金持ちと貧しいラザロ ルカによる福音書16:19-31 聖霊降臨後第18主日(特定21) 2022.09.25
今日の聖書日課福音書は、主イエスがなさった「富める者と貧しいラザロ」の物語の箇所が取り上げられています。主イエスは、この物語によってファリサイ派の人々を厳しく批判しておられます。
私たちは、この「富める者と貧しいラザロ」の物語を、もう少し前の箇所からの脈絡を踏まえて理解し、導きを受けたいと思います。
今日の聖書日課福音書は、ルカ第16章19節からですが、ルカによる福音書第16章1節からの箇所には、先主日の聖書日課福音書であった「不正な管理人のたとえ」があります。その箇所は、理解しにくく誤解されやすい内容でしたが、その要点は、「この世の富を他の人のために用いて、自分の魂の救いを得なさい」という教えでした。
その例え話を聞いていたファリサイ派の人々が、それに続く第16章14節にあるように「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスを嘲笑った」のでした。ファリサイ派が主イエスを嘲笑ったのは、主イエスとファリサイ派の間で、この世の富に関する理解が全く違っていたからです。そこで主イエスは、ファリサイ派に対してこの「富める者と貧しラザロ」話をし、ファリサイ派のこの世の富に対する態度を厳しく批判したのでした。
主イエスはこうした脈絡の中でこの「金持ちと貧しいラザロ」の話をしておられることを踏まえて読んでみると、私にはルカによる福音書第16章全体で何を伝えようとしているのか、その中で、この「金持ちとラザロ」の話がどのような意味を持つのかが浮かび上がって来るように思えます。
金持ちは、いつも紫の衣服や柔らかい麻の衣を着て、贅沢に遊び暮らしていました。このような衣服は、当時の貴族や金持ちが身に付ける物でした。金持ちは、この衣服を身にまとい高価な料理を食べ、毎日贅沢に遊び暮らしていたのです。当時の食事は、フォークやスプーンを使わずに右手で食べ、その指をパンを手ふきナフキンの代わりとし、手を拭ったパンはそのまま捨てることが贅沢とされ、金持ちであることを示す行為でもあったと考えられています。そして、彼らは財産にも恵まれてそのような贅沢な生活が出来ることは神の祝福のしるしであると自惚れました。
一方、ラザロ(神は助けという意味)という貧しい者は、この金持ちの家の前で座り込み、この金持ちが手を拭いて投げ捨てるパンで飢えをしのいでいたのでしょう。ラザロは体中にイヤなできものがあり、その体は弱り果て、自分の体をなめる犬さえ追い払うことが出来ませんでした。犬は当時のユダヤ社会では汚れた動物であり、ラザロの体をなめる犬は、野良犬であったと考えられます。犬もきっと金持ちが指先を拭って投げ捨てるパンを食べにやってきていたのでしょう。金持ちにとってラザロはこのような野良犬同然であり、この野良犬の他にラザロに関心を向ける者はありませんでした。
やがて二人とも死にます。死んだ後、二人はどうなるのでしょう。
ラザロは神の国に迎えられ、生前には紫の服を着た金持ちであった者は陰府の苦しみの中でもだえています。ラザロのことについては22節で「この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」と記されています。アブラハムは、イスラエル民族の父祖であり、救いの約束を受けた神の民の父祖とされています。貧しかったラザロは何の業績にもよらず、いま、神の国に迎えられています。一方、贅沢に暮らした金持ちは死者の国の中で苦しむのです。
このラザロの物語の後半部分は、死後の世界が舞台です。主イエスは、その場のファリサイ派に向かって、あなたがたの人生を終わりの時から照らし返して、あなたがたは今の人生をどう生きているのかと厳しく問いかけておられるのではないでしょうか。
何故この金持ちは死者の国に落とされたのでしょう。この金持ちは何か悪いことをしたのでしょうか。この物語の中で、金持ちはラザロを追い払いもしませんし、意地悪をしたわけでもありません。
先ほども少し触れましたが、当時ファリサイ派は、金持ちであることは神に祝されたしるしであると考え、贅沢に暮らすことも神から祝福を受けた者の特権だと考えました。また、彼は貧しいラザロの体にイヤなでき物があるのはラザロ本人かラザロの先祖の罪の結果がラザロに表れていると考えました。このようないわば因果応報の考えは、当時のファリサイ派のごく当たり前の考えでした。
でも、金持ちが貧しいラザロの存在を知りながら、ただ紫の服を着て毎日贅沢に遊び回ることは、本当に神さまの御心なのでしょうか。神は、金持ちとラザロがいつまでもそのままの関係にいることをお望みなのでしょうか。
「愛」という言葉は、論理学の上では反対概念を持つ言葉ではありませんが、その意味を考えて「愛」の反対語は「恨み」や「憎しみ」であるより、「無関心」「無関係」という言葉の方が適切であるということはよく指摘されています。主イエスがお示しになった神の愛は、ルカ第15章にある「見失った羊」や「放蕩息子」の例えにもよく示されているように、どこまでも相手を思い、関わり続けることに表わされます。ファリサイ派の人々は、自分を高みに置き、貧しい人々を見下して関わろうとせず、律法に従って生きることの出来ない人々を罪人として排除しました。主イエスの目から見ると、貧しくされた人を少しも顧みないファリサイ派の形式主義的な生き方は、彼らがどれほどこの世の富をもとうと、愛とは正反対であったのです。
この金持ちが生前にラザロを虐げなかったにもかかわらず陰府で苦しむことになったのは、彼が目の前のラザロに関わらなかった事に因ります。神がこの金持ちに求めていたのは、自分が満ち足りてそれで良しとするのではなく、自分の目の前にいる貧しい者に仕え、その人に神の御心が現れ出るように関わることだったのではないでしょうか。主イエスは、愛とはそのような具体的な行為であることを伝えておられるのです。
先主日の福音書の中で、主イエスは「不正の富を用いて友達を作りなさい」と弟子たちに言っておられますが、ファリサイ派たちはこのイエスの言葉を嘲笑うのではなく、まさに彼らの目の前にいるラザロのような人々に対して、この世の富を用いて、神の愛を実践しなさいという言葉として受け止めねばならず、私たちもそのように受け止めたいのです。
貧しい人こそ救われなければならないと言うことは、ルカよる福音書の大きなテーマです。例えば、第6章20節で主イエスは「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」と言っておられ、更にそれに続けて「富んでいるあなたがたは、不幸だ。あなたがたはもう慰めを受けている(24節)」とも言っておられます。
貧しい人が貧しさのためにそのまま滅びることは神の御心ではありません。富む者が貧しい人に関心を持てばその富によって具体的に貧しい人を助け出すことが出来るかも知れません。それなのに、何もしないのは神の御心が行われないことは不幸であると主イエスは宣教のごく始めの頃に言われました。その不幸な姿が、今この貧しいラザロと金持ちの前にあるのです。
私たちはラザロの貧しさにもっと関心を持つべきです。その関心を持ってこの世界を見回してみると、神さまがお創りになって祝福して下さったはずのこの世界が今どんなに御心から離れてしまっているかに気づき、心が痛むはずです。世界の全ての人が神の祝福を等しく分け合って生きることへと促されるはずです。そして、信仰者であれば、主イエスの厳しい御言葉をどのように受け取めることができるか、自分自身の内なる世界の吟味にもつながるはずです。
ファリサイ派の人々は、このような教えを説く主イエスを拒否して、殺すことを考えました。その一方で、徴税人頭ザアカイのように、主イエスと出会い悔い改めて旧約聖書の律法以上の施しと償いをするように変えられる人も生まれてきます。主イエスを知った時、主イエスを自分の中にどう受け止めるかによって、その後の歩みの方向はまったく違ってくるのです。私たちは主イエスとすれ違うだけなのでしょうか、それとも本当に出会おうとするのでしょうか。私たちは天の喜びはがどこに生まれると考え、信じるのでしょう。
今、日本では、政治が金銭や物に対する貪欲によって動かされてきたことの破綻が目に見え始めました。そして、貧しい人々や弱くされている人々に対する関心はうすれ、貧富の差は広がっています。こうした時代の中に生きる私たちは今日の聖書日課から「あなたはラザロを愛するか」と厳しく問いかけられているのです。
更に先主日の福音書にまで遡って考えれば、「あなたはこの世の富を用いて神に対して負債のある者の友になろうとしているのか」と私たちは主イエスに問いかけられています。
物の豊かさの中に生きてきた私たちに向けられた主イエスの御言葉を心に深く受け止め、今の世界の有様にもしっかりと目を向け、主イエスに導かれて、神の愛と力を増し加えていただけるよう祈り求めて参りましょう。
私たちは、この「富める者と貧しいラザロ」の物語を、もう少し前の箇所からの脈絡を踏まえて理解し、導きを受けたいと思います。
今日の聖書日課福音書は、ルカ第16章19節からですが、ルカによる福音書第16章1節からの箇所には、先主日の聖書日課福音書であった「不正な管理人のたとえ」があります。その箇所は、理解しにくく誤解されやすい内容でしたが、その要点は、「この世の富を他の人のために用いて、自分の魂の救いを得なさい」という教えでした。
その例え話を聞いていたファリサイ派の人々が、それに続く第16章14節にあるように「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスを嘲笑った」のでした。ファリサイ派が主イエスを嘲笑ったのは、主イエスとファリサイ派の間で、この世の富に関する理解が全く違っていたからです。そこで主イエスは、ファリサイ派に対してこの「富める者と貧しラザロ」話をし、ファリサイ派のこの世の富に対する態度を厳しく批判したのでした。
主イエスはこうした脈絡の中でこの「金持ちと貧しいラザロ」の話をしておられることを踏まえて読んでみると、私にはルカによる福音書第16章全体で何を伝えようとしているのか、その中で、この「金持ちとラザロ」の話がどのような意味を持つのかが浮かび上がって来るように思えます。
金持ちは、いつも紫の衣服や柔らかい麻の衣を着て、贅沢に遊び暮らしていました。このような衣服は、当時の貴族や金持ちが身に付ける物でした。金持ちは、この衣服を身にまとい高価な料理を食べ、毎日贅沢に遊び暮らしていたのです。当時の食事は、フォークやスプーンを使わずに右手で食べ、その指をパンを手ふきナフキンの代わりとし、手を拭ったパンはそのまま捨てることが贅沢とされ、金持ちであることを示す行為でもあったと考えられています。そして、彼らは財産にも恵まれてそのような贅沢な生活が出来ることは神の祝福のしるしであると自惚れました。
一方、ラザロ(神は助けという意味)という貧しい者は、この金持ちの家の前で座り込み、この金持ちが手を拭いて投げ捨てるパンで飢えをしのいでいたのでしょう。ラザロは体中にイヤなできものがあり、その体は弱り果て、自分の体をなめる犬さえ追い払うことが出来ませんでした。犬は当時のユダヤ社会では汚れた動物であり、ラザロの体をなめる犬は、野良犬であったと考えられます。犬もきっと金持ちが指先を拭って投げ捨てるパンを食べにやってきていたのでしょう。金持ちにとってラザロはこのような野良犬同然であり、この野良犬の他にラザロに関心を向ける者はありませんでした。
やがて二人とも死にます。死んだ後、二人はどうなるのでしょう。
ラザロは神の国に迎えられ、生前には紫の服を着た金持ちであった者は陰府の苦しみの中でもだえています。ラザロのことについては22節で「この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」と記されています。アブラハムは、イスラエル民族の父祖であり、救いの約束を受けた神の民の父祖とされています。貧しかったラザロは何の業績にもよらず、いま、神の国に迎えられています。一方、贅沢に暮らした金持ちは死者の国の中で苦しむのです。
このラザロの物語の後半部分は、死後の世界が舞台です。主イエスは、その場のファリサイ派に向かって、あなたがたの人生を終わりの時から照らし返して、あなたがたは今の人生をどう生きているのかと厳しく問いかけておられるのではないでしょうか。
何故この金持ちは死者の国に落とされたのでしょう。この金持ちは何か悪いことをしたのでしょうか。この物語の中で、金持ちはラザロを追い払いもしませんし、意地悪をしたわけでもありません。
先ほども少し触れましたが、当時ファリサイ派は、金持ちであることは神に祝されたしるしであると考え、贅沢に暮らすことも神から祝福を受けた者の特権だと考えました。また、彼は貧しいラザロの体にイヤなでき物があるのはラザロ本人かラザロの先祖の罪の結果がラザロに表れていると考えました。このようないわば因果応報の考えは、当時のファリサイ派のごく当たり前の考えでした。
でも、金持ちが貧しいラザロの存在を知りながら、ただ紫の服を着て毎日贅沢に遊び回ることは、本当に神さまの御心なのでしょうか。神は、金持ちとラザロがいつまでもそのままの関係にいることをお望みなのでしょうか。
「愛」という言葉は、論理学の上では反対概念を持つ言葉ではありませんが、その意味を考えて「愛」の反対語は「恨み」や「憎しみ」であるより、「無関心」「無関係」という言葉の方が適切であるということはよく指摘されています。主イエスがお示しになった神の愛は、ルカ第15章にある「見失った羊」や「放蕩息子」の例えにもよく示されているように、どこまでも相手を思い、関わり続けることに表わされます。ファリサイ派の人々は、自分を高みに置き、貧しい人々を見下して関わろうとせず、律法に従って生きることの出来ない人々を罪人として排除しました。主イエスの目から見ると、貧しくされた人を少しも顧みないファリサイ派の形式主義的な生き方は、彼らがどれほどこの世の富をもとうと、愛とは正反対であったのです。
この金持ちが生前にラザロを虐げなかったにもかかわらず陰府で苦しむことになったのは、彼が目の前のラザロに関わらなかった事に因ります。神がこの金持ちに求めていたのは、自分が満ち足りてそれで良しとするのではなく、自分の目の前にいる貧しい者に仕え、その人に神の御心が現れ出るように関わることだったのではないでしょうか。主イエスは、愛とはそのような具体的な行為であることを伝えておられるのです。
先主日の福音書の中で、主イエスは「不正の富を用いて友達を作りなさい」と弟子たちに言っておられますが、ファリサイ派たちはこのイエスの言葉を嘲笑うのではなく、まさに彼らの目の前にいるラザロのような人々に対して、この世の富を用いて、神の愛を実践しなさいという言葉として受け止めねばならず、私たちもそのように受け止めたいのです。
貧しい人こそ救われなければならないと言うことは、ルカよる福音書の大きなテーマです。例えば、第6章20節で主イエスは「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」と言っておられ、更にそれに続けて「富んでいるあなたがたは、不幸だ。あなたがたはもう慰めを受けている(24節)」とも言っておられます。
貧しい人が貧しさのためにそのまま滅びることは神の御心ではありません。富む者が貧しい人に関心を持てばその富によって具体的に貧しい人を助け出すことが出来るかも知れません。それなのに、何もしないのは神の御心が行われないことは不幸であると主イエスは宣教のごく始めの頃に言われました。その不幸な姿が、今この貧しいラザロと金持ちの前にあるのです。
私たちはラザロの貧しさにもっと関心を持つべきです。その関心を持ってこの世界を見回してみると、神さまがお創りになって祝福して下さったはずのこの世界が今どんなに御心から離れてしまっているかに気づき、心が痛むはずです。世界の全ての人が神の祝福を等しく分け合って生きることへと促されるはずです。そして、信仰者であれば、主イエスの厳しい御言葉をどのように受け取めることができるか、自分自身の内なる世界の吟味にもつながるはずです。
ファリサイ派の人々は、このような教えを説く主イエスを拒否して、殺すことを考えました。その一方で、徴税人頭ザアカイのように、主イエスと出会い悔い改めて旧約聖書の律法以上の施しと償いをするように変えられる人も生まれてきます。主イエスを知った時、主イエスを自分の中にどう受け止めるかによって、その後の歩みの方向はまったく違ってくるのです。私たちは主イエスとすれ違うだけなのでしょうか、それとも本当に出会おうとするのでしょうか。私たちは天の喜びはがどこに生まれると考え、信じるのでしょう。
今、日本では、政治が金銭や物に対する貪欲によって動かされてきたことの破綻が目に見え始めました。そして、貧しい人々や弱くされている人々に対する関心はうすれ、貧富の差は広がっています。こうした時代の中に生きる私たちは今日の聖書日課から「あなたはラザロを愛するか」と厳しく問いかけられているのです。
更に先主日の福音書にまで遡って考えれば、「あなたはこの世の富を用いて神に対して負債のある者の友になろうとしているのか」と私たちは主イエスに問いかけられています。
物の豊かさの中に生きてきた私たちに向けられた主イエスの御言葉を心に深く受け止め、今の世界の有様にもしっかりと目を向け、主イエスに導かれて、神の愛と力を増し加えていただけるよう祈り求めて参りましょう。