2024年06月15日

「やってみる」こと(愛恩便り2019年9月)

「やってみる」こと

 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。 (マルコによる福音書10:51)


 多くのノーベル賞受賞者が、「私の業績は、たくさんの失敗を重ねることから生まれた。」と言っています。また、それらの人の中には、「私の業績は、失敗の中からたまたま見つけたことの結果である。」と言っている人もいます。

 子どもたちの遊びを見ていても、新しい発見やそれによる経験のひろがりは、順序立てた計画に基づいた行動によって得られるだけではなく、たまたま起こった出来事や意図したこととは違う出来事をきっかけにして与えられる場合も多いように思えます。

 子どもたちは、「やってみたら出来た、それが自信につながった」という経験をたくさん積み重ねています。でも、それだけではなく「やってみたら、いつの間にか始めにしようと思っていたこととは違う展開になってしまった。が、その結果は?」という経験をたくさんしており、それもまた子どもの成長にとって欠かせない大切な一面になっています。

 例えば、子どもたちがいつものようにダンゴ虫を探していると、予想していたように、いつものプランターの下にいるダンゴ虫を見つけて喜ぶこともあるでしょう。でも、プランターを動かしてみたら、コオロギがとび出てきて、同じ場所にいる生き物が季節によって違うことに気付いたり、そのようなことをきっかけにして、虫の種類や生態の違いに興味を向けていくこともあるのです。

 こうした「思わぬ発見」や「予想外の展開」は、子どもの心に広がりや深まりを与え、情緒を豊かにし、物事に柔軟に対処していく力を身に付けさせます。

 いずれにしても、子どもが実際に「やってみる」ことがこうした経験の出発点になります。子どもたちの「やってみよう」とする思いを育て、失敗を恐れて萎縮することのないように見守りましょう。

 やってみた結果が仮に上手くいかなくても、失敗は、その後の知恵と力に変わります。子どもたちが思い切り色々な事に挑戦できる秋にしていきたいと思います。


posted by 聖ルカ住人 at 15:48| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

夏休みを健康に過ごすために(愛恩便り2019年8月)

夏休みを健康に過ごすために

 あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。 (テモテへの手紙一4:14 )


 私は、毎年夏休みが始まる前日(第1期終わりの集い)に、子どもたちと「早寝、早起き、朝ご飯」と唱えて、その言葉を夏休みのお約束にしています。この言葉は今から12年ほど前に文部科学省が子どもたちの生活向上運動推進のために用いた言葉です。この短い言葉の内容は、ことに夏休みを過ごすにあたり大切な事でもあり、各ご家庭でも是非このことを心掛けていただきたいと思います。

・早寝早起き

3歳から5歳の時期の子どもは、毎日10時間から12時間ほどの睡眠時間が必要であるとされています。睡眠には、心身の疲労を取り除き、脳や体を成長させる大切な働きがあります。是非、日々の「早寝、早起き」に努めましょう。人は眠りに入るとその眠りが深くなり、その段階で脳、骨、筋肉の成長を促すホルモンが分泌されます。就寝時間が遅くなると、これらの分泌にも影響しますので、午後9時ごろまでには就寝するように心がけましょう。また、人は子どもに限らず、朝の光を受けて脳が覚醒されます。これによって、体内時計はリセットされて一日が始まり、体も活性化されます。毎朝起床時間を定めて良いリズムでの一日を過ごせるように心掛けてください。

・朝ごはん

体は寝ている間もエネルギーを使っており、朝の体内には活動源となる栄養素が減っています。そこで、朝食によって栄養をとりいれ、一日の活動を始める状態を作ることが大切になります。また、朝食の働きは、栄養を取り入れるためだけではなく、「よく噛んで食べること」、「口を動かすこと」にもあります。噛むことと口を動かすことは、脳を覚醒させ、心身を活発に働かせる準備になります。よく噛んで食べることで、脳も、胃や腸も動き始め、胃腸の動きにともなって、夜の間に排泄準備のできている「うんち」の排泄刺激にもつながり、朝の排便習慣もできてきます。食べることで便意をもよおすのはごく自然のことであり、朝食と朝の排便を習慣化するためにも「早寝、早起き、朝ご飯」の生活を心掛けて夏休みを過ごしてください。

 このことは、ただ生活習慣を保つことに留まらず、私たちが神さまから与えられた自分の命(ライフ)の可能性をどのように引き出して、自分としてどのように豊かに生きるかという課題の根底に据えられることでもあります。

 夏休み期間中も、幼稚園では預かり保育を行います。開設日を確認の上、有効に活用してください。

posted by 聖ルカ住人 at 15:39| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

罪を犯した者に対する神の配慮   創世記3:8-21  特定5  

罪を犯した者に対する神の配慮 B年特定5 創世記3:8-21  2024.06.09


 旧約聖書日課の御言葉から信仰の導きを受けたいと思います。
 今日の旧約聖書日課(創世記第3章)には、神がお創りになった最初の人であるアダムと女(後にエバと名付けられる)が罪を犯した物語が載っています。
 神は、天地創造の第6日目に、神の姿に似せて人をお造りになりました。アダムとエバはエデンの園に置かれてそこで暮らします。
 第1章の終わりには、「人と妻は」二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」と記されていますが、その言葉の通りに、初めの人アダムと女は神に創られた姿そのものでいることができました。
 そこに蛇がやってきて、女の意識を、園の中央にある善悪を知る木に向けさせます。
 神は第2章16節で「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べるとかならず死んでしまう。」と言いましたが、女は蛇に答えてこう言っています.「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない。触れてもいけない、死んではいけないから、と神さまはおっしゃいました。」
 この女の言葉には、神の禁止命令に、「触れてもいけない」という人間の認識のゆがみが加わっています。ここに、人は神に似せて造られたとはいえ、神そのものではない人間の一面を見るのです。
 聖書で言う「罪」とは、必ずしも社会的な処罰の対象になるようや犯罪を意味するのではなく、神の御心から離れていることを意味するのです。例えば、扇風機にしても冷蔵庫にしても、そのコンセントとコードがつながっていれば本来の働きをしますが、「罪」とはそのコンセントが脱けた状態のように、神の御心から離れた姿を意味するのです。
 神に創られた人は神の御心としっかりつながって生きることで生きる意味を与えられ、神の御心から離れると、人は自分自身の中にも深い亀裂を起こすようになるのです。
 アダムと女は神から「食べるな」と言われましたが、蛇からは一言も「食べろ」とは勧められていないのに、女はアダムに約束の木の実を食べさせ、自分でも食べてしまいました。二人は自分たちがしてしまったことに気付き、恥ずかしくなり、その自分を意識して取り繕います。二人はイチジクの葉を綴り合わせて、腰を覆ったのでした。彼らは、犯した罪のゆえに、ありのままの自分でいることに恥ずかしさを覚え、その場凌ぎの取り繕いをしました。
 そして、神に創られた存在でありながらも神の御前にありのままでいることができず、神の足音を聞いたアダムと女は、神の顔を避けて、園の木の間に身を隠します。
 神はアダムと女にいくつか問いかけ語りかけてきます。「どこにいるのか」、「お前が裸であることを誰が継げたのか。取って食べたのか」、「何ということをしたのか」。
 これらの神の言葉に対する人間の応答は、どれも皆神の問いかけをはぐらかし、言い逃れをしようとしていることが読み取れます。
 アダムは10節で「あなたの足音が園の中で聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」と答えています。アダムは、そして私たちも、本当なら裸でそのまま神の御前に進み出られたはずですし、また、そうすべきなのです。それなのに、アダムは自分が罪を犯すことになったのがあたかも神のせいだと言わんばかりに「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べてしまいました。」と言っています。アダムが食べたことは自分の意志と決断によったことであり、その結果の責任も自分で負うべきです。ところが、彼は神が与えてくださった女が木の実を渡したので食べました。「私が食べたのは神のせいであり、あなたが私に与えたあの女のせいす」と言わんばかりの言い逃れです。
 人が神の似姿に造られたその性質の一つに、他の被造物にない高い意識(理解力)とその言語表現力を挙げることができます。しかし、この場のアダムはその高い意識(理解力)と言語表現力を責任転嫁と自己防衛のために用いているのです。それは女(エバ)についても言えることです。女は「蛇がだましたので、食べてしまいました」と言っていますが、先ほども見てみたとおり、蛇は少しもだます言葉も誘惑する言葉も用いてはいないし、食べる決断をしたのは他の誰でもない女自身でした。
 人は神の似姿に造られており、自ら考え、判断し、自分の責任に於いて実行することで、神の創造の働きに参与する恵みをいただいています。それなのに、この場のアダムもエバも、その大切な能力を責任転嫁と自己防衛のためにしか用いていません。神はそのようなアダムとエバをエデンの園から追放なさいます。
 創世記第1章から第3章にかけて、人が神の似姿に造られながらも、どうしても負わざるを得ない罪(原罪)について語っています。
 罪を犯したアダムと女が、自分を隠すためにその場しのぎにイチジクの葉で腰回りを覆い、神から尋ねられれば本当のことを言うより肝心なことは隠して言い逃れを図り、責任を他に負わせて自分は助かろうとしていることにその罪の姿が現れ出ています。このように、罪は人が共に生きることや人が神と出会い人間同志が出会って生きることからますます人を遠ざけてしまいます。
このような物語の中に、私たち人間がありのままの一人の人として他者と共に生きていこうとするときに直面せざるを得ない、人としての根本的な問題が描かれていることが分かるのではないでしょうか。
 主なる神は、私たち人間をご自身の姿に似せてお造りになったアダムとエバを、エデンの園から追放なさいます。それは、主なる神ご自身が傷みながらの決断だったのではないでしょうか。その神は、罪を負って生きざるを得ない人間に対して、やがて主イエス・キリストによってその答をお示しくださるのです。
 主なる神は、アダムとエバをエデンの園から追放する時にもこの二人に対して小さな配慮をしておられます
 創世記第3章21節の小さな言葉に着目してみたいと思います。
 「主なる神は、アダムと女に革の衣を作って着せられた」。
 罪を犯して、自分が裸であることを知った二人は、イチジクの葉を綴り合わせて腰を覆いました(3:7)。それは自分自身が露わになっていることを知った者が自己防衛をしてその場凌ぎの振る舞いをする姿です。神はその二人に、革の衣をお作りになって着せておられます。神に対して不従順の罪を犯してしまう人間に対して、神は、イチジクの葉で取り繕う人間を見過ごしにはなさらず、神ご自身が皮の衣をお作りになって人に着せてくださいました。
 人は、エデンの園を追放されて、その外で様々な苦難や困難に直面しながら生きていかなければなりません。神はそのような宿命(単に幼子のように裸で純朴には生きていけない)にある者に対して、神から与えられた意識と知恵と言葉とを用いて、その限界の中にあっても、神の御心を表す器となって生きるように、それに相応しい衣を神ご自身が着せてくださいました。
 私は、主なる神がアダムとエバに皮の衣を着せてくださったことは、生まれながら罪を負って生きざるを得ない人間のことをも神は深く愛し配慮してくださっていることのしるしであると思います。それと同時に、革の衣は、エデンの園の外で自分の身を守りながらも、神の御心を求めて生きていくために、神ご自身が与えてくださる派遣のしるしであると理解できるのではないでしょうか。そして、このことは主イエスが「蛇のように賢く鳩のように素直でありなさい」と言っておられることとつながっているように思えるのです。
 罪を負って生きる私たちではありますが、神は最初の人であるアダムと女にイチジクの葉に替えて皮の衣を着せてくださり、エデンの園の外で生きる者への特別な配慮を与えてくださっていることを覚えたいと思います。そして、神は、主イエス・キリストによって神の側から全き罪の赦しを与えてくださいました。私たちはたとえ罪ある者であっても、神はいつも特別な配慮をもって私たちを導いていてくださっています。御心に応えて歩む思いを新たにすることができますように。共に、主なる神の前に感謝と謙遜をもって、恵みを受けることへと導かれますように。
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2024年06月07日

交わり(愛恩便り2019年7月)

交わり

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがあなたがた一同と共にあるように。(コリントの信徒への手紙Ⅱ13:13)


 聖書の世界では、私たちは人と人の間に働く神の愛によって育まれると考えます。自分の心を開いて相手に関わるとき、しかもそこに神の愛が働くようにという祈りがあるとき、その場が私たちの予想していた以上に素晴らしい展開をする経験をすることがあります。昔の人はそのような場に働く力を「聖霊」と呼んで、そこに人の思いを超えた「神の愛」が働いていることを実感していたのでしょう。

 私たちが、お互いに恐れなく、真実で、本当の自分を開示でして他者と出会うとき、私たちは真実な自分を表現して、より深い本当の自分を他者と関わらせて生きることができるようになります。これが人間関係の原点です。ちなみに心理学で言うカウンセリングとは、人がこのように生きることを支援することであり、他者の人生の課題を代わりに生きることや人生相談に答を与えることではありません。

 たとえ子どもであっても、3歳を過ぎる頃から個性をもつ人間同士の交わりが始まります。それぞれの子どもが自分の個性を出し合うとき、その場は均一な意見や考えによるのではなく、各自の意見の先にある新しい展開が生まれます。

 幼稚園は、子どもたちが遊びを通して上記のような経験をたくさん重ねていく場です。子どもたちが規律や生活習慣を身に付けたり大人の指示によって一斉に同じ行動をとれるようにしたりすることも大切なことではありますが、それは、例えば避難訓練のように、他の人に迷惑や必要以外の負担をかけずに生きることや自分の身を守ることのために必要なことなのであり、人はたとえ子どもであっても、幼いときから自分の感じ方や考え方をしっかりと自分で把握し表現することへと方向付けていくことが求められています。

 人が生きていくためには、他の人と交わる中で自分と相手を理解し、互いの思いを分かち合い意見を出し合い支え合うことが大切になります。また、自分たちの予想を超えるその場の展開にも柔軟に建設的に対応していくことが求められます。そのような状況に応じて適切に対応していく能力(自己と他者の理解力、自己表現力、状況への対応力)の育成こそ、現代の幼児教育の大きな課題なのです。

 この能力は既成の答えのない遊びによる様々な経験を重ねる中で育つ能力であり、とりわけ他者との交わりとその経験の積み重ねによって育まれる能力です。

 神さまが私たちを他者と共に生きる存在としてお造りくださったことを感謝し、交わりの中で共に成長する喜びを味わうことができますように。

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2024年06月03日

子どもの心の基地(愛恩便り2019年6月)

子どもの心の基地

 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦 (詩編46:2)


 幼稚園生活にすっかり慣れた子どもたちは、友だち関係にも遊びの内容にも広がりを見せています。そのような時期の子どもたちに、時に大切になるのが、「子どもの心の基地」としての信頼できる大人の存在です。

 例えば、よちよち歩き時代の子どもは、次第にお母さんの許から行動範囲を広げていきますが、そうできる前提には心の基地として信頼できるお母さんの存在があるからです。

 公園でお母さんの存在を忘れて夢中で遊んでいた子どもが、ふと「あれっ、お母さんはどこ?」と思って顔を上げて辺りを見回すとき、お母さんがいることを確認した安心感がどれほど深いものであるかは、誰でも思い巡らせることができるでしょう。子どもは再び安心して自分の遊びに集中します。逆に言って、落ち着いて自分の遊びに集中できる子どもの心は安定しており、伸びやかに自分を表現しながらその経験を更に広げ深めることができるのです。

 また、遊んでいる最中に辺りでいきなりい大きな物音がした場合、驚いた子どもは直ぐにお母さんの存在を求めて、お母さんのところに走っていって、抱きくことでしょう。その時、お母さんは子どもにとっての避難場所であり、そこで安心すると、つまり自分の心の基地で信頼できる存在を確認できると、大きな物音の恐れを乗り越えてまた自分の行動範囲を更に遠くまで広げていくことになります。

 このように、子どもが自分の行動範囲や思考と想像の枠を広げていくには、子どもの基地(ベースキャンプ)として信頼できる大人の存在が欠かせないのです。

 子どもは自分の感じたことや気付いたことを十分に表現するだけの言語力や技術に関しては未熟ですので、他者との行き違いや葛藤も生じやすく、それが子ども同士であればその傾向はますます強くなるでしょう。それは必ずしも悪いことではなく、かえってその場での経験が人間としての成長を促す糧にもなるのです。しかし、その経験を成長の糧とするためには、子どもの心の基地となってその経験を理解し、受け入れ、共感する人が必要であり、子どもはそこで一度重荷を下ろして、新しくエネルギーを蓄えてそこから再出発することになります。

 保護者の皆さまも、保育者も、子どもの成長の基地であること心に留め、子どもたちがたくさんのことに挑戦しその経験を広げていくことを支えて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 10:10| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする