2022年10月23日

ファリサイ派と徴税人の祈り   ルカによる福音書18:9-14  聖霊降臨後第21主日(特定25)   2022.10.23

ファリサイ派と徴税人の祈り  ルカによる福音書18:9-14 

 今日の聖書日課福音書で、主イエスは、自分を正しい者の側において自惚れるファリサイ派の人と、罪を自覚してへりくだる徴税人の姿を対照的に描き出し、神の御前に「義」とされるのはどちらであるのかを教えておられます。
 主イエスのなさったこの例えは、単純で分かり易い話です。
 この例え話を思い巡らせるための視点として、もう一つの例話を取り上げてみたいと思います。
 ユダヤ教の厳格な律法の教師(ラビ)が召される時がきました。その律法の教師はこう思って自分の一生を嘆くのです。
 『神の御前に立つとき、神は私に「お前はモーセのように生きたか」とは問わないだろう。むしろ、神は私に「私がお前に授けた取り替えのきかない命を他ならぬお前自身として生きたか」と問うに違うない。』
 この視点を保ちつつ、今日の聖書日課福音書から導きを受けたいと思います。
 二人の人が祈るために神殿に上って行きました。その一人はファリサイ派で、罪人ではない自分を感謝し、律法をしっかり守り、しかも律法の規定以上に断食をし捧げ物をしており、その自分を誇り感謝する祈りを堂々と捧げました。この人は、律法に照らして申し分ない自分に自信を持ってこれが祈りの手本だとばかりに祈ります。もう一人は徴税人でした。当時の律法によれば、またファリサイ派の目から見れば、徴税人は罪人でした。その徴税人は、遠く離れて立ち、目を上げようともせずに胸を打ちながら(つまり、深い悲しみを表しながら)、神に憐れみを求めて祈りました。
 当時、イスラエルはローマに占領されてその属州となっていました。徴税人は支配するローマ帝国から税金徴収の仕事を請け負い、定められた額以上の税を取り立て、その差額を自分の収入にしました。イスラエルの民にとって、徴税人はローマの手先であり、ことにファリサイ派は、こうした徴税人は神の国の実現を阻む裏切り者、売国奴であり、「徴税人や罪人たち」という言葉で律法にそぐわない者を一括りにする程の思いをもっていました。
 主イエスは、ファリサイ派と徴税人の二人が祈る姿を対比してお話しになり、「義とされて家に帰ったのは、この徴税人であって、ファリサイ派ではない」と言われたのです。
 主イエスはこの例え話を誰に向かって語られたのでしょう。
 第18章9節に、主イエスはこの譬えを「自分は正しい人間だと自惚れて、他人を見下している人々に対して」お話しになったと記されています。主イエスはこの譬えを、イエスを観察し、調査し、処刑する口実をさがすファリサイ派の人々に向かって話されたのです。
 福音記者ルカは、そのファリサイ派の人々のことを「自惚れて他人を見下している人」と言っていますが、その「自惚れる」という言葉は「自分を確かめる」とか「自分に依り頼む」という意味であり、「正しい自分を根拠にする」という意味で用いらています。主イエスの目からは見ると、この譬えのファリサイ派は自分の心を開いて神に祈っているのはなく、祈る自分を誇り、また律法の規定以上に断食し捧げ物をする自分を誇り、人々の前に「あのような罪人ではない自分」を披露するために、祈る自分の姿を他人に見せびらかすようにしていたのでしょう。その姿は、熱心な信仰者の手本のようでありながら、実は自分を罪人と対比させて、他人の罪を指摘しても自分の罪には目を向けようとしない姿です。いつも律法の枠の中にいて自分を守り、他人を責め、実は少しも神とつながろうとせず、律法の枠組みを利用するだけで、少しも自分自身を主なる神と深く心を通わらせようとはしないファリサイ派の態度を、主イエスは日頃からはっきりと見抜いていたのでしょう。
 主イエスは、マタイによる福音書5章から始まるいわゆる「山上の説教」を、「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」という言葉で始めておられます。この「心の貧しさ」とは、今日の聖書日課福音書に出てきた徴税人のように、自分の心を開いて全てを神に委ねる以外に何も頼るものがないという貧しさを意味し、主イエスはそのような人こそ幸いであると言うのです。この徴税人は、神の前に自分の罪を認め、自分の全てを神の前に投げ出し、ひたすら「罪人の私を憐れんでください」と祈る他ありません。この徴税人が告白する「罪」とは、ファリサイ派が指摘しているような自分の職業や身分の卑しさのことではなく、自分の心の奥深国ある誰とも分かち合えない罪のことであったはずです。そのように自分を神の御前に開いて祈る人こそ「義とされる」-つまり神の前に正しい人-なのだと、主イエスはファリサイ派に訴えているのです。
 主イエスは、ファリサイ派が人前では敬虔を装いながらも、実はその心の中心にあるのは傲慢と自惚れであることを見抜き、しかも、その傲慢と自惚れが他人を罪人と決めつけてその存在を否定していることを指摘したのです。ファリサイ派が「徴税人や罪人たち」を社会から遠ざけて、「我々はあのような罪人とは違って、神に選ばれた者だ」という側に立ち、罪人の側に置かれる人々の痛みを少しも知ろうとしない冷酷さがファリサイ派の自惚れに含まれていることを主イエスは見ておられたのでしょう。
 神に義とされて家に帰ったのは、律法を保身の鎧とするファリサイ派の人ではなく、神の御前に心を開いて自分の罪を告白して嘆き祈った徴税人であった、と言われます。
 今日の福音書を通して、主イエスは私たちにも、自分を頼みとして高ぶるのではなく、すべてを主に明け渡して本当の自分に立ち返り、そこに働く主の力によって生きるように促し勧めておられます。自分の全てを主の前に告白して委ねる徴税人は、特別に評価されるべき善い行いもなく、献げ物もありません。神の御前に自分を開き、その自分を神に委ねて憐れみを請うだけで、この徴税人は神に「義」とされています。
 私たちは、律法によって自分の義を守って生きるのはなく、私たちの罪や痛みをも担って十字架にお架かりになった主イエスの恵みの中で生かされていることを信じることの「義」に生きることへと導かれて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 16:05| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年10月17日

熱心に祈り求める ルカによる福音書18:1-8     聖霊降臨後第22主日(特定24)   2022.10.16

熱心に祈り求める    ルカによる福音書18:1-8     聖霊降臨後第22主日(特定24)   2022.10.16

 今日の聖書日課福音書は、「やもめと裁判官のたとえ」の箇所であり、第18章1節に記されているように、「絶えず祈るべきであり、落胆してはならないことを教えるために」主イエスが弟子たちに話した例え話の箇所です。
 今日の聖書日課福音書から一つのキーワードを取り上げてみたいと思います。それは「裁く、裁判する」という言葉です。この言葉は3節、7節、8節に使われていますが、元のギリシャ語ではεκδικεω(エクディケオー)という言葉であり、δικη(神の義)とεκ(外に)との合成語で、「神の義が現れ出る」ことを元の意味として、不当な扱いを受けている者の権利を守り、この世に公正、公平を目に見える姿にして表すことが裁判をすること、裁くことであると言えます。
 この言葉を今日の福音書の脈絡に合わせて考えてみると、主イエスは、神は必ず正義を明らかにしてくださるのだから、このやもめのようにあなたがたも神に心を向けてひたすら祈り求めなさい、と言っておられることが分かるのです。
 今日の福音書の例えに出てくる裁判官は怠惰で自分の務めに忠実ではない裁判官です。当時の律法によれば、裁判官は、社会的に弱い立場の人(その一例としてのやもめ)の訴えは、優先的に取り上げねばならなかったはずです。でも、この裁判官は、やもめに関わることを面倒くさがるような裁判官です。でも、やもめのしつこいほどの熱心な申し立ては、この怠け者の裁判官の心を動かします。そして裁判(エクディケオー)をすることつまり神の義が表れる働きへと促すのです。ただ神に依り頼むほかない無力なやもめを通して、神の正しさが現れ出てくるようになるのです。
 その意味で、この譬えは第11章5節以下(特定12の聖書日課福音書の一部)にある夜中に友人のところにパンをかりに行く譬えと共通するところがあります。
 主イエスがこのような譬えによって教えておられるとおり、主なる神は、特別に権力や能力を持つ人の祈りをお受けになるわけではありませんし、特別な業績のある人や社会的な地位のある人の祈りを優先的にお聞きになるわけでもありません。自分には誇るものや頼みにするものが何もないやもめのような人であっても、熱心にひたすらに願い求める者の祈りをお聞き下さいます。
 この例え話の意図は、第18章1節にルカが記しているとおり、イエスが弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教える」ことでした。
 不正な怠け者の裁判官でさえ訴える者の熱心さの故に正しい裁きを行うように心を動かされるのであれば、ましてあなた方を選び持ち運ぶ神は、熱心に祈るあなた方をそのまま放り出しておくことがあるだろうか、と二重否定で強調して、主イエスは言っておられます。
 祈りは、教会の建て前でもなければ形式でもありません。祈りは信仰生活の生命線です。私たちは、自分に命を与えてくださったお方に祈りを通してつながり、自分の命を最後に委ねるお方に祈りを通してつながって生きています。
 主イエスが、どんな状況の中で「気を落とさず絶えず祈る」ことを教えたのか、その前後関係を確認しておく必要があります。
 エルサレムへ向かう主イエスと弟子たちの一行には、次第に緊張感が増してきます。主イエスはエルサレムでの十字架の死が迫ってくる緊張感があります。でも、弟子たちにはまだそのことが分からず、主イエスがエルサレムで天下を取るかのような期待を寄せていました。そのような弟子たちに向かって、正しい神の裁きが下ることを求めて熱心に祈ることを教えておられるのです。自分の願いが叶うことを求めるのではなく、神の御心が現れ出ることを求めて熱心に祈りなさいと、主イエスは弟子たちにこの「寡婦と裁判官」のたとえを通して教えておられます。
 もし、神に向かって祈ることを忘れ、ただ自分の思いや願いが叶うことを求めるだけなら、主イエスの受難を目の当たりにする時に弟子たちがどうなってしまうのかは容易に想像できるでしょう。
 主イエスは、今、エルサレムに向かっておられます。間もなくエリコの町に入り、その次の日にはエルサレムに着くでしょう。そして、エルサレムで、一週間も経たないうちに、弟子たちは自分たちの師である主イエスを失うという大きな落胆を味わうことになります。その時にこそ弟子たちは、主イエスが十字架につけられるまで何もしない(ように思える)神に向かって-この譬えの裁判官のように動き出しの遅い神に向かって-、しつこいほどに祈らなければならくなるのであり、弟子たちはこの寡婦のように、神(正しい裁き主)に向かってしつこい程に祈ることを通して、しっかりと神と結びつけられなければなりません。
 ルカによる福音書を更に読み進めていくと、第18章35節からには、エリコの町の入り口で目を開かれた盲人の物語があります。この盲人は、人々が止めようとしても、主イエスに向かって大声で叫び求め、イエスから「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを救った」と言われて祝福されています。
 私たちも、主イエスの教えを受けて、ひたすら祈る事へと導いて戴きましょう。小さな私たちでも、祈りを通してしっかりと主と結びつけられて、神の義を現す器とされることへと導かれるのです。
 そして主イエスから「あなたの信仰があなたを救った」と祝福の言葉を戴く人生を歩んで行くことが出来ますように。 

posted by 聖ルカ住人 at 09:45| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年10月09日

清めを受けた10人とひとりの感謝 ルカによる福音書17:11-19   聖霊降臨後第18主日(特定23) 2022.10.09

清めを受けた10人とひとりの感謝      ルカによる福音書17:11-19  聖霊降臨後第18主日(特定23)  2022.10.09

 今日の聖書日課福音書には、主イエスによって重い皮膚病を清められた十人の物語が取り上げられています。
 はじめに、「重い皮膚病」という言葉について触れておきたいと思います。現在私たちが公の礼拝で用いている『聖書-新共同訳-』で「重い皮膚病」と訳されているこの言葉は、かつて「らい病」と訳されましたが、途中で「重い皮膚病」と読み替えることとされ、2018年刊行の『聖書-聖書協会共同訳-』では「規定の病」と訳されています。この言葉を直訳できる言葉がないのです。
 この言葉は、旧約聖書のヘブライ語では「ツァラート」であり、新約聖書のギリシャ語では「λεπροs(レプロス)」です。このギリシャ語を語源として英語ではLeprocyであり、このLeprocyは「ライ病」「ハンセン氏病」という意味を含めて用いられてきました。しかし、旧新約聖書の「ツァラート」が実際にどのような病であったのか、その詳細は分かっていません。例えば、レビ記第13章にはこの「ツァラート」がどのような病でどのような見分け方(診断)をするのか、もしこの病に冒されていたらどのようにし、回復したときにはどのようにするのかなどについて記されていますが、その中に人体だけではなく皮製品についての言及もあり、この病がハンセン氏病と同じ範囲の同じ意味で用いられいないことは明らかであり、ツァラートという言葉にハンセン氏病が含まれているとは言えないのです。それでも、この言葉は長い間、ライ病(ハンセン氏病)のこととして理解され、聖書もそれに基づいて解釈されてきました。
 しかし、ハンセン病の病原菌は、ノルウェーの細菌学者ハンセンによって、1873年に発見され、この病原菌が体の末梢神経に寄生してそこから体の先端部分を壊死させる病気であることが分かってきたのです。
 それ以前には、体の表面に似たような症状の出る他の皮膚病群とハンセン病が区別されずに捕らえられた時代も長く、体にこうした症状が現れた人は強い差別を受けてきた辛く悲しい歴史が世界中にあると言えます。現代の旧約聖書学者の中には、この病は特定の地方の風土病であったと考える者もいて、ハンセン病は旧約聖書時代のパレスチナには存在しなかったと考えられています。
 こうしたことを考えあわせてみると、時代と共にその言葉に入り込む他の意味をも踏まえながら聖書を正しく翻訳する難しさを感じます。旧約聖書ヘブライ語のツァラートも新約聖書のギリシャ語のレプロスも、医学用語として極めて曖昧な言葉であり、日本語訳の聖書では「ライ病」、「重い皮膚病」、「規定の病」と訳してきたのが現状であり、『聖書新改訳』(いのちのことば社)は敢えて日本語に置き換えず、そのまま「ツァラート」としています。
 長い前置きになりましたが、今日の聖書日課福音書は「10人の重い皮膚病」の者が主イエスに清められた物語です。
 この「重い皮膚病」に限らず、病は体のことでありながら体のことに留まらず、病んだ本人にも周囲の人にも、いろいろな影響を及ぼします。例えば、病気のために好きな食べ物を制限されて意欲が減退したり、楽しみにしていた旅行を断念しなければならなくなる場合もあるでしょう。病は本人ばかりでなく、家族や友人との関係にも影響を及ぼします。聖書に出てくる「重い皮膚病」についても、この病気がどれほど恐れられ嫌われていたかを、旧約聖書の次のような記述の中に見ることが出来ます。
 例えば、レビ記第13章45節以下に次のように記されています。「重い皮膚病(ツァラート)にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状がある限りその人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」
 ここには、重い皮膚病(ツァラート)の者は、人々との交わりを絶たれ、共同体から追い出され、自分の名を名乗る代わりに自分を「汚れた者」と言わなければならず、人格を奪われた様子が覗えます。しかも当時「汚れた者」が意味するのは、肉体的な病気があるということに留まらず、神に見捨てられた(或いは罰せられた)しるしが体に現れ出ていることと捕らえられました。
 10人の重い皮膚病者は、そのように神から罰を受けて社会から捨てられた人であり、ユダヤ人かサマリア人かということさえ問題ではなく、捨てられた者が集落の外でひっそりと暮らしていたものと思われます。
 主イエスと弟子たちの一行がガリラヤとサマリアの間を通ってエルサレムに向かっていた時のことです。10人の重い皮膚病を患っている人が主イエスが近くにいることを知って、主イエスを探し出して叫びました。
 「イエスさま、先生、どうかわたしたちを憐れんでください。」
 先ほど触れたとおり、律法によれば、その10人は「汚れた者がここにいます。汚れた者です」と大声で叫んで、自分たちからその場を離れなければならなかったはずです。でも、彼らは必死で主イエスに向かって憐れみを求めます。彼らの「重い皮膚病」は律法をはじめとする当時のしがらみの中で、彼らの名を奪い、人格を奪い、人間らしい生活を奪ってきました。でも、彼らは今主イエスに一人の人として憐れんでいただくことを願って、必死に叫んでいます。
 主イエスは、彼らに自分の体を祭司に見せるように告げますが、この10人が主イエスの言葉に従って神殿の祭司のところに向かう途中で、自分たちが既に浄められていることに気付きます。律法によれば、重い皮膚病の症状が消えた人が祭司のところに行って回復の判定を受け、その後に浄めの献げ物をするのが順序ですが、イエスは10人の病者にそのまま直ぐに祭司のところに行くように指示しています。ここに福音記者ルカは、主イエスが深い愛をもって人々を憐れむことが、この10人の重い皮膚病の者にとっての癒しと浄めの力であること、そして、それこそが旧約聖書の律法を遙かに超える神の力ある業になることを伝えているのでしょう。
 10人は浄められました。けれどもその10人の中で、自分が浄められたことを知って大声で神を賛美しながらイエスのところに戻ってきたのはただ一人でした。しかも、その人は日頃イスラエルの民から差別され交わりを絶たれ、互いに憎み合っていたサマリア人でした。主イエスは言われました。「清くされたのは10人ではなかったか。他の9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻ってきた者はいないのか。」
 重い皮膚病を病んで見捨てられ、誰一人相手にしてくれる者などなかった時に、主イエスはその人々を受け入れてくださいました。そして、彼らは主イエスのみ言葉にすがって、祭司のところに向かったはずでした。み言葉に従って立ち上がり、歩み、その中で自分たちが既に浄められていると気付いたとき、10人ともに癒やされて清くなって、再び生きていくことのできる喜びが湧き上がったことでしょう。
 でも、その浄めは、主イエスとの出会いと交わりを深めていく信仰の入り口だったはずです。他の9人は、自分の求めが満たされると、またエルサレム神殿の祭司階級を頂点とした制度の中に戻って、サマリア人を差別して自分を高みに置く社会生活を始めたと考えられます。
 その一方、唯ひとり主イエスの足下にひれ伏すサマリア人は、自分の病が浄められたことを通して、大声で神を賛美し、感謝する事へと導かれています。初めは遠くから憐れみを求めて叫ぶほかなかった人が、今は主イエスの足下にひれ伏して感謝しています。これは礼拝する者の姿です。肉体的な、また物質的な恵みは目に見えて人を喜ばせる反面、すぐに過ぎ去り消えていきます。でも、このサマリア人にとって自分が浄められた事は単なる肉体的、物質的な恵みに留まりません。
 この10人の身が浄められたことそのものがどれほど大きな喜びであったかは私たちの想像を超えていることでしょう。でも、一人主イエスのところに戻ってきたこのサマリア人には、自分の癒しと浄めが、更に主イエスを通して与えられた恵みを感謝する事へ、これらかも感謝と賛美に中に生きていくことにつながっていきます。
 主イエスはこのサマリアの人にこう言いました。
 「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
 主イエスはこの人が浄められた事に満足してそこに留まるのではなく、「立ち上がって行きなさい」と促します。主イエスに見つけられ、招かれた私たちに対しても、主イエスは同じように「立ち上がって生きていきなさい」と言っておられます。主イエスの体である教会に連なる私たちも、このような信仰の歩みに生かされる時、主イエスに対する感謝と賛美を更に大きく深くすることへと導かれ、私たちは主イエスから「あなたの信仰があなたを救った」と祝福していただけるでしょう。
 小さくされ弱くされている人と共におられる主イエスに、憐れみを叫び求め、絶えず主イエスの御言葉によって立ち上がる事へと促されましょう。そして主に対する感謝と賛美をささげる信仰の歩みを深めていきたいと思います。

posted by 聖ルカ住人 at 16:30| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年10月02日

遣える喜びと謙遜  ルカによる福音書17:5-10 特定22 2022.10.02

仕える喜びと謙遜   ルカによる福音書17:5-10  聖霊降臨後第18主日(特定22)   2022.10.02

 今日の聖書日課福音書の中で、主イエスは仕える者の喜びと謙遜について教えておられます。
 僕(しもべ)が主人の家の外で羊の世話をして、更に畑を耕して、家に戻ってきます。主人は彼をもてなすこともなく彼に次の仕事を言いつけます。「外の仕事は済んだら、次は食事の用意だ。私が食事をしている間は給仕をしてくれ。あなたの食事はその後だよ。」
 このように言う主人のことを私たちはどう思うでしょう。例えば、現代のお店のオーナーとアルバイトのような関係を頭に置いてこの話を考えようとすれば、何のねぎらいの言葉もなく次々と僕に仕事を言いつけて働かせるこの主人は、非情な人のように思えるかも知れません。
 でも、主イエスがここで伝えようとしているのは、主人のそのような非情な一面についてではなく、この僕は自分が主人に用いられいることを喜んでおり、この僕はこの主人に生かされているいうことです。そして、僕は自分の主人のために、主人の思いを満たすために働くのは当然であり、僕はこの主人の下で働くことを喜びとしており、だからこそ自分のしたことについて謙遜でいられるのです。
 この課題は、突き詰めて言えば、私たちが神から命を与えられてこの世に生かされていることを喜んでいるか、神の御栄えのために生きることを楽しんでいるか、という問へと通じています。
 私たちはどのような視点から聖書を読もうとしているのかによって、そこから読みとれることや受け止めることがまるで違ってくることを念頭に置いておきましょう。
 聖書の時代の主人と僕の関係は、現代の「権利と義務」に基づく雇用関係とは全く違っていました。ここで僕と訳されている言葉は元々「奴隷」、「召使い」とも訳される”δoμλοs”という言葉であり、僕の扱いについては今の時代の考えと全く異なっています。当時は、僕の全てが主人の手中にありました。僕は主人の財産の一部であり、商取引の対象になったり、借金の担保にもなりました。
 その一方で、旧約聖書創世記後半に記されているヨセフのように、兄弟たちに売り飛ばされ、奴隷として買い取られた身となりながらも、エジプト王の役人ポティファルのもとで、その家のこと一切の運営を任されるような例もありました。
 今日の聖書日課福音書で主イエスがお話になるこの僕は、主人に必要とされ、僕としてすべき仕事が与えられ、それをすることで主人に貢献し、そのようにできることはこの僕にとっても大きな喜びであったと想像できます。このような僕(しもべ)のことを、現代の「人権」という視点からではなく、当時の時代背景における「主人と僕」という視点で、主イエスの譬え話を考えると、主人に用いられ生かされる僕は厳しい労働を強いられているのではなく、僕は主人にその不満を抱いているのでもなく、むしろ主人に必要とされ、主人の求めに喜んで応える姿が浮かび上がってくるのです。
 僕が「わたしは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。」と言えるのは、そう言わねばならないから言うのではなく、自分の主人を信頼して主人の働きに与った喜びから言える言葉なのでしょう。
 今日の聖書日課福音書の箇所は、主イエスが弟子たちと一緒にエルサレムに向かって進んでいる中でのこと、しかもその一行をファリサイ派が監視する中でのことであり、その中で、先ず使徒たちが主イエスに「わたしたちの信仰を増してください」と言って頼んだことに主イエスが答えてお話になった部分であることを確認しておきましょう。
 使徒である者(つまり主イエスの宣教に働きを担う者)の信仰が増し加えられる事を考える上で、ヨハネによる福音書15章16節に大切な御言葉があります。
 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」
 私たちの周りの、多くの人にとって、「祈り」は多くの場合「願掛け」です。多くの日本人が、家内安全、商売繁盛、健康回復、交通安全、学問成就、厄除け、水子供養、そして今話題の反社会的団体が人の不安に取り入るために利用したのが先祖供養というように、自分の願掛けのためにはどの神社やお寺が良いのかを探します。そして、その人々にとっては、キリスト教もそのような意味での欲望を満たしてくれるのかどうかの対象となって、人は自分に都合の良い神をその時々に選んで、お参りしてお札やお守りを買って安心を得ようとします。そこに見られるのは、信仰とは程遠い様々な欲望を満たすことでありながら、そうとは思わぬ多くの人はそのような願掛けがいつの間にか信仰であるかのようにすり替わり、信仰とは宗教とはそのようなものであると思い込むのです。
 でも、主イエスは言われます。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。それに続けて主イエスは、「選ばれた者が出かけていって宣教の実を結びその実が残るようになるため」とも言っておられます。
 今日の聖書日課福音書の中で使徒たちが主イエスに求めている「信仰が増し加えられること」は、主イエスに願掛けをすることで可能になるのではなく、主イエスに選ばれている者であることを信じて、僕として主イエスに応えることによって得られるのです。主人に選ばれ主人の僕として生きようとするのであれば、その祈りも、主人の御心が実現しますようにという言葉になるでしょう。僕は主人の必要を満たすことに務めとし、その働きのために自分が選ばれていることを喜び、主人の命じる務めに喜ぶのです。
 その働きに与ることによって、僕である自分が生かされ、他ならぬ自分が生きる使命を全うすることにつながります。そのようにして主人の御心がこの世に実現していくための務めなのです。
 10節の「しなければならないことをしただけです」の「しなければならないこと」とは、直訳すれば「負債のあること」です。主の祈りの「私たちの罪(負債)をお赦しください。私たちも人を赦します。」という祈りに重なってきます。
 主人が負債(罪)のある私を赦してくださり、僕として選び出して、主人の大切な務めに与らせてくだいます。私たちはこうしてこの世に生かされていることを喜び、僕としての働きに務めることができます。私たちの主人である主イエスが私たちに求めていること(しなければならないこと)を、喜びをもって行うが故に、私たちは謙遜にその働きを担うことができます。そのことは、私たちが自分の力を頼みとしてすることでは生まれてこない言葉であり、主人である主イエスがその働きをさせてくださることを自覚し、主イエスによって遣わされた場に御心が現れ出るようにその器となって働く時に感謝と共に「当然のことをしたまでです」と言えるのです。
 もしこのような信仰の喜びと謙遜が無かったとしたら、たとえ教会という組織の中で営まれることであっても、その活動の意味はこの世の他のボランティアや慈善事業の活動と区別することはできなくなり、かえって他の人々を失望させたり躓かせたりすることになることを私たちはよくよく心に留めておきたいと思うのです。
 主イエスは信仰を増し加えられることを期待する弟子たちに「あなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば・・。」と言いました。主が私を選び、主が私を捕らえ、主が私を主の僕として用いてくださるという信仰があれば、私たちはその喜びと謙遜によって、その働きに与る中からその信仰は一層育まれるのです。初めは砂粒のように小さな信仰であったとしても、やがてはそのカラシナの枝に鳥が巣を作るほどになるのです。たとえからし種一粒ほどの信仰であっても、私たちが主に召し出された僕としての喜びと謙遜によって主の働きに与るなら、そこから私たちの信仰は育まれ、私たちの教会も本当に主の宣教の器として成長することが出来るのでしょう。
 今日の聖書日課福音書を通して、私たちは主イエスに召し出された者であることを自覚し、その信仰に基づいて、僕として主の働きに与る感謝を新たにすることができますように。
posted by 聖ルカ住人 at 15:08| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする