2022年11月28日

主にお会いする備え   イザヤ書2章1~5節 降臨節第1主日 2022.11.27

主にお会いする備え    イザヤ書2章1~5節  降臨節第1主日 2022.11.27

 教会の暦は新しい年に入りました。
 今日は、聖書日課から旧約聖書の言葉を中心に、私たち一人ひとりが主なる神をしっかりと心の中に迎え入れ、主なる神に私たちの心の奥深くに宿っていただけるように、その備えを進めていきたいと思います。また、私たちが主なる神さまに迎え入れていただくのに相応しい備えが出来るように、導きを受けたいと思います。
 はじめに、今日の旧約聖書日課からイザヤ書2章5節の御言葉を思い起こしてみましょう。
 「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」
 まず、このようにイスラエルの民に呼びかける預言者イザヤがどのような時代を生きた人であり、そのような状況の中でこのように預言しているのか、その背景を理解しておきましょう。
 イザヤ書第1章1節に、イザヤが生きた時代が次のように記されています。
 「これは、ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである」。
 イザヤが預言者として召し出されて働いたのは、紀元前740年頃から紀元前700年の頃の約40年間でした。
 イスラエルが王国となりサウル王が初代の王となったのが紀元前1020年のことで、ダビデが紀元前1000年に王となってイスラエルを一つの纏まった国として首都をエルサレムに定めました。ダビデの40年の統治の後、その子ソロモンもほぼ40年にわたってイスラエルを治めました。ことにソロモンの時代には周辺諸国が弱体化し、イスラエルはそれに乗じて国力を強めますが、ソロモン王の時代が進むと王国を維持するための税金が重くなったり、ソロモンが異国の宗教や文化を取り入れることに多額の資金をつぎ込むことで生じた貧富の拡大や軋轢が表面化してきます。そして、ソロモンが死んでその子レハブアムが即位すると直ぐに、国は紀元前922年に南北に分裂してしまいます。
 そのような南北分裂の時代の中、紀元前780年の頃、南イスラエル(ユダ)の国にウジヤ王が即位します。ウジヤ王の時代に、周辺諸国が対立し合って力を落としていたこともあり、イスラエルの国は南北ともその隙間をぬうように繁栄を回復します。それは、ダビデやソロモンの時代の繁栄の再現と言われるほどになり、ソロモン王末期の時代と同じように、人々の心は変わり始めます。
 国が繁栄して国の力が付くということは、国民全体が平均して豊かになるということより、先ず支配者階級が力をつけて貧富の格差が広がって、権力者たちはその富み上にあぐらをかくようになり、次第に傲慢になり、貧しい人や弱い人を虐げ蔑むようになってくるのです。そして、権力者たちは、ますます贅沢になり、不正に対して無感覚になり、それに対する批判を力で押さえつけ、神に聞き従うことを忘れます。国の中では貧富の差は大きくなり、特権階級にある人々は形の上では派手な捧げ物をして神を敬っているかのように振る舞いながらも、その内実は神の御心に従うことなどすっかり忘れてしまいます。
 イザヤが現れたのは、こうしたウジヤ王の時代の末期であり、イザヤはこのような時代の王と支配者層たちに向かって、特に彼らの驕り高ぶりに対して、神の厳しい裁きの言葉を取り次ぐことになるのです。
 イザヤは、主の御言葉に聞き従うことを忘れまた主に信頼することを忘れたイスラエルの指導者層たちに向かって、開口一番、イザヤ書第1章3節で次のように神の御言葉を取り次ぎます。
 「牛はその飼い主を知り、ロバはその主人のまぐさ桶を知る。しかし、イスラエルの民はそれを知らず、我が民は悟らない。」
 その当時、牛もロバも愚鈍な動物とされていました。そんな動物でさえ自分の飼い主を知り、自分を養う主人の飼い葉桶も見分けられるのに、イスラエルの民は自分の飼い主が誰なのかも分からなくなってしまっていると、イザヤは指摘します。あなたたちは自分を神に選ばれた民、エリートだ、と言って驕り高ぶっているが、自分の主人が本当は誰なのかも忘れ、主なる神に信頼する心をすっかり失っていると言って、イザヤはイスラエルの指導者たちを糾弾し、そのようなイスラエルの民とその中心であるエルサレムについての審判を預言しています。そして、イザヤは今日の旧約聖書日課で、終わりの時の幻について語り、第2章5節でイスラエルの民が何に基づいて生きるべきかを訴えるのです。
 「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と。
 「ヤコブの家」とは、神に選ばれたイスラエルの民を意味します。その民に向かって、主なる神とお会いする日のために「光の中を歩もう」と、イザヤは言います。ウジヤ王の時代のほんの一時的な繁栄に酔いしれているうちに、イスラエルは自分たちが最も信頼すべきものが何かを忘れ、周りの国々の風向きを気にしながら生き延びることを考えるようになってしまいました。イザヤから見れば、また、イザヤを通して語りかける主なる神の目から見れば、ソロモン王の時代も、ウジヤ王の時代も、ほんの一瞬の繁栄であり、その繁栄はかえって人を惑わし人の目を暗くする闇でしかったのです。一時の繁栄によって与えられた贅沢と驕り高ぶりによって、イスラエルの民の目、とりわけ権力者や指導者の目は、すっかり曇り、神の前に本当のことや正しいことを見極める力を失っていたのです。
 イザヤは「主の光の中を歩もう」と言っていますが、天地創造物語で、神は「光あれ」という言葉からこの世界の創造を始めておられます。人は主なる神がお与えくださる光の中を歩むことによって秩序付けられ、生かされることは、天地創造物語が教えているところです。主なる神は、闇が覆い混沌としたこの世界に向かって先ず「光あれ」と言って、光によって創造の働きを始めておられるのです。このことを思い起こせば、イザヤが「光の中を歩もう」と言っている意味も自ずと明らかになって参ります。
 私たちは日々の生活の中で、何が正しいのか、何に導かれるべきなのかをつい見失いやすい時代に生きています。今から2800年近く前にイザヤが生きた時代とちょうど同じように、私たちの生きる社会も僅かひとときの経済的繁栄の後、何に頼り何に基づいて生きるべきかを忘れ、私たちも創世記の初めにあるような闇と混沌が覆う世界に生きているのではないでしょうか。
 イザヤは「ヤコブの家よ」と呼びかけていますが、実は私たちもこのヤコブの家-新しいヤコブの家-の者なのです。私たちは、イスラエル民族という血筋によって選び出された者の家にではなく、主イエスを救い主とする信仰によって一つとされる者の家に生きる者なのです。この信仰の家に住まい生きる人は、主がお出でになってこの世界に神の御心が満ち溢れる時の姿(ヴィジョン)が、イザヤ書の2章4節によって示されています。
 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」
 主なる神は、このような世界へと私たちを招いておられます。争い破壊することではなく、生み出し支え合う事へと私たちは促されています。私たちは何もせずにただじっとして神の御心が完成されるのを待ち望むのではなく、私たちの側から光の中を歩む具体的な一歩として、剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す生き方を始める必要があるのです。それは、たとえて言えば、神と私たちとがトンネルを反対方向から掘り進めるような事であり、トンネルがいつ繋がり完成されるのはか分からなくても、私たちの側からは主イエスの働きとして平和の完成のトンネルを掘り進めていくことを求められています。そして、神の側と私たちの側は確かに一つになることを私たちは既に主イエスのこの世のお働きと十字架の死、復活、昇天によって示されているのです。
 教会暦では降臨節に入り、私たちは主イエスにお会いする希望を新たにしてます。神の御言葉を私たちの心の奥深くに宿らせることが出来るように祈りながら、今日の御言葉によって神の光の中を歩むことが出来るように導かれて参りましょう。
posted by 聖ルカ住人 at 22:50| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする