エルサレムに向かうイエス ルカによる福音書第13章31-35 大斎節第2主日 2025.03.16
主イエスはエルサレムに向かって歩み始めようとしておられます。神の国の教えを説き、人々に癒やしや浄めを与えながら、主イエスはエルサレムに向かって歩みを起こそうとしておられます。するとそこへファリサイ派の人々がやってきて、「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」と伝えました。ファリサイ派は、日頃から主イエスに対して反感を持っていました。彼らは、主イエスの教えや行いが当時の社会秩序を乱しており、神を侮辱していると考えて、主イエスを監視するようにつきまとっていたのです。
ファリサイ派は主イエスに「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と言いますが、彼らは何とかして主イエスと弟子たちがエルサレムに上っていくのを阻止しようとします。
ファリサイ派はヘロデの名を持ちだしていますが、このヘロデは、ヘロデ・アンティパスのことで、ヘロデ大王の息子です。その父親のヘロデ大王は、占星術の学者たちから「新しい王の誕生」の情報を得て、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を惨殺しました。息子のヘロデ・アンティパスは当時ガリラヤ地方とペレヤ地方の領主であり、ローマの権力の下で、その操り人形のようになってその地方を治めていました。ヘロデは、自分の領地にもめ事が起こることを嫌いました。それは領主としての力量をローマ皇帝から問われることと考えたのです。ヘロデは、自分の治めていたガリラヤ出身のイエスがエルサレムに上って行って何か面倒を起こせば、ガリラヤ領主である自分の評判が落ちると考えたのでしょう。
当時の様子を記したユダヤの歴史書の中に、このヘロデ・アンティパスについてこう記されているところがあります。
「ヘロデ・アンティパスは静かな生活を愛した。」
私たちは、このヘロデ・アンティパスの愛した「静かな生活」の内実をよく見据えておく必要があります。彼は洗礼者ヨハネを殺した人物です。ヘロデは自分の兄弟の妻ヘロディアを奪いました。多くの人は、ヘロデを恐れてこの件について何も言いませんでした。でも、洗礼者ヨハネがヘロデのことを公然と批判したため、ヘロデは洗礼者ヨハネを捕らえて牢獄に入れました。
もし、ヘロデが「静かな生活」を愛する人だとしたら、ヘロデの愛したその「静かな生活」は、他の人々を威圧し、自分の不道徳を批判する人を殺し、神の御心を示そうとする人を否定するような、重苦しい、不自由な「静けさ」であると言えるでしょう。
ファリサイ派の人がヘロデのことを持ち出して主イエスに話しかけてきたことにも、主イエスをエルサレムに行かせたない下心があります。それは、ナザレ出身の田舎者イエスによって聖なる都エルサレムに波風を立たされたくない、という意図があったことでしょう。
主イエスはファリサイ派の言葉に応えて言います。
「私は、今日も明日も、その次の日も進んでいかねばばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、あり得ないからだ。」
主イエスは「エルサレムに進んでいかねばならない」と言っておられますが、この言葉は、「私がエルサレムに進んで行くことは、神のお考えによって必ずそうなるに決まっている」という意味です。つまり、主イエスがこれからエルサレム行くことは神の意思と計画によることであり、ヘロデが自分を殺そうとしているとか祭司長たちが自分を追放するだろうとかいうことで左右されることではないのです。主イエスがエルサレムに行くことで、主なる神によるこの世界の人々の救いが実現するのです。ヘロデ王やファリサイ派も主イエスを殺す役割をとることでこの世の罪が顕わにされて、その出来事を通して神は御心をこの世界に示すことになります。主イエスは、今、その途上におられるのです。
今日の聖書日課福音書には、主イエスがエルサレムに向かう固い意志が伺えます。自分に都合が良いかどうか、心地よいことかどうか、興味あることかどうかという次元を遙かに越えて、自分を通して神の御心が実現していくこと、「私の思いではなくあなたの御心が行われますように」と祈り求めて歩む主イエスの姿がここに示されています。
そして、それだけに御心が行われることを阻もうとするヘロデやファリサイ派に対して、主イエスは厳しい言葉で批判しておられるのです。それは政治的にも宗教的にも中心地であったエルサレムを批判する言葉によって表現されています。
主イエスはエルサレムを「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」とまで言っておられます。
エルサレムは紀元前1000年の頃、ダビデ王の時代に古代イスラエルの首都とされ、その息子ソロモンの時代には立派な神殿が建てられ、エルサレムはイスラエルの中心として大切な場所であり続けてきました。エルサレムは詩編の中などではしばしば「神の都」として賛美され、イスラエルの民にとってエルサレムは「神の国」という意味さえ込めて用いられてきました。しかし、主イエスは、このように「神の都」「神の国」と呼ばれる場所で、神の言葉が疎かにされ、支配者たちの保身と維持のために多くの預言者が殺されてきたと言っておられます。
私たちが神の言葉と向き合うとき、ヘロデが平穏でいられなくなりファリサイ派がイエスを封じようとしたように、私たちも主イエスの厳しい言葉に安穏としていられなくなることがあるのではないでしょうか。神の言葉と真剣に向き合うことは、時に、自分の中の罪と向き合わされることになります。そして、主イエスのみ言葉は私たちに悔い改めを迫ることもあります。その時多くの人は、主のみ言葉が真理であるが故に、そのみ言葉を避けたくなるのです。ヘロデはみ言葉を突きつけた洗礼者ヨハネを捕らえて牢に入れました。また、ファリサイ派の人々も律法から発生したしきたりを口伝律法として大切にしましたが、それは自分の身を守り、そうできな人を罪人と決めつけるためであり、それを批判するイエスを嫌いました。主イエスは、このようなファリサイ派の人々を「白く塗られた墓である」とまで言って、彼らの生き方を批判しておられます。当時のエルサレムは、祭司階級などその体制から利益を受けている人々が支配していました。彼らは聖書の言葉を聞くときにも、自分たちの好む耳触り良い言葉を都合良く解釈し、自分の存在を根底から振り動かすような厳しい預言者の言葉は抹殺していたのです。
主イエスはイスラエルの中心であるエルサレムに向かって歩みを進めていかれますが、今日はこの主イエスを私たちの心の中心に向かうイエスと捕らえてみようと思います。ヘロデやファリサイ派も自分の内にいるヘロデやファリサイ派と考えてみましょう。主イエスは、私たちの心の一番真ん中に進んできておられます。主イエスは私たちの「心の世界」の中心に向かって歩んでおられることを意味します。私たちが神の言葉によって自分の一番中心のところでイエスから生き方を問われ、揺り動かされ、本当に神の御心に適う者となるように、主イエスは私たちの心の真ん中に進んで来られるのです。
ヘロデやファリサイ派にとっては、エルサレムに向かう主イエスは自分たちの平穏を乱す邪魔者であり、厄介者でした。それは、主イエスが、彼らが認めたくない彼らの罪に迫るからです。私たちにとって、神の言葉は今どのように私たちの心に真ん中に働きかけているのでしょう。神の言葉は、私たちを根底から支え、私たちに慰めや励ましを与えますが、その一方、私たちは、悪魔が聖書の言葉を自分の都合の良いように用いて私たちを神の御心から引き離そうと誘惑することも知っています。
主イエスがエルサレムに向かうのは、神の計画がそこで実現するためであり、それはイスラエルの民の中心に神の御心が据えられるためです。そして、それは、私たちの心の中心に主イエスがいてくださり、私たちの中に神の国が実現することでもあるのです。主イエスのエルサレムへの歩みは、私たちの罪が主イエスによって担われ、新しい命の世界へと私たちを導いてくださる歩みです。
主イエスは、「めん鳥が雛を御翼の下に集めるように」私たちを完全な赦しと祝福の中に招いてくださっています。私たちは主イエスに導かれて、主イエスによって、全ての罪の赦しと甦りの命の与らせていただきましょう。