2022年11月28日

主にお会いする備え   イザヤ書2章1~5節 降臨節第1主日 2022.11.27

主にお会いする備え    イザヤ書2章1~5節  降臨節第1主日 2022.11.27

 教会の暦は新しい年に入りました。
 今日は、聖書日課から旧約聖書の言葉を中心に、私たち一人ひとりが主なる神をしっかりと心の中に迎え入れ、主なる神に私たちの心の奥深くに宿っていただけるように、その備えを進めていきたいと思います。また、私たちが主なる神さまに迎え入れていただくのに相応しい備えが出来るように、導きを受けたいと思います。
 はじめに、今日の旧約聖書日課からイザヤ書2章5節の御言葉を思い起こしてみましょう。
 「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」
 まず、このようにイスラエルの民に呼びかける預言者イザヤがどのような時代を生きた人であり、そのような状況の中でこのように預言しているのか、その背景を理解しておきましょう。
 イザヤ書第1章1節に、イザヤが生きた時代が次のように記されています。
 「これは、ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである」。
 イザヤが預言者として召し出されて働いたのは、紀元前740年頃から紀元前700年の頃の約40年間でした。
 イスラエルが王国となりサウル王が初代の王となったのが紀元前1020年のことで、ダビデが紀元前1000年に王となってイスラエルを一つの纏まった国として首都をエルサレムに定めました。ダビデの40年の統治の後、その子ソロモンもほぼ40年にわたってイスラエルを治めました。ことにソロモンの時代には周辺諸国が弱体化し、イスラエルはそれに乗じて国力を強めますが、ソロモン王の時代が進むと王国を維持するための税金が重くなったり、ソロモンが異国の宗教や文化を取り入れることに多額の資金をつぎ込むことで生じた貧富の拡大や軋轢が表面化してきます。そして、ソロモンが死んでその子レハブアムが即位すると直ぐに、国は紀元前922年に南北に分裂してしまいます。
 そのような南北分裂の時代の中、紀元前780年の頃、南イスラエル(ユダ)の国にウジヤ王が即位します。ウジヤ王の時代に、周辺諸国が対立し合って力を落としていたこともあり、イスラエルの国は南北ともその隙間をぬうように繁栄を回復します。それは、ダビデやソロモンの時代の繁栄の再現と言われるほどになり、ソロモン王末期の時代と同じように、人々の心は変わり始めます。
 国が繁栄して国の力が付くということは、国民全体が平均して豊かになるということより、先ず支配者階級が力をつけて貧富の格差が広がって、権力者たちはその富み上にあぐらをかくようになり、次第に傲慢になり、貧しい人や弱い人を虐げ蔑むようになってくるのです。そして、権力者たちは、ますます贅沢になり、不正に対して無感覚になり、それに対する批判を力で押さえつけ、神に聞き従うことを忘れます。国の中では貧富の差は大きくなり、特権階級にある人々は形の上では派手な捧げ物をして神を敬っているかのように振る舞いながらも、その内実は神の御心に従うことなどすっかり忘れてしまいます。
 イザヤが現れたのは、こうしたウジヤ王の時代の末期であり、イザヤはこのような時代の王と支配者層たちに向かって、特に彼らの驕り高ぶりに対して、神の厳しい裁きの言葉を取り次ぐことになるのです。
 イザヤは、主の御言葉に聞き従うことを忘れまた主に信頼することを忘れたイスラエルの指導者層たちに向かって、開口一番、イザヤ書第1章3節で次のように神の御言葉を取り次ぎます。
 「牛はその飼い主を知り、ロバはその主人のまぐさ桶を知る。しかし、イスラエルの民はそれを知らず、我が民は悟らない。」
 その当時、牛もロバも愚鈍な動物とされていました。そんな動物でさえ自分の飼い主を知り、自分を養う主人の飼い葉桶も見分けられるのに、イスラエルの民は自分の飼い主が誰なのかも分からなくなってしまっていると、イザヤは指摘します。あなたたちは自分を神に選ばれた民、エリートだ、と言って驕り高ぶっているが、自分の主人が本当は誰なのかも忘れ、主なる神に信頼する心をすっかり失っていると言って、イザヤはイスラエルの指導者たちを糾弾し、そのようなイスラエルの民とその中心であるエルサレムについての審判を預言しています。そして、イザヤは今日の旧約聖書日課で、終わりの時の幻について語り、第2章5節でイスラエルの民が何に基づいて生きるべきかを訴えるのです。
 「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と。
 「ヤコブの家」とは、神に選ばれたイスラエルの民を意味します。その民に向かって、主なる神とお会いする日のために「光の中を歩もう」と、イザヤは言います。ウジヤ王の時代のほんの一時的な繁栄に酔いしれているうちに、イスラエルは自分たちが最も信頼すべきものが何かを忘れ、周りの国々の風向きを気にしながら生き延びることを考えるようになってしまいました。イザヤから見れば、また、イザヤを通して語りかける主なる神の目から見れば、ソロモン王の時代も、ウジヤ王の時代も、ほんの一瞬の繁栄であり、その繁栄はかえって人を惑わし人の目を暗くする闇でしかったのです。一時の繁栄によって与えられた贅沢と驕り高ぶりによって、イスラエルの民の目、とりわけ権力者や指導者の目は、すっかり曇り、神の前に本当のことや正しいことを見極める力を失っていたのです。
 イザヤは「主の光の中を歩もう」と言っていますが、天地創造物語で、神は「光あれ」という言葉からこの世界の創造を始めておられます。人は主なる神がお与えくださる光の中を歩むことによって秩序付けられ、生かされることは、天地創造物語が教えているところです。主なる神は、闇が覆い混沌としたこの世界に向かって先ず「光あれ」と言って、光によって創造の働きを始めておられるのです。このことを思い起こせば、イザヤが「光の中を歩もう」と言っている意味も自ずと明らかになって参ります。
 私たちは日々の生活の中で、何が正しいのか、何に導かれるべきなのかをつい見失いやすい時代に生きています。今から2800年近く前にイザヤが生きた時代とちょうど同じように、私たちの生きる社会も僅かひとときの経済的繁栄の後、何に頼り何に基づいて生きるべきかを忘れ、私たちも創世記の初めにあるような闇と混沌が覆う世界に生きているのではないでしょうか。
 イザヤは「ヤコブの家よ」と呼びかけていますが、実は私たちもこのヤコブの家-新しいヤコブの家-の者なのです。私たちは、イスラエル民族という血筋によって選び出された者の家にではなく、主イエスを救い主とする信仰によって一つとされる者の家に生きる者なのです。この信仰の家に住まい生きる人は、主がお出でになってこの世界に神の御心が満ち溢れる時の姿(ヴィジョン)が、イザヤ書の2章4節によって示されています。
 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」
 主なる神は、このような世界へと私たちを招いておられます。争い破壊することではなく、生み出し支え合う事へと私たちは促されています。私たちは何もせずにただじっとして神の御心が完成されるのを待ち望むのではなく、私たちの側から光の中を歩む具体的な一歩として、剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す生き方を始める必要があるのです。それは、たとえて言えば、神と私たちとがトンネルを反対方向から掘り進めるような事であり、トンネルがいつ繋がり完成されるのはか分からなくても、私たちの側からは主イエスの働きとして平和の完成のトンネルを掘り進めていくことを求められています。そして、神の側と私たちの側は確かに一つになることを私たちは既に主イエスのこの世のお働きと十字架の死、復活、昇天によって示されているのです。
 教会暦では降臨節に入り、私たちは主イエスにお会いする希望を新たにしてます。神の御言葉を私たちの心の奥深くに宿らせることが出来るように祈りながら、今日の御言葉によって神の光の中を歩むことが出来るように導かれて参りましょう。
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2022年11月25日

名前のことー園児との会話ー   2022年11月25日(金) 

名前のこと-園児との会話から-   2022年11月25日(金) 

 昨日は、幼稚園の礼拝の日で、テーマの聖句は「あなたは身ごもって男の子を産む。そのことイエスと名付けなさい(ルカによる福音書第1章31節)。」だった。
 降誕日のちょうど1ヶ月前であり、どのようなお話をしようかと迷ったが、この日の礼拝は11月誕生児の感謝祝福の礼拝を兼ねており、天使ガブリエルからマリアへの「受胎告知」のことよりも「名付けられること」を主なテーマにして話すことにした。
 話の主旨は以下のようであった。
 『天使ガブリエルは、マリアから生まれる赤ちゃんの名をイエスにするように命じました。イエスという名は「神さまは救い」という意味で、マリアから生まれたイエスさまは、大人になると、その名前の通りのお働きをするようになりました。その名前にはイエスのお父さまである神さまの思いや願いが込められていました。私たち一人ひとりも生まれたときに、両親や家族の思いや願いを込めた名前が付けられ、他の人とは取り替えられない大切な人として生きることが始まりました。その一人ひとりを救い主である主イエスが守り祝福していてくださいます。今日は、皆さんがどのような思いや願いを込めて名前が与えられたのか、ぜひお家の人にきいてみてください。私たちは、一人ひとりが取り替えられない大切な人として幾度も名前を呼ばれて、神さまと周りの人々に大切に育てられてまた今年の誕生日を迎えられることを感謝しましょう。』
 メッセージのテーマがマリアへの受胎告知とイエスの命名のことなのか、私たちの名前のことなのか焦点を絞りきれず、私は、子どもたちがどのように受け取っているのか落ち着かない思いで礼拝を終えていた。
 日頃、園児たちとはあまりおしゃべりする機会が無い私であるが、今日は年長児の遠足に同行し、子どもたちと一緒に歩いたり遊んだりする時間が与えられた。
 歩きながら一人の男児が私に話しかけてきた。
 「先生、僕の名前はね、夏になる頃には木がどんどん伸びて、沢山の葉が青くなって、大きくなって、やがて実をつけるでしょ。夏の木のようにすくすくと元気に育つようにって・・・」。
 「それで、直樹くんか。素敵な名前だね。なおちゃんは何月生まれ?」。
 「7月」。
 「昨日の礼拝での名前のこと、お家で聞いてみてくれたんだ」。
 「うん」。
 なおちゃんが、家庭で、礼拝での「宿題」のことを話題にし、おそらく、家庭で温かな雰囲気の中でこの話題が受け止められ、なおちゃん命名の謂われが語られたのだろう。
 小春日和の穏やかな一日は、単に天候に恵まれただけでなく、子どもとの会話にも恵まれた豊かな日となった。
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2022年11月20日

王であるキリスト ルカによる福音書第23章35~43節  C年特29(降臨節前主日) 2022.11.20

王であるキリスト   ルカによる福音書第23章35~43節  

  今日は、教会暦の年間最終の主日であり、この一週間で教会暦の一年が終わろうとしています。この主日に私たちが与えられている聖書日課福音書の箇所は、ルカによる福音書第23章35~43節です。この箇所には主イエスが十字架につけられた時、並んで十字架に付けられていた一人の犯罪人にパラダイスの約束をお与えになった言葉が記されています。
 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」
 ことにカトリック教会ではこの主日を「王であるキリストの主日」とし、王であるキリストによって神の御心が完成することを思い巡らせる主日としています。
聖書の中でも、ヨハネによる黙示録では最終的な統治者である主イエス・キリストをKing of kings (諸王の王)、Lord of lords(主の中の主)としており、ヘンデルのオラトリオ『メサイア』の中のいわゆるハレルヤコーラスでも、キングオブキングスを高らかに賛美しています。
 この「王なるキリスト」は、ただ天にあって褒め讃えられて良しとされるお方ではありませんでした。
 主イエスはこの地上の生涯の終わりに、王冠の代わりに茨の冠を押しつけられ、手には宝石をちりばめた杖の代わりに葦の棒をもたされ、王の正装としてのガウンの代わりに派手な衣を着せられて見せしめにされ、侮辱され、最後には身ぐるみはがれて十字架につけられたのでした。人々はそのお姿のどこにも「王」であるキリスト-救い主-を見ることなど出来ませんでした。しかし、聖書はそのイエスを救い主であることを示し、教会はこのイエスを私たちの「主」であり「王」であることの信仰を公に告げています。
 王であるキリストを考えるために、一つの例えを挙げてみましょう。
 10人乗りの宇宙船があったとします。この宇宙船には王と操縦士である船長を含めて10人が乗っていますが、この宇宙船が故障してどうしても9人しか乗り続けることが出来なくなってしまいました。王と船長は乗り続ける9人を(逆に言えばここから放り出されねばならない一人を)選ばなければなりません。このような時に王や船長はどのような選択と決断をするのでしょう。その決断によって、この宇宙船の価値観がすっかり変わるのです。船長は決断をしました。この宇宙船にいる一人は犯罪人であり、その人を宇宙船の外に追放することで他の人が生きのびようと決断をしました。その判断は宇宙船内の誰のにも妥当に思えました。その時、王が口を開きました。「私が外に出よう。あなたはここに残りなさい」。犯罪者は「でも、私はこれまでさんざん悪いこともしましたし、外に出されて当然です。せめて私のことを覚えていて下されば充分です。」と言います。これに対して王は言います。「いや、そんなことは問題ではない。あなたは私を王とするこの宇宙船に乗っているのだから、あなたは生きるに値するのだ」。
 この王と犯罪人の姿を見て、他の8人も王と犯罪人との関係が、それぞれに自分と王との関係に他ならないことを悟るのです。犯罪人であろうが嫌われ者であろうが、業績があろうが無かろうが、王は自分の宇宙船に乗っているすべての人が自分の民であればその民を生かすことに自分を献げるのです。
 拙い例えですが、この例えから主イエスがどのような意味での王であるのかを理解することが出来るでしょう。
 一般の国語辞典では、「王」とは「君主の称号、首位にある者」と説明していますが、聖書が伝え教会が証しする「王」であるイエスは、人を愛することに於いて、また神の御心を実践することに於いて、首位にあるお方であり、私たちはこの王によって命を受けているのです。
その意味で、主イエスは、国語辞典に解説されている一般的な意味での「王」に留まるお方ではありません。主イエスご自身は、全く罪のないお方であったにもかかわらず、罪人としての最期を味わって下さいました。そして、罪ある人を死と滅びから救い出して、すべての人を主の民とし、その一人ひとりを尊い存在として愛しぬいて下さる王なのです。
 聖書で用いられている「罪」とはこの世の法律に違反して逮捕されるような行為を意味するのではありません。そうではなく聖書でいう「罪」とは、私たちの生き方が神の御心から離れてしまっていること、また、本来あるべき自分から逸れてしまっている状態を意味しており、法律に違反することも神の御心から離れているが故に「罪」なのです。そして罪を赦されることとは、誰とも取り替えることの出来ないその人の存在が認められ、また他の人に対しても他ならぬその人として神と人々との交わりのうちに生きるように回復されることなのです。
 王である主イエスは、十字架の上から、並んで十字架に架けられている犯罪人の一人に、天国を約束なさいました。
 私たちは年間の最終主日に、イエスを通して与えられている完全な赦しについて教えられており、この赦しをお与えくださる「王であるキリスト」に心を向けるように促されています。これまでに私たちが犯した全ての過ちや罪は主イエスを王とする民の一人になることによって全て赦されるのです。
 このことを信じて受け入れるのは、実は勇気のいることです。このような完全な赦しを受けて私たちは新しい歩みをどう始めようとするのでしょうか。主イエスの赦しは、私たちの罪を見て見ぬ振りをすることでもなく、無節操に放任することでもありません。私たちは、主イエスの十字架を通して神の側から私たちに一方的に与えられている赦しによって、一人ひとりが神としっかりと結び合わされ、自分が自分として生き、他の人もまたその人として十分に生きる事へと招かれ促されていくのであり、そこには自分の罪と向き合い、神の前に本当の自分を開き認めるという勇気が必要なのです。
 今日の福音書の中で、登場する人物を順に見ていくと、興味深いことに気付きます。主イエスの十字架から遠いところから、つまり画面の左端から、この十字架の出来事を遠くから観ている民衆、嘲笑う議員と近づいてきて、イエスを侮辱する兵士、十字架の上からイエスを罵る犯罪人がいて、十字架の主イエスがおられます。この十字架のイエスを画面の真ん中にして、一人こちら右側に十字架の上でイエスを救い主と認めて「私を思い出してください」と願い赦された犯罪人がいます。つまり、今日の聖書日課福音書は、主イエスの十字架を救いのしるしと認めることの出来ない人々の世界が左側にあり、殆どの人がそちら側にいて、それとは全く対照的に、右側には犯罪者として処刑される死の間際でさえ神としっかりつながる事の出来る救いの世界があることが、主イエスを中心にして左右に描いているのです。しかも、主イエスによる救いを認めることの出来ない側の世界には、議員たちや兵士たちのようにこの世の権力によって世を治める人たちがいます。また、十字架の前に自分をしっかりと照らし出すことが出来ずに、遠くから主イエスを取り巻くだけの群衆もいます。そのような人たちにとっての「王」は、この世の権力者なのでしょう。私たちは、一人ひとりがこのような絵画的な描写の中のどこに自分を見出すのでしょう。或いは、私たちはこの物語のどこに身を置いて、「王」であるキリストの御言葉を受けようとするのでしょう。
 この物語には、この世の権力の視点しか持つことができず、主イエスに王の姿を見出せない人がいます。その一方、たとえ人生の最期であっても主イエスを「王」として受け入れ、本当の自分を取り戻した人がいます。私たちは、この犯罪人の物語を遠い他人の物語として受け取るのではなく、主イエスが十字架を通して自分を招いて下さっている「私の物語」として受け止めたいのです。
 教会暦の最後の主日にあたり、私たちは王である主イエス・キリストの十字架の赦しと招きをもう一度自分に向けられたこととして受け入れて、主イエスを通して与えられた主なる神の大きな恵みの中で本当の自分として生かされていくことが出来ますように。
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2022年11月13日

「終わりの時」のために  ルカによる福音書第21章5-19節  聖霊降臨後第25主日(特定28)  2022.11.13

「終わりの時」のために  ルカによる福音書21:5-19    聖霊降臨後第25主日(特定28)  2022.11.13                           

 教会暦における一年の終わりが近付いています。この主日の聖餐式聖書日課は、旧約聖書、使徒書、福音書のいずれも「終わりの時」言い方を変えれば「神の子の来臨の時」について触れています。
 「終わりの時」とは、地球が破滅するというような意味ではなく、この世の全てに神の御心が成し遂げられる事を意味しており、それは「神の意志が行われ、正義と愛が実現し、神が神として真にあがめられること」であるとも言えるでしょう。
 今日の聖書日課では、旧約聖書のマラキ書で、終わりの時に主なる神が正しい者と神に逆らう者を選り分けるために預言者エリヤを遣わすと言い、その時に備えて私たちの心を神に向けるように促しています。使徒書のテサロニケの信徒の手紙Ⅱでは、パウロが当時の人々に向かって「終わりの時」が直ぐにでも来ると考えて日々の生活を放り出して救い主の再来を待つようになる人がいる中で、「落ち着いて仕事をし、たゆまず善いことをしなさい」と教え、日々の生活を着実に営むように勧めています。また、福音書では、主イエスが「この世の栄華に心を奪われるのではなく、色々な社会現象や自然現象その他の動きに惑わされることなく、忍耐して神の御心にかなう歩みをして、命を勝ち取るように」と教えておられます。
 ルカによる福音書は、紀元80年を過ぎた頃に編集されたと考えられています。主イエスが十字架につけられて殺され、復活して天に昇ったのは紀元30年頃であったと考えられています。当時、人々はこう考えました。
 「主イエスは地上での生涯を通して神の御心がどれほど尊く人を生かして下さるものであるかを示して下さった。天にお帰りになった主イエスはまた直ぐに来て下さる。主イエスが再びこの世界に来て下さる時、この世界は神の御心によって支配され、神のお働きも完成されるのだ。」
 しかし、ルカによる福音書がまとめられた時代は、主イエスが天に昇られて既に50年の時が過ぎています。主イエスの再臨を待ち望む人々の中には、「主イエスが天にお帰りになってもう50年も経った。主イエスの再臨がこれ以上遅くなることはない。この世の終わりはもう直ぐにでも来る。」と考える人がいました。しかしその一方で「もう50年経ってしまった。救い主の再臨など直ぐにはないだろう。」と考える人も増えてきていたのです。そのような中で、心ある人々は、このような時代に「世の終わり」「終わりの時」をどう待ち望んで生きることを神は求めておられるのだろうか、と考え始めるのです。
 私たちも、今、この時代の中で、「終わりの時」をどのように捕らえ、どのように生きるべきか、神から問われているのです。
 もし、私たちがいつ訪ねてくるか分からない大切な客人を家に迎えるとしたら、その準備として私たちは何をするでしょうか。その客人がいつ来るのか予め分かっていれば、例えば3日後の午前中にお迎えするとなれば、その日その時に備えていつも以上にきれいに掃除をしたり特別な料理を作って入念な準備をして客人を歓迎する準備をすることでしょう。でも、その大切な客人は今すぐ来るかも知れないし、自分の生きている間には来ないかも知れないとしたらどうでしょう。もし、自分がその方を迎えるのではなく、自分が一生の終わりにそのお方に迎えられるのだとしたら、私たちは何をすべきなのでしょう。私たちがすべき事は、いつかその客人にお会いする希望を持って、自分の今の人生を大切に生きることになるのではないでしょうか。
 今日の使徒書で、パウロは「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい。(テサロニケⅡ3:12-13)」と勧めています。
 先ほども少し触れたように、テサロニケの人々の中には「世の終わりは近い」と浮き足だって自分の仕事を放棄し、再臨のキリストを迎えることに取りつかれたように祈ることしかしない人もいたのです。パウロはそのような人々を念頭に置きつつ、「落ち着いて自分の日々の生活を通して善い業に励みなさい。」と教えています。初代教会の時代は、クリスチャンに対する迫害がユダヤ教の側からもローマ皇帝の側からも強まってくる時代でした。クリスチャンが日々の生活の中で神の御心を思い善い業に励む中でも思わぬ迫害を受ける事も増えてきた時でした。そのような時代の中でも、信仰をもって生きようとする人に対して、福音記者ルカは「忍耐をもって神の御心を歩み、命を獲得しなさい。」と主イエスの御言葉を伝えているのです。
 ルカによる福音書第21章18節にある「忍耐する」という言葉は、元のギリシャ語ではυπομονη(ヒュポモネー)という言葉で、υπο(もとに)とμονη(留まる)の合成語あり、辛抱強く神の許に留まることや自分の重荷を担いとおして留まることを意味しています。この言葉の意味に表されるように、私たちが生きる世界の状況が良くても悪くても、神が最終的に御心を完成させて下さる希望をもって、それぞれが神から与えられた自分の命を精一杯に生きることを神は私たちに求めておられるのです。
 主イエスの時代に当然のことと考えられていた「終わりの時」についての考えは時代と共にその受け止め方が変わり、当時の考え方については今ではなかなか理解出来なくなっている面があります。また、「終わりの時」がいつどのように来るのかは私たち人間が前もって知ることは出来ないし、まして決めることなど出来ないのです。もし私たちが「終わりの時はこれこれの日に来る」などと言うとすれば、それは私たち人間が神の働きを支配したり規定する傲慢に陥ることになります。私たちは、主なる神ご自身がこの世界に御心を完成させて下さる時を思って「御国が来ますように」と祈るのです。そして私たちは、神から与えられた自分の人生の重荷を投げ出すことなく、そこから逃げ出すことなく留まって生きていくことを神から求められているのです。そのように生きることは、自分を押し殺してただ神の考えに自分を当てはめて生きることを意味するのではなく、先ほども触れたとおり、それぞれの人が神から与えられた自分の命を十分に生きることを意味しているのではないでしょうか。
 つまり、私たちは仮に自分が生きている今が最良の今ではなくても、今の状況の中での最善の時にすることは出来るのであり、その一瞬一瞬が終わりの時を生きる者の生き方であると言えるのです。
 私たちは未来の「終わりの時」に向かって生きていますが、その基盤には主イエスが十字架の上で完成して下さった救いのお働きがあります。私たちは、主イエスが示してくださった「終わりの時」の姿を自分を通して実現するために、主イエスさまの愛の力によって生かされているのであり、その一瞬一瞬が「終わりの時」を生きることになるとも言えるのです。
 私たちは、主イエスが示してくださった神の恵みを受け入れた、その感謝の中に日々を生かされています。その信仰を持つ者の集まりである教会は、この世界に神の求めておられる姿を現すことが出来るように願い、「終わりの時」を先取りして今を生きています。そして、「終わりの時」を先取りしたしるしとして、私たちはこの聖餐式を行っています。
 「終わりの時」について思い巡らせることは、私たちが主なる神にお会いする用意を調え、毎日の生活を御心にふさわしく歩み直すことにつながります。主なる神がお与え下さる「終わりの時」の希望に導かれて、私たちは日々自分を通して神の御心が顕されるように歩んで参りましょう。

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2022年11月06日

死者の復活についての論争 ルカによる福音書20:27-38  聖霊降臨後第24主日(特定27) 2022.11.06

死者の復活についての論争       ルカによる福音書20:27-38

今日の福音書は、主イエスが「死者の復活」についてサドカイ派の人々と論じている箇所が取り上げられています。
 サドカイ派の人々が主イエスのところにきて質問をした場面から今日の福音書は始まっています。はじめにサドカイ派について触れておきましょう。
 サドカイ派はおもに祭司をはじめエルサレム神殿に係わる上流階級の人々によって構成されるユダヤ教のグループであり、その体制を維持する立場にありました。そのため、彼らはその社会体制を維持してその利益を自分のものにしようとするため、その理論武装も保守的であったと考えられます。例えば、サドカイ派は、現実の社会を超越するような天使の存在を認めず、人の復活も否定していました。この点については、ファリサイ派が実際の生活に律法をどう適用させることが相応しい事かを事細かに論じるファリサイ派と対立する一面がありました。
 今日の福音書の個所では、サドカイ派の人々が、復活を信じるファリサイ派を否定する思いを込めて主イエスに語りかけてきました。サドカイ派は旧約聖書の「モーセ五書」の律法を重んじ、その他の書は神との関係を保つ正典には含めないという立場でした。サドカイ派は律法の書の中には復活を示す教えはないと考えていたのでしょう。
 今日の聖書日課福音書の箇所で、サドカイ派は、旧約聖書の律法を前提にして、結婚した女性が次々に夫に先立たれてその兄弟と次々に結婚することを7度繰り返したら、復活の時にいったいその女性は誰と結婚することになるのかと、主イエスに尋ねたのでした。
 この質問の裏には、「もし復活があれば、人が死んで復活したときにこんなバカげたことが起きることになる。だから復活などあり得ない」という批判が含まれていました。
 当時、ファリサイ派の考える復活とは、人は死んでも再びこの世で夫婦で生活できる状態になることであり、復活した女性はまた子どもを産むことが出来るとさえ考えたようでした。サドカイ派はこのようなファリサイ派の復活信仰を批判し、サドカイ派はフィリサイ派としばしば論争していたようですが、ここでサドカイ派はファリサイ派に議論を持ちかけるような論調で主イエスにファリサイ派を批判する内容で、「三日目に甦る」と予告するイエスに議論を仕掛けてきたのでした。
 その当時、イスラエルの人々の結婚はその夫婦から子を生むこと、つまり子孫を残すという意味合いが強く、結婚した夫婦に子どもが生まれないと、その女性は「産まず女」「石の女」と呼ばれて蔑まれました。聖書の中にも子どもを与えられないことに悩む夫婦や女性の物語は(例えば、旧約聖書ではサムエルの妻ハンナ、福音書ではザカリアの妻エリザベトの例のように)数多く見られます。そのような思想は、子孫を残せずに死んでいく人間にとっては救われるかどうかの大問題であり大きな悩みであったと考えられます。
 でも、主イエスご自身の復活も、主イエスが教える復活も、ここでサドカイ派が言うような意味での復活ではありませんでした。主イエスは、サドカイ派やファリサイ派が議論し合う時の復活の前提を否定し、サドカイ派が持ちかけてきた議論そのものが無意味であることを指摘しておられます。
 主イエスは、34節以下でサドカイ派の質問に答えながら、当時のイスラエルの民の復活観と結婚観を否定しておられます。主イエスは、私たち人間が死んで新しい命に甦ったのなら、それは生物的な意味での生死はもう問題ではなくなるのだから、復活したらその人が誰と結婚すべきかなどと考えることは必要ないし、そのように考えては復活のことは理解できないのです。
 復活して神の子とされた者は、主なる神を父のようにして「天使に等しい者」となって生きるのだから、血筋の上での親子、家族、親族であるかどうかを問題とはしないと主イエスは言っておられるのです。復活して生きると言うことは、生物体として男か女か、老衰で死んだのか子供のときに死んだのかが問題となるのではなく、神とその人との関係がどのようであるのかが大切になるのです。
 主イエスは、復活とはこの世で死んだ時の姿でこの世界に生き返るようなことではないことを教え、更に、主イエスご自身が復活なさる意味を説き、主イエスを救い主と信じる者が「終わりに日」に甦るとはどのようなことなのかを教えて、サドカイ派の人々の誤った復活理解を正されたのでした。
 私たち日本人の間でしばしば耳にする「あんな奴とは同じ墓に入りたくない」という言葉があります。その考えはに人が死んだ後も現世の姿をそのまま墓の中にまで持ち込み、私たちの罪も汚れも死の先にまで先送りされるかのような、日本人の死生観が映し出されています。でも、私たちはすべてが主イエスを救い主であると信じる信仰によって自分の罪が赦されていることを知っており、その信仰によって神の御許に召されることを約束されています。そうであれば、私たちは復活の世界にまでこの世での感情的な対立を引きずることはないのです。
 主イエスは、出エジプト記の言葉を取り上げてサドカイ派の人々に教えます。出エジプト記はサドカイ派の人々が重要視するモーセ5書、律法書の中の一つです。主イエスは『柴』の書と呼ばれていた出エジプト記第3章2節から15節(2節が「柴の間で燃え上がる炎の中に、主の使いが現れた。柴は燃えているのに燃え尽きることはなかった」から始まるので、『柴』の書と呼ばれる)個所から、6節で主なる神がモーセに「私はあなたの先祖の神、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と呼んでご自身を示されたことを取り上げて、モーセより遙か以前に生きたイスラエルの先祖たちが既に過去の人物になったのではなく今もこれからも『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』であると告げたとおり、神の御許でアルラハムもイサクもヤコブも生きている、死者が復活するとはこういうことなのだ」と言っておられます。
 同じ事を繰り返しますが、出エジプト記第3章2節で、主なる神はモーセに「私は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という言っておられ、これは文法的に「かつてアブラハム、イサク、ヤコブが生きていた時に私は彼らそれぞれの神であった」ということではなく、「私は今、アブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神である」と言っておられるのであり、復活とはサドカイ派がイエスに質問しているような兄弟の序列関係やその年齢の肉体を持って再生することではないと、主イエスは言っておられるのです。
 つまり、主なる神はこの柴の箇所で、神は時を超え所を超えて信仰を持つ人の全人格を支えて生かし続けていることを教えておられるのです。主イエスは、モーセがモーセより遙か以前にこの世に生きて神の許に召されたアブラハム、イサク、ヤコブなども神の御許で生きていると信じていたことを指摘し、世々限りなくお働きになる神を信じて生きた先祖たちも今は神の御許で神と共に生きているではないかとお教えになりました。そのような信仰はモーセやその時代の人々だけの信仰なのではありません。イスラエルの父祖と呼ばれた人々も、モーセも、預言者たちも、主イエスの時代の人々も、そして主イエスの弟子たちも、永遠の初めから終わりまでお働きになる神に生かされており、また、その様に生きることがいかに大切なことかを信じました。
 主なる神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であるように、主イエスは、弟子たちにとってだけの救い主なのではなく、私たちにとっても救い主です。私たちは、主イエスに導かれ、主イエスをとおして復活して死の先にまで生かされる希望を与えられ、天使と等しい者とされるのです。私たちは復活する時に、全ての人が神の御前に天使のようになって神を賛美する存在になるのだと主イエスは教えておられるのです。
 今日の福音書から、その時代を考えてみると、ユダヤ教の指導者たちがキリスト者の復活信仰について無理解であったり批判的であった事も想像されます。権力者によってキリスト教信仰が否定されたりキリスト者が迫害される困難の中で、甦りの主イエスを救い主とする信仰は更に深まり練り上げられていきました。周りの無理解の中でも、復活の主イエスが生きておられます。主イエスが教えてくださったように、私たちは死によって神との関係が途切れることはなくなりました。私たちは主イエスによって神の永遠の働きの中に甦って生きる約束を与えられています。
 主イエスに導かれ、復活の喜びと希望に日々生かされて参りましょう。
posted by 聖ルカ住人 at 16:30| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする