2022年08月28日

末座に着く ルカによる福音書14:7-14 聖霊降臨後第12主日(特定17)    

末座に着く     ルカによる福音書14:7-14        聖霊降臨後第12主日(特定17)    2022.08.27


 主イエスは沢山の譬え話をなさっていますが、その多くは神の国に関するものです。今日の福音書日課の中でも、主イエスは譬えによって神さまの支配する国はどのよう姿であるのかを説いておれるます。
 今日の福音書日課の個所で、主イエスが話をしているのは、「ある安息日」のことであり、場所は「あるファリサイ派の議員の家」です。
 主イエスは既に公にファリサイ派や律法の専門家を厳しい言葉で非難しておられますし、ファリサイ派はこの町に来られた主イエスに「ここを立ち去ってください」と言っています。この場面で、主イエスはこの「ファリサイ派の議員の家」に親しい交わりに招かれたのではなく、ユダヤ議会の議員であるこの人が、主イエスを取り調べて批判し、主イエスと弟子たちの一行がエルサレムに上っていくことを止めさせる意図があったと思われます。
 主イエスは、そのような人びとに向かって、婚礼の祝宴に招待された時に自分は上座に着くのに相応しいと自惚れる者は恥をかいて末座に着くことになり、末座に座る人は上席に座るようにすすめられて面目をほどこすことになる、と言っておられます。
 ここで主イエスが教えておられるのは、この世の処世術や社交上のエチケットではありませんし、謙遜の勧めでもありません。そうではなく、私たちはこの御言葉によって主イエスから「あなたは自分をどこに座る者だと思っているのか」と厳しく問いかけられているのであり、また主イエスご自身がそうなさったように私たちも主イエスに伴われて末座に生きるよう、つまり神と人々に仕えて生きるように勧められているのです。
 先ほども触れたように、ルカ14章1節を見てみると、「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった」と記されています。主イエスの周りには、幾人かの律法の専門家やファリサイ派の人々がイエスを取り囲むようにしていたことでしょう。
 今日の聖書日課福音書の例え話で主イエスが例えておられるとおり、ファリサイ派の人々は自分たちこそ神の喜びの宴に招かれるのに相応しい者、宴席では自分たちが上座に着くのに相応しいと考えていました。
 その一方で、この世の中には、ファイリサイ派のように律法をしっかりと守りながら生活することが出来ない人たちも大勢います。例えば、当時の病人は、「悪霊に取り憑かれた者」とみなされたり「罪の結果が身に表れている者」と考えらていました。ユダヤ教の指導者たちは、イスラエル民族の救いを説き、病の者や律法に反する者を批判し、異国人、そしてその異国人を相手にして外国の貨幣を扱う徴税人たちも救いの外にいる者として扱いました。
 このような人々は、ファリサイ派の人から汚れた者として軽蔑され、時には罵られ、抑圧されています。ファイリサイ派の人々は自分たちが彼らを傷付けている事についての自覚や痛みを覚えることもなく、「我々は彼らとは違って神の約束した救いに与るように選ばれている」と考えていました。そして神殿の中で「神よ、あのような者でないことを感謝します」と祈りました。
 主イエスはこうした人々のことを「上座に着く者」と表現なさったのです。
 主イエスには、ユダヤ教の指導者たちが教える神の国は主なる神の御心とは全く違うものに思われたのでしょう。また、神による救いとは本当に当時の指導者たちが考えたようなものとは思えず、神の国はファリサイ派や律法学者が教えるようなことによって実現するのではないと思えたことでしょう。
 今日の主イエスの譬え話は、律法の専門家やファリサイ派にとってはとても厳しい問いかけになり、彼らを揺さぶります。主イエスの教えに拠れば、神の国で上席に着くのは律法の文言を字句通りに守る事で与えられるのではありませんし、救いは貧しく弱くされた人々を切り捨てて得られるのでもありません。そうではなく、自分も低く貧しくなりそこから見えてくる神の御心に導かれるように主イエスは教えておられるのです。
 このことは、旧約聖書の律法に対する態度のことだけに留まらず、私たちの信仰生活の在り方についても同じ事が言えるのではないでしょうか。
 もし私たちも、自分を信仰深い者として、その自分を自身を誇り、そうではない人を顧みずに切り捨てるのであれば、ファリサイ派と同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。私たちも救いの宴の上席にいつの間にかあぐらをかく事のないように、今日の福音書日課の御言葉によって主イエスに導かれたいと思うのです。
 主イエスに生かされるということは、主イエスによって自分の心の底まで照らし出され、そのような隠し立ての無い本当の自分が全て主イエスによって赦され受け入れられ肯定されていると信じて生きることです。私たちにとって大切なことは、聖書の言葉を形だけ取り入れることではありません。私たちが主イエスに導かれて、身を低くして神と人々に仕える者となって、そこから見えてくる貧しさや小ささの中にある苦しみや痛みをも背負うことが必要になってきます。そして、完璧にはそのようにできない私たちのことをも主イエスはなお赦し、愛し抜いてくださり共に生きてくださいます。私たちがその主イエスを受け入れることができる時、私たちは主の食卓に招かれていることを喜びとし、その宴の末座におかれている事を感謝できるのです。
 主イエスは他の個所でこう言っておられます。
 「人の子が来たのも仕えられるためではなく仕えるためであり、また、多くの人の贖いとして自分の命を与えるためである。」
 主イエスは、ご自身を十字架の上に曝してまでこの世界と私たちを愛して仕えることに徹して下さいました。そこに示された完全な愛に照らされることを通して、私たちは信仰者としての自分をもう一度立たせられ、仕える働きをする者の末席に加えられるのです。
 パウロは、フィリピ書2章6-7節で、主イエスの謙遜について、次のように記しています。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」
 更にパウロは、キリストはへりくだって死に至るまで神の御心に従順であり、神はこのキリスト・イエスを高く挙げられた、と続けています。
 このパウロの視点から、今日の聖書日課福音書をあらためて見直してみると、宴席の一番末座に着いて一番の上席にまで引き上げられたのが主イエスご自身である事がはっきりしてきます。私たちは本来なら、主イエスによって催されるこの感謝の祝宴の末座にも与ることさえ出来なかった者です。そのような私たちのことも、主イエスは招いてくださいました。たとえ私たちには特別な業績がなくても、胸の内には多くの失敗やその後悔を抱えていたとしても、主イエスの十字架を「我が罪のため」と認める人を神は誰でも喜びの宴にお招きくださり、その主宰者である主イエスが私たちに仕えてくださいます。この宴には社会からはじき出された徴税人や罪人も、重い病気の人たちも招かれています。しかも、本来招かれるはずなどなかった者でもお招き下さった方の愛を信じて受け入れる人は上座へと招かれるのです。
 主イエスは、十字架の死によって黄泉に降った力をもって私たちの所へ降りてきて下さり、甦りの力をもって私たちを御国の宴へと引き上げて下さいます。
 主イエスが主宰してくださるこの聖餐式は、天の国の宴を先取りして表すものであり、私たちはその愛の宴への招きをいただきました。他ならぬ自分にも及んでいる神の愛の深さによって私たちはその宴の席に受け容れられていることを喜び合い、神と人々の交わりの中に生かされています。私たちは、主イエスを通して招かれ、この宴の一員となる喜びを確かに致しましょう。
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2022年08月22日

狭い戸口   ルカによる福音書13:22-30   聖霊降臨後第11主日(特定16)

狭い戸口より ルカによる福音書13:22-30   聖霊降臨後第11主日(特定16)  2022.08.21                    

 はじめに、今日の聖書日課の福音書から、ルカによる福音書13章24節の御言葉をもう一度読んでみましょう。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」
 ここで主イエスさまが言っておられる「狭い戸口」ということについて考えてみましょう。聖書新共同訳で「狭い戸口」と訳されている言葉は、他の訳によれば「狭い門」という言葉も用いられています。この言葉は、今の日本では、主イエスさまが用いた意味で用いられることは殆ど無く、例えば入試シーズンに「某大学は、志願者が募集定員の10倍を超える狭き門となっています。」などと言う用い方がされています。この用い方での「狭い門」という言葉の意味は、希望者は沢山いるけれどもその念願が叶う人は少ないということです。でも主イエスさまが「狭い門(狭い戸口)」と言っておられるのはそのような意味ではありません。
 聖書の中にある他の個所にも「門(戸口)」という言葉が出てきますが、主イエスさまがご自身を「わたしは門である」と言っておられる個所を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。ヨハネによる福音書10章9節で主イエスさまはこう言っておられます。
 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」
 今日の福音書の中で「戸口」と訳されている言葉やヨハネによる福音書の中で主イエスが「わたしは門である」と言っておられる「門」という言葉は、どちらも同じ”θμρα”という言葉が用いられています。主イエスが「狭い戸口より入るように努めなさい」と言っておられたり「わたしは門である(羊の門である)」と言っておられることを考え合わせてみると、この言葉は、多くの日本人が用いている「狭き門」とは、全く違う意味であることことが分かってくるのです。
 主イエスがこの箇所で言っておられる「門」は、多くの人にとっては見つけにくくまたそこに救いがあるとは分かり難い門のようです。もしその門の先に誰にでも分かるように実際的な利益が約束されているなら、人々は先を争ってその門から入ろうとして、その結果、その実際的な利益を得られる確率は低くなるでしょう。でも、主イエスの言っておられる「狭い戸口」とはそのような意味のことではありません。
 今日の福音書の個所の前後関係をみてみると、主イエスのこの言葉は、ある人が「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねたことに答えている中での御言葉です。このように「救われる人は少ないのか」と問う人は、この言葉がどのような背景から出てくるのでしょう。きっと主イエスが十字架の上に御自分の命を投げ出すほどにして示してくださった救いを自分に与えられた恵みとして受け入れる人が如何に少ないのかを感じている人であろうと想像できます。
 でも、主イエスの御言葉と御業を受け入れる人が沢山いるからそれが真理なのではないし、また逆に主イエスが世の人々に受け入れられなかったとしたらそこに真理はないのかと言えばそれも違います。私たちも、自分の信仰を持つようになったのは、主イエスの御言葉と行いが他ならぬ自分にとってそれが救いであり導きであると信じたからではないでしょうか。他の大勢の人が信じているからそこに真理があるのではなく、多くの人が見過ごたり見向きもしないことさえある主イエスの中にこそ救いに至る道があると、今日の福音書は伝えているのです。
 キリスト教が歴史を越えて真理を示し続けてきたのは、主イエスの教えや行いがはじめから多くの人に受け入れらて支持されて来たからではありませんでした。主イエスご自身がユダヤ教の指導者たちに迫害されて十字架刑に処せられたとおり、キリスト教の歴史はその母体であったユダヤ教によって迫害され弾圧されることから始まりました。そこに救いに至る門があると気づき、信じた人はごく僅かでした。
 その当時、人びとはローマ皇帝を神として礼拝の対象としていました。その中で、主イエスを救い主とする人びとは、ギリシャ・ローマ世界を中心に約三百年にわたってイエスを救い主であると告白する人を迫害し、「体制に順応することを拒む者」という烙印を押されたのでした。それでも少しずつ受け入れられ、キリスト者はその数を増し、支持されるようになっていったのです。その当時の信仰者が主イエスの「狭い戸口から入るように努めなさい」という御言葉をどのような思いで受け止めていたのか思い巡らせてみましょう。
 やがてキリスト教は、紀元313年にローマ皇帝によって容認され、紀元393年にはローマの国教となりました。それは、ローマ皇帝の支配下にある者は自分の信仰をしっかりと吟味すること無しにキリスト者であるようにされていったのです。それは当時のキリスト教がある意味での勝利を得たことではありましたが、私たちは当時の信仰者がどのような思いで「狭い戸口から入るように努めなさい」という御言葉を受け止めていたのかについても思い巡らせてみる必要があるでしょう。私たちは迫害下のキリスト教と国教となったキリスト教の対比によって、厳しく辛い状況の中で人びとに救いを与える門である主イエスのお姿をはっきりと理解することが出来るようになるのではないでしょうか。
 今日の福音書は、主イエスがエルサレムに向かって進んでおられる文脈に位置付けられています。エルサレムはイスラエルの民の一番の中心地です。このエルサレムの神殿には当時の政治的・宗教的な権力者、指導者がいました。また彼らの傘下には大勢の学者も祭司たちもいました。彼らは「自分こそ救われている」「自分たちこそ神に選ばれた者」として自分を誇っていました。そして、「あなたは清められている」「あなたは罪を償うための供え物を献げなさい」と、あたかも神の代理者のように人々を支配していました。このような人々は、神の名を持ち出しては自分を救われる者の側に置いて、弱い立場の人や貧しい人々を裁き、弱く貧しい人々の悲しみや痛みなどには、指一本貸そうとしませんでした。ユダヤ教指導者たちのこのような態度にも明らかなように、人は、先ず自分が助かる事や自分が誰よりも幸福になることや自分が真っ先に癒されることを考えます。そして自分のことしか考えられない結果、他の人を出し抜いたり、だましたり、操作したりすることが始まるのです。そのような世界は、たとえどれほど聖書の言葉が使われ神の掟が守られているようであったとしても、神に愛され生かされている喜びがありません。そして主イエスによって示されている狭い戸口を閉ざしてしまうのです。
 主イエスはご自身を神の国への戸口としてお示しになり、この狭い戸口から入るように「努めなさい」と言われます。ここで用いられている「努める」という言葉は、スポーツ選手が勝利を得るために自分自身を鍛える努力を意味する言葉です。そうであれば、狭い戸口から入るための努力は、主イエスを深く知り主イエスに従っていくために自分自身を主イエスに方向付ける努力だと言うことになります。そして他の人を押し退けたり蹴落としたりした結果の勝者がこの狭い戸口を通れるのではなく、信仰による祈りと賛美のうちにこの戸口を通る事へと導かれることが分かるのです。
 聖書を通して主イエスの御心を学び、主イエスの心に触れ、祈りと賛美を通して私たちも御国へと導かれる恵みを戴くことへと歩んでまいりましょう。
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2022年08月15日

終戦記念日に当たり 2022年8月15日

2022年8月15日
終戦記念日に当たり 脇芽のヒマワリの花のことなど
 終戦記念日です。今年は、昨日まで4つの主日の礼拝祭壇花として、庭に咲いたヒマワリを用いることが出来ました。
 初夏の頃、数種混合の種を蒔いたのですが、その中から育った数本は脇芽が良く出る種類で、主幹のてっぺんだけでなく、脇芽から、またその脇芽からと、例えて言えば子どもヒマワリ、孫ヒマワリ、ひ孫ヒマワリが咲きました。花はそろそろ終わりなのですが、玄孫ヒマワリまでは頑張ってくれることを期待しています。
 今もロシア軍のウクライナ侵攻が続いており、両国の兵士やウクライナ民間人の沢山の尊い命が奪われています。かつてウクライナを舞台にした「ひまわり」という映画を観ました。その時の気持ちが今年の夏のヒマワリを見る思いと重なってきます。
 ヒマワリや麦を与えてくれる豊かな大地が人間の愚かさの故に損なわれています。
 ウクライナで沢山のヒマワリが平和の証しとして咲く日を思い、祈ります。

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イエスの投じる火  ルカによる福音書12:49-56

イエスの投じる火  ルカによる福音書12:49-56  聖霊降臨後第10主日(特定15)  2022.8.14
 
 今、私たちは今日の聖書日課福音書から次のような御言葉を聴きました。
 ルカによる福音書第12章49節の言葉です。
 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。」
 また12章51節には次のような言葉がありました。
 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たの思うのか。そうではない。言っておくがむしろ分裂だ。」
 私たちは、聖書の中にこのようなことばがあるのを知ると、心が揺さぶられる思いになります。とりわけ日本人は、相手を配慮して自分の意見をはっきり言わないことが美徳とされ、そのことを前提にして平穏無事を保ってきた一面があります。そのような私たちが、今思い起こした御言葉に出会うと、ある種の抵抗を覚える人も多いのではないでしょうか。
 でも、もし私たちが維持しようとする平穏無事の奥に不平や不満があったり、苦しんでいる人がいるとすれば、その表面的な平穏無事は決して健康な状況であるとは言えないでしょう。
 主イエスの御言葉は表面的な平穏無事を保つ働きをするのではなく、むしろそこにある矛盾や問題をえぐり出すように働きかけてくるのではないでしょうか。その意味で、主イエスの御言葉は私たちに火を投げ込み、見せかけの平穏無事の奥にある分裂をえぐり出してその問題点をはっきりさせる働きをすることを、私たちは今日の福音書の御言葉から学びたいと思うのです。
 いつの時代にも正義と平和や人権について語ることやその実現に努める人のことを歓迎するのかと言えば、必ずしもそうではありません。この世界の歴史を振り返ってみれば分かるとおり、人種差別の撤廃や不平等の解消に努めた多くの人が権力者から命を奪われてきました。旧約聖書の多くの預言者たちや福音書に描かれた洗礼者ヨハネもそのような弾圧を受けた人であり、主イエスもその例外ではありませんでした。
 主イエスは当時のイスラエルの状況の中で、愛を説き、身をもって愛を示してお働きになりましたが、それを嫌ったユダヤ教指導者たちの弾圧を受け、エルサレムでリンチ同然に十字架刑によって殺されたのでした。ユダヤ教の指導者たちは、神殿での宗教的な権力を握っていただけではなく、政治的にも経済的にも自分たちの利益を守り保身を計っていました。その権力に逆らう者や反対する者は迫害され抑圧され、またその枠からはじき出された人びとは少しも顧みられずに、当時の世界から捨てられていったのです。聖書の中では、特に徴税人や罪人たち、重い皮膚病を患った人びと、遊女や羊飼いなどはユダヤ教指導者たちから嫌われ、指導者たちはそのような人びとをユダヤ教社会の一致と団結を乱す落ちこぼれ者として扱っていたのでした。
 主イエスはこのようなユダヤ社会の中で、神の愛を説き、またご自身も罪人の一人に数えられるほどになりながら、貧しくされた人々の人間性の回復に努めました。その教えと行いは、まさに当時の社会に「火を投げ込む」働きであり、当時の人々の間に「分裂をもたらす」ことになったのです。
 主イエスは、神の救いは貧しく弱い人にこそ用意されており、今飢え乾き泣いている人びとこそ神の救いを受けるべき幸いな人であると教えました。そのように説き、貧しく弱くされた人びとに関わる主イエスの愛は、愛無き人びとにとっては火を投じられることになり、本物の愛と贋物の愛を選り分ける鋭い剣になります。主イエスのお働きが小さな人びとに受け入れられ彼らが本当の自分を取り戻して生きるようになればなるほど、主イエスの言葉と行いは権力者たちにとって厳しく挑戦的になります。そして主イエスはその動きを押さえ込もうとする権力者によって迫害されることになっていきました。不正がはびこる世界では、神の正しさを示そうとすればするほど、不正な者は自分に迫ってくる正義を潰そうとするのです。
 ですから、私たちは表面上の平穏無事がどんな力によってもたらされているのか、そしてその場にいる人びとがどんな感情やムードに支配されているのかについて、賢く見極めていかなくてはなりません。そして主イエスの火を投じていただき、見かけ倒しの平和や繁栄を見直し、私たちは本当の神の御心と結びついた世界に生きることが出来るように生まれ変わっていかなくてはなりません。
 私たちは、主イエスによって導かれて生きています。私たちは日々の生活の中で、主イエスの御言葉を聴き、主イエスの御体と血による養いを受けるのです。そのような私たちは、今日の御言葉をどのように迎えるのでしょうか。その場その場を波風立てないように、あるいは聞かなかったことにして、やり過ごして生きるのでしょうか。他の人との意見やその表現の違いを明確にすることを避けて、信仰に基づいて生きる自分を押さえ込んで、いつの間にか信仰さえ風化させてしまうことが無いようにしなければなりません。
 主イエスの御言葉は愛に基づくものであり、その御言葉は時には私たちを慰め励まし力付けてくださいます。しかし同じ御言葉が私たちに火となって投げ込まれ、分裂をもたらす働きもすることも、私たちはよく知っておかなくてはなりません。
 主イエスが「火を投げ込む」「分裂をもたらす」と言っておられるのは、ただ破壊的なことをすることではありません。主イエスによってこの世界に火が投げ込まれたり分裂がもたらされるとすれば、この世界に本当の愛と平和に抵抗して自分にだけ利益をもたらし自分だけがよい思いをすれば良いという罪が未だに根強く存在するからなのではないでしょうか。
 私たちも、主イエスの御言葉に導かれ養われて、愛と平和の働きを担おうとすれば、私たちの働きが時には火を投じたり対立や分裂を明らかにするきっかけになったりすることもあるかもしれません。しかし、それを恐れてその場を凌ごうとするだけであれば、神の御国は遠のいてしまいます。神の愛は、この世界に御心を行おうとする私たちにも火となって働き、神の御心の実現のために私たちを力付け、私たちをこの世界に派遣してくださいます。
 私たちが、互いに理解し合い、意見の違いや対立の先にある解決方法を求めるなら、神は私たちの思いを越えた道を用意して下さるでしょう。
 主イエスが投げ込む火は、決して単なる破壊のための火ではありません。それは十字架の愛に根ざした火であり、不義や罪を照らし出してそれを燃やし尽くして働きます。その火がこの世の付和雷同の一体感を焼いて、主の愛にもとづく深い一致と調和へと導かれるのです。
 私たちが主イエスのお働きを担おうとすれば、それに伴う苦難を負うことも増え、場合によっては迫害を受けることさえあるかもしれません。主なる神の御心を行う器となって真剣に生きることは、かえって辛く苦しい思いを自分に呼び込むことにもなるでしょう。
 しかし、今日の使徒書ヘブライ人への手紙によれば、そのような働きは主のなさる鍛錬なのです。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆鞭打たれる」と記しています。もし私たちが神の本当の子であれば、本当の父である神は私たちを鍛錬し、この世に御心を示す働き手として育ててくださいます。
 ヘブライ人への手紙代12章10節にはこう記されています。「霊の父は、わたしたちの益となるように、御自分の神性にあずからせる目的で、わたしたちを鍛えられるのです。」
 主イエスは「火を投げ込む」と言われました。それも私たちにとっては「鍛錬」かもしれません。私たちは、その火によって罪や悪があぶりだされて、その先に本当の平和と愛へと導かれます。私たちはその中で主なる神に鍛えられる過程を主に導かれながら歩んでいます。
 特に8月の今の時期は、第二次世界大戦の終戦を覚え、平和への思いを新たにする時です。私たちは、主イエスから真理と愛の火を投げ込まれることについて、特別に大切な意味があることを覚えたいと思います。主イエスの投げ込んでくださる火によって私たちの罪が焼き尽くされ、一人ひとりの信仰がなお鍛錬され生かされることへと導かれて参りましょう。
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2022年08月07日

目を覚ましている僕  ルカによる福音書12:32-40   聖霊降臨後第10主日(特定14)  2022.08.07

目を覚ましている僕 ルカによる福音書12:32-40   聖霊降臨後第10主日(特定14)  2022.08.07
 
 今日の聖書日課福音書の、特に後半では、目を覚ましていて用意をしている僕のことがテーマになっています。
 ルカによる福音書第12章37,38節には「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」という言葉があります。ここで用いられている「目を覚ましている」という言葉の原語(グレーゴレオー)は、「覚醒している」「油断せず注意を払う」という意味であり、主なる神の御心を、或いは主イエスのことをいつも意識していることを意味していると言えるでしょう。主イエスが、いつも私たちと共にいてくださり、御心に沿った生き方へと導いていてくださっていることを忘れず、自分に与えられている目の前の課題に、主なる神の願っておられる姿が現れ出るように、お応えしながら生きることを心がけていることが「目を覚ましている」ことです。
 わたしたち日本人は、しばしば「真理より場の倫理」に支配されていると指摘されています。それは、本当に正しいことに照らして絶えず真理に導かれて神の願う姿を表そうとするより、自分の置かれたその場その場に自分を合わせて、目先の場が波風が立たないように、丸く収める態度であり、この態度は時に善悪の判断を失い、その場その場のご都合主義を生み出し、人を無責任にします。そのような態度は、何が本当に大切なのかを曖昧にして真理に目を背け、いつの間にか大きな悪の力に縛られていることにも繋がることさえ自覚できなくなってしまう可能性もあるのです。
 例えば近代の日本に於いても、一億玉砕とか一億総懺悔などという言葉が用いられて、何が本質的な問題なのかを振り返らずに、「みんながそうなのだから形を揃えておけば安心」というような態度で事態をやり過ごそうとした歴史的経験があります。そして、気が付けばまた同じ轍を踏むような道を歩いているのに、その危機感も持たないようになり、それは裏を返せば、一億総無責任的な体質を造り上げてきているように思います。
 主イエスは、ヨハネによる福音書第8章32節で「真理はあなたたちを自由にする」と言われました。私たちは、今日の福音書を通して、主の御言葉に向かっていつも目を覚まし、本当の自由であることの大切さを学ぶことが求められています。ことに私たちの生きている時代は、主イエスが真理とは何かを十字架の死と復活によって示して下さった後の時代、つまり新約の時代です。主イエスは、天に昇って行かれる時に、もう一度この世に来ることを約束してくださいました。主イエスがもう一度この世に来て下さる時に、私たちは主イエスと共に天に用意されている食卓を囲むことが約束されているのです。
 私たちが主イエスをお迎えするときに、本来であれば私たちは主イエスに自分の主人として迎えてお仕えしなければならないはずです。しかし、37節にあるとおり、私たちの主人である主イエスは自ら帯を締めて給仕役となり、僕である私たちを席に着かせてもてなしてくださるというのです。
 主イエスは、私たち小さな群れに、恐れることなく、油断せず生きるように教えておられます。私たちは、目を覚まして、神の御心を求め、神の御心を自分の中心に据えて生きることを絶えず思い起こしていたいと思います。
 主イエスがこの世の生涯をお過ごしになった頃、イスラエルは救い主(メシア)の訪れを待ち望んでいました。
 指導者たちは、律法の言葉通りに生きることでメシアに受け容れられると考えていました。あたかも救いは自分の手の内にあるかのように振る舞い、律法を守ることの出来ない人々を蔑み、その人々は救いに与ることの出来ない「地の民」であるとレッテルを貼りました。そして、指導者層の人々は目を覚まして熱心に祈り求めることを怠り、やがて形式的に律法の文言を守ることに拘るようになりました。その人々の意識は権力を求めたり金銭を増やすことばかりを求めることへと移りはじめ、次第にそのために他人を利用し、支配して、そのやり方はやがて横暴を極めるほどになっていきます。やがてそのような世界に主イエスはそっと来られて、貧しく弱く小さな人びとと共に生きて、癒し、慰め、生きる力をお与えになる働きを始めたのでした。主イエスは、貧しい人や弱く小さくされた人びとの中におられ、権力者や裕福な人びとに小さな人々に仕えるように促します。しかし、権力者たちはそのイエスを嫌い、煩わしく思い、しかもそれが救い主(メシア)だとは気付かないまま、主イエスを神に逆らう者であるとして、処刑してしまうのです。
 四福音書には、人が神に対して目を覚ましていられなくなった時に、救い主イエスを十字架に追いやる罪の有様が表現されています。
 この話は決して他人事ではなく、私たち皆が真理に目を覚まし、我が事として受け止めなければならない問題です。私たちは、今日の聖書日課福音書から、毎日の生活が信仰に根ざして目を覚まし、神の御心に応えようとしているかどうかを問い返すための促しを受けているのです。
 特に今日の福音書の個所で私たちが注目したいのは、37節の内容です。
 37節で主イエスは、「主人か帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めてこの僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」と言っておられます。
 先ほども触れましたが、目を覚ましている人たちに迎え入れられた主人はどうするのかに着目してみましょう。主人であれば、自分が戻ってくれば、僕たちに足を洗わせたり食事の支度をさせたり、また給仕をさせて当然なのです。ところが、この主人は自ら帯を締めて、つまり働くために裾をたくし上げて帯で結び、僕であるはずも者たちを食事の席に着かせて、主人が僕となって給仕をして下さるという逆転が起こることが語られています。
 戻ってきた主イエスは、主イエスをいつでも迎え入れる思いを持っている者たちを、ご自身の方から喜びの宴に座らせて天の恵みに与らせてくださるのです。そしてその時は、思いがけずやって来ます。
 教会はその時を待ち望みながら、「御国が来ますように、御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈り求めています。
 私たちは「主よ、おいでください」といつでも主イエスを迎え入れる生き方に努めるとき、主イエスご自身が私たちを生かし養う僕となってくださり、教会は、私たちの僕となってくださった主イエスの養いによって御心を生きるように成長していきます。私たちは、主イエスをいつでも私たちの主人を迎え入れることが出来るように目を覚まして用意をしてくのです。
 私たちは、このように主イエスを迎え入れて、天にある喜びの食事を共にする約束を与えられています。その喜びの食事を先取りして、私たちの目に見える形の礼拝式にして現されたのが聖餐式です。
 私たちの聖餐式は「主イエス・キリストよ、おいでください」と主を迎え入れる用意をして目を覚ましている者が、主を呼び求める祈りの言葉から始まり、聖書の御言葉をいただき、主の御体をいただいて、主による養いを受けるのです。
 私たちは信仰の目を覚まし、祈りをとおして主なる神と心を一つにされて、主イエスが私たちのところにおいでになることを希望として、御心に適う信仰の生活を進めて参りましょう。
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