時間近いその番組では私が期待していたクリスマスの聖歌は一つも流れませんでした。何年か経って、そのことを家族にぼやいたら、息子に「そんなの当たり前だよ」と言われてしまいました。

 クリスマスとは、キリスト(救い主)とマス(礼拝)の合成語で、救い主イエスの降誕を祝いその喜びを分け合う日で、この日をどう迎えるかは、「自分にとってイエス・キリストとは何者か」に関わる大問題なのです。

 私たちは、この日を年末の演出効果程度の出来事で済ませるのではなく、教会に連なりイエスを救い主と告白する者として、豊かで内実のある日として過ごしたいのです。

 イエス・キリストの誕生は、決して華やかでも煌びやかでもありませんでした。でも、イエスは私たちが生きることを肯定し、その喜びを私たちの心の奥深くに与えてくださいました。

 私たちは、この喜びの根底にあるイエス誕生の物語を共有し、その当時の底辺を生きていた羊飼いに喜びのメッセージが真っ先に届けられたことを思い、私たちの弱さや貧しさの中にこそ宿ってくださるキリストを分かち合いたいと思うのです。私たちにとって、当たり前のクリスマスとはどのようなクリスマスなのでしょう。どうぞクリスマスに、いや、いつでも教会の礼拝においでください。

 (『マラナ・タ』東松山聖ルカ教会教会通信 2022年12月5日発行号)


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