熱心に祈り求める ルカによる福音書18:1-8 聖霊降臨後第22主日(特定24) 2022.10.16
今日の聖書日課福音書は、「やもめと裁判官のたとえ」の箇所であり、第18章1節に記されているように、「絶えず祈るべきであり、落胆してはならないことを教えるために」主イエスが弟子たちに話した例え話の箇所です。
今日の聖書日課福音書から一つのキーワードを取り上げてみたいと思います。それは「裁く、裁判する」という言葉です。この言葉は3節、7節、8節に使われていますが、元のギリシャ語ではεκδικεω(エクディケオー)という言葉であり、δικη(神の義)とεκ(外に)との合成語で、「神の義が現れ出る」ことを元の意味として、不当な扱いを受けている者の権利を守り、この世に公正、公平を目に見える姿にして表すことが裁判をすること、裁くことであると言えます。
この言葉を今日の福音書の脈絡に合わせて考えてみると、主イエスは、神は必ず正義を明らかにしてくださるのだから、このやもめのようにあなたがたも神に心を向けてひたすら祈り求めなさい、と言っておられることが分かるのです。
今日の福音書の例えに出てくる裁判官は怠惰で自分の務めに忠実ではない裁判官です。当時の律法によれば、裁判官は、社会的に弱い立場の人(その一例としてのやもめ)の訴えは、優先的に取り上げねばならなかったはずです。でも、この裁判官は、やもめに関わることを面倒くさがるような裁判官です。でも、やもめのしつこいほどの熱心な申し立ては、この怠け者の裁判官の心を動かします。そして裁判(エクディケオー)をすることつまり神の義が表れる働きへと促すのです。ただ神に依り頼むほかない無力なやもめを通して、神の正しさが現れ出てくるようになるのです。
その意味で、この譬えは第11章5節以下(特定12の聖書日課福音書の一部)にある夜中に友人のところにパンをかりに行く譬えと共通するところがあります。
主イエスがこのような譬えによって教えておられるとおり、主なる神は、特別に権力や能力を持つ人の祈りをお受けになるわけではありませんし、特別な業績のある人や社会的な地位のある人の祈りを優先的にお聞きになるわけでもありません。自分には誇るものや頼みにするものが何もないやもめのような人であっても、熱心にひたすらに願い求める者の祈りをお聞き下さいます。
この例え話の意図は、第18章1節にルカが記しているとおり、イエスが弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教える」ことでした。
不正な怠け者の裁判官でさえ訴える者の熱心さの故に正しい裁きを行うように心を動かされるのであれば、ましてあなた方を選び持ち運ぶ神は、熱心に祈るあなた方をそのまま放り出しておくことがあるだろうか、と二重否定で強調して、主イエスは言っておられます。
祈りは、教会の建て前でもなければ形式でもありません。祈りは信仰生活の生命線です。私たちは、自分に命を与えてくださったお方に祈りを通してつながり、自分の命を最後に委ねるお方に祈りを通してつながって生きています。
主イエスが、どんな状況の中で「気を落とさず絶えず祈る」ことを教えたのか、その前後関係を確認しておく必要があります。
エルサレムへ向かう主イエスと弟子たちの一行には、次第に緊張感が増してきます。主イエスはエルサレムでの十字架の死が迫ってくる緊張感があります。でも、弟子たちにはまだそのことが分からず、主イエスがエルサレムで天下を取るかのような期待を寄せていました。そのような弟子たちに向かって、正しい神の裁きが下ることを求めて熱心に祈ることを教えておられるのです。自分の願いが叶うことを求めるのではなく、神の御心が現れ出ることを求めて熱心に祈りなさいと、主イエスは弟子たちにこの「寡婦と裁判官」のたとえを通して教えておられます。
もし、神に向かって祈ることを忘れ、ただ自分の思いや願いが叶うことを求めるだけなら、主イエスの受難を目の当たりにする時に弟子たちがどうなってしまうのかは容易に想像できるでしょう。
主イエスは、今、エルサレムに向かっておられます。間もなくエリコの町に入り、その次の日にはエルサレムに着くでしょう。そして、エルサレムで、一週間も経たないうちに、弟子たちは自分たちの師である主イエスを失うという大きな落胆を味わうことになります。その時にこそ弟子たちは、主イエスが十字架につけられるまで何もしない(ように思える)神に向かって-この譬えの裁判官のように動き出しの遅い神に向かって-、しつこいほどに祈らなければならくなるのであり、弟子たちはこの寡婦のように、神(正しい裁き主)に向かってしつこい程に祈ることを通して、しっかりと神と結びつけられなければなりません。
ルカによる福音書を更に読み進めていくと、第18章35節からには、エリコの町の入り口で目を開かれた盲人の物語があります。この盲人は、人々が止めようとしても、主イエスに向かって大声で叫び求め、イエスから「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った」と言われて祝福されています。
私たちも、主イエスの教えを受けて、ひたすら祈る事へと導いて戴きましょう。小さな私たちでも、祈りを通してしっかりと主と結びつけられて、神の義を現す器とされることへと導かれるのです。
そして主イエスから「あなたの信仰があなたを救った」と祝福の言葉を戴く人生を歩んで行くことが出来ますように。
今日の聖書日課福音書から一つのキーワードを取り上げてみたいと思います。それは「裁く、裁判する」という言葉です。この言葉は3節、7節、8節に使われていますが、元のギリシャ語ではεκδικεω(エクディケオー)という言葉であり、δικη(神の義)とεκ(外に)との合成語で、「神の義が現れ出る」ことを元の意味として、不当な扱いを受けている者の権利を守り、この世に公正、公平を目に見える姿にして表すことが裁判をすること、裁くことであると言えます。
この言葉を今日の福音書の脈絡に合わせて考えてみると、主イエスは、神は必ず正義を明らかにしてくださるのだから、このやもめのようにあなたがたも神に心を向けてひたすら祈り求めなさい、と言っておられることが分かるのです。
今日の福音書の例えに出てくる裁判官は怠惰で自分の務めに忠実ではない裁判官です。当時の律法によれば、裁判官は、社会的に弱い立場の人(その一例としてのやもめ)の訴えは、優先的に取り上げねばならなかったはずです。でも、この裁判官は、やもめに関わることを面倒くさがるような裁判官です。でも、やもめのしつこいほどの熱心な申し立ては、この怠け者の裁判官の心を動かします。そして裁判(エクディケオー)をすることつまり神の義が表れる働きへと促すのです。ただ神に依り頼むほかない無力なやもめを通して、神の正しさが現れ出てくるようになるのです。
その意味で、この譬えは第11章5節以下(特定12の聖書日課福音書の一部)にある夜中に友人のところにパンをかりに行く譬えと共通するところがあります。
主イエスがこのような譬えによって教えておられるとおり、主なる神は、特別に権力や能力を持つ人の祈りをお受けになるわけではありませんし、特別な業績のある人や社会的な地位のある人の祈りを優先的にお聞きになるわけでもありません。自分には誇るものや頼みにするものが何もないやもめのような人であっても、熱心にひたすらに願い求める者の祈りをお聞き下さいます。
この例え話の意図は、第18章1節にルカが記しているとおり、イエスが弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教える」ことでした。
不正な怠け者の裁判官でさえ訴える者の熱心さの故に正しい裁きを行うように心を動かされるのであれば、ましてあなた方を選び持ち運ぶ神は、熱心に祈るあなた方をそのまま放り出しておくことがあるだろうか、と二重否定で強調して、主イエスは言っておられます。
祈りは、教会の建て前でもなければ形式でもありません。祈りは信仰生活の生命線です。私たちは、自分に命を与えてくださったお方に祈りを通してつながり、自分の命を最後に委ねるお方に祈りを通してつながって生きています。
主イエスが、どんな状況の中で「気を落とさず絶えず祈る」ことを教えたのか、その前後関係を確認しておく必要があります。
エルサレムへ向かう主イエスと弟子たちの一行には、次第に緊張感が増してきます。主イエスはエルサレムでの十字架の死が迫ってくる緊張感があります。でも、弟子たちにはまだそのことが分からず、主イエスがエルサレムで天下を取るかのような期待を寄せていました。そのような弟子たちに向かって、正しい神の裁きが下ることを求めて熱心に祈ることを教えておられるのです。自分の願いが叶うことを求めるのではなく、神の御心が現れ出ることを求めて熱心に祈りなさいと、主イエスは弟子たちにこの「寡婦と裁判官」のたとえを通して教えておられます。
もし、神に向かって祈ることを忘れ、ただ自分の思いや願いが叶うことを求めるだけなら、主イエスの受難を目の当たりにする時に弟子たちがどうなってしまうのかは容易に想像できるでしょう。
主イエスは、今、エルサレムに向かっておられます。間もなくエリコの町に入り、その次の日にはエルサレムに着くでしょう。そして、エルサレムで、一週間も経たないうちに、弟子たちは自分たちの師である主イエスを失うという大きな落胆を味わうことになります。その時にこそ弟子たちは、主イエスが十字架につけられるまで何もしない(ように思える)神に向かって-この譬えの裁判官のように動き出しの遅い神に向かって-、しつこいほどに祈らなければならくなるのであり、弟子たちはこの寡婦のように、神(正しい裁き主)に向かってしつこい程に祈ることを通して、しっかりと神と結びつけられなければなりません。
ルカによる福音書を更に読み進めていくと、第18章35節からには、エリコの町の入り口で目を開かれた盲人の物語があります。この盲人は、人々が止めようとしても、主イエスに向かって大声で叫び求め、イエスから「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った」と言われて祝福されています。
私たちも、主イエスの教えを受けて、ひたすら祈る事へと導いて戴きましょう。小さな私たちでも、祈りを通してしっかりと主と結びつけられて、神の義を現す器とされることへと導かれるのです。
そして主イエスから「あなたの信仰があなたを救った」と祝福の言葉を戴く人生を歩んで行くことが出来ますように。