2023年03月21日

行動地図 (あいりんだより20011年6月号)

行動地図

  わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。(ヨハネの手紙Ⅰ 4:16) 

 折り紙を折ってそこに筋をつけると、また広げた折り紙はいつもまたその筋に沿って折れるようになります。わたしたちの性格や行動の面についてもこれと似た側面があります。ある場面で、判断や行動の選択をする時、いつの間にかいつも同じようなパターンで処理するように学習するのです。比喩的に言えば「心の傾向」とでも言えるでしょうか。このように人の頭の中には状況を捉えて物事を判断し、見通しを立てて行動に移していくための手順の図式がつくられてきますが、「行動地図」と呼んでいます。

 例えば、ある子どもの遊びを見ていると、もう一がんばりすれば深い達成感が得られそうな場面になるといつもそのもう一がんばりを避けるかのように他の遊びに移っていってしまう子がいます。また、好きなことでも嫌いなことでも自分の本心を表現する場面になると、その気持ちを素直に表現するのをためらうかのように動きが止まってしまう子がいます。そのパターンはまさに十人十色であり、それぞれ自分の動きを先取って予想する心の地図を持つようになるのです。

 出来ることなら、誰でも自分の心に建設的で正しい「行動地図」を持てるようになると良いのですが、その地図が現実に相応しくないものになってしまうと、場に適した判断が出来ず、自分の能力を十分に表現できなくなり、勿体ないことになります。

 小さな子どもでも、これまでの経験に基づき、「自分がこうすると、周りの人々はこう反応するから、そうならないように(あるいは、そうなるように)、このように行動しよう」と自分の心の中の地図によって予想を立てて行動するようになります。

 このような「行動地図」は、目的を達成するためのよい見通しを立てたり希望や意欲に満ちた行動へと導くのですが、もし子どもの心の中に実際よりも悲観的であったり臆病な思いばかりで、その子の行動の判断軸が出来てくれば、その子どもの行動は、間違った折り目のついてしまった折り紙のように、いつも同じように悲観的で臆病になってブレーキがかけられ、その子どもに本来備わっているはずの力を十分に生かすことが出来なくなってしまいます。

 子どもたちが色々なことに積極的にチャレンジしていく土台となる「行動地図」を自分の中に描けるように、子どもたちを支援していくことが必要になってきます。

 そのためには、日頃から子どもたちの行動を温かく見守りそれに相応しい言葉かけをすることや、子どもたちが物事を達成する喜びをたくさん得て、その経験を大人も共に喜ぶことなどが必要になるでしょう。また、人は成功と失敗を繰り返して「行動地図」をたえず修正しながら成長するのですが、その結果だけではなく物事に取り組む子どもの態度を認めて受け容れ励ますことや、取り組んでいる時の子どもの気持ち(感情)を受け止めて共感し励ますことなども、子どもが自分の心に正しい行動地図を作る上で大切なことになります。

 そして、そのようなことの大前提として、わたしたちは神の大きな愛に包まれていることを知っており、またそう信じているのです。

 子どもに関わるわたしたち一人ひとりの「行動地図」も、神さまの大きな愛の中で、絶えず建設的で実際の生活に相応しいものに書きかえていくことが求められています。わたしたちは子どもを養育する役割を負っていると同時に、子どもをとおして自分の成長を促されている者でもあることを忘れないようにしたいと思います。

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2023年03月20日

御国が来ますように(あいりんだより2011年5月号)

御国が来ますように

  御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。(マタイによる福音書 6:10) 


 わたしたちは、毎日「主の祈り」を唱えています。朝の職員会で、子どもたちとの朝の集会で、この祈りを唱えない日はありません。この祈りの言葉は、上記のように聖書の中にあります。

 主イエスが弟子たちに「こう、祈りなさい」と教えた祈りです。

 「主の祈り」の中に「御国が来ますように」という言葉があります。この言葉は、「天の国が来ますように」と置き換えることも出来ますが、「神さまのお考えの世界が到来しますように」という意味です。

 日頃使われている「天国」とは、わたしたちが死んだら迎え入れられる世界のことなのかもしれませんが、イエスさまの教えによれば、「天 国」は行くところではなく、この地上に求めるもののようです。主イエスさまは、どこか特定の地域を区切ってその領土を天国にするのではなく、わたしたちが生きている、今、ここを、神さまのお考えが実現する姿になるように求めて祈りなさい、と教えておられるようです。

 そして、そのように祈り求めることとは、ただ座って目を閉じてこの言葉をお題目のように唱えることを意味するのではなく、その願いが実現するように、例え小さな事柄でも、具体的な行いにして表すことへと促されることを意味するのです。

 かつて、ある臨床心理学者が次のように言っていた言葉が印象に残っています。

 「一見平凡に見える家庭でも、それを維持するのにはそれなりの努力が必要なのです。」

 この言葉と重ね合わせて考えると、天の国はただ誰か他の人の手によって作ってもらう世界ではなく、わたしたちの小さな努力を積み重ねることによって実現していく側面も大きいことがよく分かるのではないでしょうか。

 わたしたち大人が子どもたちにかける何気ない言葉の中にも、時には叱って正しいことを教える中にも、家族で食事をする中にも、神さまが共にいてくださるのですから、わたしたちは、その時、その場が神さまの望む姿が現れ出るように、いつも小さな努力を重ねていくことが必要なのではないでしょうか。

 そのような環境の中で、自分を精一杯表現して生きる子どもたちの中に「天の国」の姿が現れ出てくるのです。

 風薫る季節です。子どもたちは幼稚園生活のリズムにも慣れて、心も体も伸びやかに育つ季節です。その成長が天の国の姿が現れ出ることにつながるよう努めて参りましょう。御国が来ますように。

posted by 聖ルカ住人 at 09:47| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年03月19日

その人を通して主の業が   ヨハネによる福音書9:1-38  大斎節第4主日

その人を通して主の業が       ヨハネによる福音書9:1-38  大斎節第4主日  2023.03.19

   大斎節第4主日を迎え、大斎節も後半に入っています。

 今日の聖餐式の聖書日課福音書は、先々週はニコデモ、先週はサマリアの女、そしてこの主日は生まれつき目が見えなかった人の物語を取り上げ、それぞれ主イエスとの出会いを通して主イエスを救い主と信じるに至る事例を学んでいます。

 それぞれの人が主イエスが救い主であることを公に言い表すに至るのですが、当時のイスラエルの状況を考えると、そのように主イエスを救い主(メシア)であると告白することは、とても厳しい状況に立たされる可能性のある中でのことであったことを先ず心を止めておきたいと思います。

 今日の聖書日課福音書では、生まれつきの盲人が主イエスによって目が開かれたことで、当時のイスラエルの権力者たち罪人と決めつけられ、会堂から追放される様子を描き出しています。

 生まれつき目の見えない人が道端で物乞いをしていました。この人の前を主イエスと弟子たちが通り過ぎようとしています。この盲人に、イエスと弟子たちが話している声が聞こえてきたことでしょう。

 「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

 そう考えるのが当たり前の時代でした。この盲人は当然のように自分を罪人であると思い、罪の結果が、あるいは自分の先祖の罪が、自分の身に現れ出ているのだと考えていました。ところが、主イエスは弟子たちに、誰も予想していなかった事を教えておられるのです。

 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

 この盲人は、これまで「神の業が現れる」ことは神殿で働く位の高い人や学者たちが教えを説くことで起こると思っていたことでしょう。自分のように目が見えないのは罪の結果が体に現れ、神から受けた罰がこのような徴になっていると考えたことでしょう。盲人は自分でも自分を「罪人」とし、誰も見向きもしないような人間に「神の業が現れる」ことなど関係ないことだと思って生きてきたことでしょう。

 主イエスはこの盲人に近付き、唾でこねた泥をこの人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗うよう」にと言ってくださいました。唾でこねた泥を目に塗ることはその当時の目を癒す方法として行われていたようです。また、シロアムの池は、エルサレムの南端にある歴史的な人工の池です。ユダヤ教のしきたりに拠れば汚れからの回復を祭司が認定してその宣言を受けた人が清めの式を行う場所でした。しかし、この物乞いをする盲人は、主イエスに言われたとおり、直接シロアムの池に行って洗うと、見えるようになって帰っていきました。

 この物乞いをしていた元盲人にとっては、それで十分でした。

 ところが、イスラエルの権力者たち-ユダヤ教の指導者たち-は、目が見えるようになったこの人のことを喜びませんでした。彼らは、見えない人の目が開けてもそれを神の業とは捉えようとせず、目が開けた喜びを分かち合おうともしませんでした。なぜなら、主イエスがこの盲人の目を開いたのは安息日であり(14)、またこの盲人の目が開かれたのは、先ほど少し触れたように、ユダヤ教の細則や習慣に相応しいプロセスを経ていなかったのです。

 そのために、権力者たちやファリサイ派は、見えるようになったこの人を調べます。イスラエルの権力者たちは、神の救いに関する営みは自分たちの手の中にあり、その外にあってはならないと考えて、この人に関わります。目が開けたこの人には、イスラエルの権力者たちが主イエスの働きを理解しようとせず、起こった出来事を認めようとしないことがよく分かりました。自分の身に起きた救いの業の事実を曲げて彼らの言いなりにならない限り、権力者たちの追求は止まないことも、彼にはよく分かりました。そして事実とは違う権力者たちの言い分に「あなた方の言うとおりです」と言わなければ、この人を追求と糾弾が終わらないことも、この目の開かれた人にはよく分かりました。こうした関わりの中で、誰が目の見えない自分を憐れんで目を開けてくれたのかが一層はっきりしてきます。

 イスラエルの権力者たちにとり調べられている間、目を開かれたこの人は妥協せず、ただ率直に自分の身に起こった事実をありのままに話しました。しかし、権力者たちはこの人に向かって、イエスが律法に違反してこの汚れた男に関わったことに同意を迫り、イエスがこの人の目を開いた業は違法行為であると言わせるために様々な圧力をかけてきます。この人がそうした圧力に屈することなく、自分の身に起こった事実のみを語ることに苛立ちます。

 そして、目を開かれたこの人が「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです(33)」と答えたのをきっかけに、神殿の指導者たちはこの人を律法に相応しくない者と決めつけて、神殿から追放してしまうのです。

 「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか。(36)

 追放された後、この人は、主イエスにお会いし、自分の目で主イエスを見る時が与えられました。この人は自分の目で主イエスを見て、次第に自分を通して神の業を現してくださった主イエスを人の子(つまり救い主)であると信じるようになり、主イエスの前に跪く事へと導かれていきました。

 今日の福音書の物語をよく見ていくと、かつて盲人であったこの人が主イエスどのように理解していったのか、その変化を読み取ることができます。

 この人は、自分がどのようにして目が見えるようになったかを説明する時、11節で「イエスという方が・・・」と言っている事からも分かるように、この人にとってのイエスはまだ関係の薄い存在でした。それが、権力者たちに答えたりしていくうちに、17節では「あの方は預言者です」と言い、神の言葉を与る人でなければこうした働きはできないと言っています。

 こうした言葉にユダヤ教の指導者たちは次第に苛立ち始め、「我々はモーセの弟子だ。あのイエスという男はどこから来てどんな権威によってそのような働きをしているのか」と怒るように言います。しかし、目を開かれたこの人は、生まれつき目の見えなかった自分の目が開かれたのは本当のことであってこれまで誰もそのようにしてはくれなかったが、あのイエスという男は私の目を開いてくださったのであり、そうであれば「あの方は神のもとから来られた(933)」と言うのです。

 これによって、この男はユダヤ教の指導者たちからモーセの権威を蔑んだものとして神殿から追放されることになります。34節の「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」というユダヤ教指導者たちの言葉は彼らが自分たちの面目を保つのに躍起になって、この人の目が開かれたことを認めようとしない高慢な姿がみられます。また、この男を「外に追い出した」とは、単に建物の外で追い出したと言うことではなく、彼を神殿の交わりから追放したことであり、イエスによって目を開けられたこの人が迫害され、当時の社会での交わりを絶たれたことを意味する言葉なのです。

 主イエスは、目を開いたこの人が神殿から追い出されたことをお聞きになり、この人にお会いしました。この男は、耳でその声を聞いて自分の目に触れてくださったことでしか知らなかった主イエスを見て、その声を確かめます。

 そして主イエスの人の子(メシア)を信じるかという問いに、36節で「主よ、信じます」と信仰を告白し、主イエスの前に跪くことへと導かれています。

 今日の福音書の箇所は、目の見えなかったこの人が主イエスの前に跪く場面で終わっていますが、更に41節まで読み進めると、主イエスはファリサイ派の人々にこう言っておられます。

 「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

 主イエスが「見える」と言う時、視力があるかどうかを問題にしているのではく、神の御心を見る目があるか、霊的に見えているかを問うておられることは明らかです。そのような視点で権力者たちの言動を見てみると、彼らは、自分を正しい者の側、救われている者の側に置いて、物乞いをする盲人の目が開かれたことを喜びとせず、その人の目が見えるようになった事実さえ認めようとしていません。

 ユダヤ教の指導者たちは、その民を導き神の道を説く立場にありながら、自分を守ることに拘り続け、それ以外に「神の働きのしるし」を見ようとしませんでした。彼らは律法の細則に照らして人々を評価するだけで、盲人が見えるようになった事実を認めようとせず、目が開かれたその人を神殿から追放してしまいました。

 主イエスは、そうしたユダヤ教指導者たちの在り方を「『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と厳しく指摘しておられるのです。

 福音記者ヨハネは、主イエスが盲目の物乞いであった人を通して現わした神の業を伝えています。私たちも、この世の無理解や偏見、時には嫌がらせや迫害などに遭いながらも、主イエスに伴われ導かれて、本当のこと、正しいことへ向かい、そこから「主よ、あなたを救い主と信じます」と告白することへと招かれています。

 教会暦は、大斎節も後半に入り、主イエスの十字架へ、復活へと向かいます。私たちは主イエスによって信仰の目を開かれ、また「神の業」が自分を通して現れる器とされるように祈り求めて参りましょう。


(1) 2023.03.19 大斎節第4主日説教 ヨハネによる福音書第9章1節〜13節(小野寺司祭による) - YouTube

posted by 聖ルカ住人 at 08:57| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年03月16日

前任地での卒園式 2023年3月16日

前任地での卒園式 2023.03.16
 一昨年の3月までの前任地であり、6年間園長を勤めた愛恩幼稚園(水戸)の卒園式に列席しました。
 今日卒園した多くの園児たちとは、彼らの年少時代の3月までの一年間を一緒に過ごしました。この子どもたちの入園式当時、日本中が新型コロナウイルス感染の対策にとても神経質になっていた時期でした。園では、3蜜を避けるために、入園児を3組に分けてそこに係の教職員がついて、園長(私)が各部屋をまわって歓迎のご挨拶をする形で入園式を行いました。この代の子どもたちは、臨時の休園日の多く、またマスク着用で3年間を過ごしてきました。
 私は、そのような時期だからこそ、当時の年少クラスの子どもたちとは特別に意識してスキンシップを心がけました。例えば、子どもを後ろから抱えて横揺らし(「大時計」)、前後揺らし(「飛んでいけー」)、向き合って両手を繋いでの逆上がり(「くるりん」)、椅子に座って子どもそれも時には3,4人を膝上に載せて、左右に急ハンドル、でこぼこ道、急発進急ブレーキなどの「ドライブあそび」等々を試みました。
 それから2年経った今日、私は、その子たちに会うのがとても楽しみでした。
 ある女児は体が一回りも二回りも大きくなってマスクのない笑顔の口元は乳歯がひとつ抜けています。聞けば、昨日の帰路に抜けたとか。卒園式の前日に、幼稚園生の子どもから一つお姉さんになって小学生になろうとする徴が口元に象徴的に示されているようで、微笑ましく、私も嬉しくなりました。また、ある男児は、その当時、上述の「大時計」や「飛んでいけー」を他の子としているのを見つけると、「ボクまだやってない!」と駆け寄ってきて列の中に割って入り込んで来たことなどを思い出しながらお別れの「大時計」をして、私も楽しみ、別れを惜しみました。
 今日は、あの日々が私にとっても貴重な日々であったことを確認することのできた、大切な一日となりました。子どもたちの前途に主の祝福と導きが豊かにありますように。 
posted by 聖ルカ住人 at 23:24| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年03月15日

傷みと苦しみを知る人の優しさと強さ (あいりんだより2011年4月号)

傷みと苦しみを知る人の優しさと強さ

 わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 (ローマの信徒への手紙 5 : 3-4 ) 


 新年度を迎えました。保護者の皆さまにはお子さまの入園、進級おめでとうございます。

 本年は、1ヶ月ほど前の3月11日に発生した太平洋東北沖大地震(東日本大震災)に起因する諸被害のため、多くの人が傷み、苦しみ、その辛さを抱えて4月を迎えたのではないでしょうか。仮に人的、物的な被災がなかったとしても、心に大きなダメージを受けている方も沢山おられるのではないかと拝察しております。

 今回の地震の後、私も教会の牧師として、ほんの少しではありますが、被災者に対する支援プログラムの構築とその調整に関わりました。その委員会の中には阪神大震災を現地で体験した方もおられましたし、今回の地震被災者もおられましたが、そのような方々は概して優しくかつ粘り強いのです。彼らは、自分の傷みを人々に関わる優しさに変え、自分の苦しい経験を他者と関わる上での粘り強さの糧としているように見受けられました。

 だからといって、わたしはこれ以上子どもたちに悲しい経験や苦しむ経験をさせればいいなどとは思いませんし、苦しい経験をすれば、それが必ず強さや優しさになるとも考えません。

 痛みや苦しみを優しさや強さに変えていくためには、傷ついたり悲しんだりしている子どものかたわらにいて寄り添い、見守り、支える存在が必要となります。

 子どもたちにとっては、「大丈夫、わたしが見ているから」、「あの時は辛いし、悲しかったね。あなたのその気持ちは、いつか傷みを知る優しさと強さになる日が来ますよ」と、ゆったりと、落ち着いて、坦々と子どもを支援する存在が必要なのです。

 実は、このことはこのような災害時にだけ適用すべき特別な支援の態度なのではありません。この態度は、日頃から子どもたちの成長を見守り支えようとする親、家族、教師、保育士などにとって、子どもに関わる基本的は態度なのです。また、こうした基本的な態度は、子どもたちだけではなく、わたしたち親や教師も含めたあらゆる人が他者と関わる時の大切な態度なのではないでしょうか。わたしたちは、大人でも「絶対的他者」と言うべきお方に見守られて、生きています。キリスト教保育ではこの絶対的他者である「神」を掲げ、「神」の御心をこの世界に示したイエス・キリストに導かれ、その守りと導きの中でわたしたちは子どもたちと関わっています。

 愛隣幼稚園は少人数の幼稚園です。わたしたち教職員は、子どもたちの目に見える行動だけではなく、一人ひとりの内的な世界も大切にして理解することを心がけ、子どもたちが日々経験することを一緒に味わいたいと思います。子どもたちの喜びや楽しさばかりではなく、悲しさや苦しさをも共にして、優しさ、強さ、心の豊かさを育んでいきたいと思います。周りの人の共感と受容を得ることで人は自分を保ち育てていきます。お互いに良い他者となり合い、優しさと強さを育み合いましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 09:56| Comment(0) | 幼稚園だより | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする