2022年09月26日

金持ちと貧しいラザロ  ルカによる福音書第16章19~31 聖霊降臨後第18主日(特定21)

金持ちと貧しいラザロ    ルカによる福音書16:19-31   聖霊降臨後第18主日(特定21)  2022.09.25

 今日の聖書日課福音書は、主イエスがなさった「富める者と貧しいラザロ」の物語の箇所が取り上げられています。主イエスは、この物語によってファリサイ派の人々を厳しく批判しておられます。
 私たちは、この「富める者と貧しいラザロ」の物語を、もう少し前の箇所からの脈絡を踏まえて理解し、導きを受けたいと思います。
 今日の聖書日課福音書は、ルカ第16章19節からですが、ルカによる福音書第16章1節からの箇所には、先主日の聖書日課福音書であった「不正な管理人のたとえ」があります。その箇所は、理解しにくく誤解されやすい内容でしたが、その要点は、「この世の富を他の人のために用いて、自分の魂の救いを得なさい」という教えでした。
 その例え話を聞いていたファリサイ派の人々が、それに続く第16章14節にあるように「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスを嘲笑った」のでした。ファリサイ派が主イエスを嘲笑ったのは、主イエスとファリサイ派の間で、この世の富に関する理解が全く違っていたからです。そこで主イエスは、ファリサイ派に対してこの「富める者と貧しラザロ」話をし、ファリサイ派のこの世の富に対する態度を厳しく批判したのでした。
 主イエスはこうした脈絡の中でこの「金持ちと貧しいラザロ」の話をしておられることを踏まえて読んでみると、私にはルカによる福音書第16章全体で何を伝えようとしているのか、その中で、この「金持ちとラザロ」の話がどのような意味を持つのかが浮かび上がって来るように思えます。
 金持ちは、いつも紫の衣服や柔らかい麻の衣を着て、贅沢に遊び暮らしていました。このような衣服は、当時の貴族や金持ちが身に付ける物でした。金持ちは、この衣服を身にまとい高価な料理を食べ、毎日贅沢に遊び暮らしていたのです。当時の食事は、フォークやスプーンを使わずに右手で食べ、その指をパンを手ふきナフキンの代わりとし、手を拭ったパンはそのまま捨てることが贅沢とされ、金持ちであることを示す行為でもあったと考えられています。そして、彼らは財産にも恵まれてそのような贅沢な生活が出来ることは神の祝福のしるしであると自惚れました。
 一方、ラザロ(神は助けという意味)という貧しい者は、この金持ちの家の前で座り込み、この金持ちが手を拭いて投げ捨てるパンで飢えをしのいでいたのでしょう。ラザロは体中にイヤなできものがあり、その体は弱り果て、自分の体をなめる犬さえ追い払うことが出来ませんでした。犬は当時のユダヤ社会では汚れた動物であり、ラザロの体をなめる犬は、野良犬であったと考えられます。犬もきっと金持ちが指先を拭って投げ捨てるパンを食べにやってきていたのでしょう。金持ちにとってラザロはこのような野良犬同然であり、この野良犬の他にラザロに関心を向ける者はありませんでした。
 やがて二人とも死にます。死んだ後、二人はどうなるのでしょう。
 ラザロは神の国に迎えられ、生前には紫の服を着た金持ちであった者は陰府の苦しみの中でもだえています。ラザロのことについては22節で「この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」と記されています。アブラハムは、イスラエル民族の父祖であり、救いの約束を受けた神の民の父祖とされています。貧しかったラザロは何の業績にもよらず、いま、神の国に迎えられています。一方、贅沢に暮らした金持ちは死者の国の中で苦しむのです。
 このラザロの物語の後半部分は、死後の世界が舞台です。主イエスは、その場のファリサイ派に向かって、あなたがたの人生を終わりの時から照らし返して、あなたがたは今の人生をどう生きているのかと厳しく問いかけておられるのではないでしょうか。
 何故この金持ちは死者の国に落とされたのでしょう。この金持ちは何か悪いことをしたのでしょうか。この物語の中で、金持ちはラザロを追い払いもしませんし、意地悪をしたわけでもありません。
 先ほども少し触れましたが、当時ファリサイ派は、金持ちであることは神に祝されたしるしであると考え、贅沢に暮らすことも神から祝福を受けた者の特権だと考えました。また、彼は貧しいラザロの体にイヤなでき物があるのはラザロ本人かラザロの先祖の罪の結果がラザロに表れていると考えました。このようないわば因果応報の考えは、当時のファリサイ派のごく当たり前の考えでした。
 でも、金持ちが貧しいラザロの存在を知りながら、ただ紫の服を着て毎日贅沢に遊び回ることは、本当に神さまの御心なのでしょうか。神は、金持ちとラザロがいつまでもそのままの関係にいることをお望みなのでしょうか。
 「愛」という言葉は、論理学の上では反対概念を持つ言葉ではありませんが、その意味を考えて「愛」の反対語は「恨み」や「憎しみ」であるより、「無関心」「無関係」という言葉の方が適切であるということはよく指摘されています。主イエスがお示しになった神の愛は、ルカ第15章にある「見失った羊」や「放蕩息子」の例えにもよく示されているように、どこまでも相手を思い、関わり続けることに表わされます。ファリサイ派の人々は、自分を高みに置き、貧しい人々を見下して関わろうとせず、律法に従って生きることの出来ない人々を罪人として排除しました。主イエスの目から見ると、貧しくされた人を少しも顧みないファリサイ派の形式主義的な生き方は、彼らがどれほどこの世の富をもとうと、愛とは正反対であったのです。
 この金持ちが生前にラザロを虐げなかったにもかかわらず陰府で苦しむことになったのは、彼が目の前のラザロに関わらなかった事に因ります。神がこの金持ちに求めていたのは、自分が満ち足りてそれで良しとするのではなく、自分の目の前にいる貧しい者に仕え、その人に神の御心が現れ出るように関わることだったのではないでしょうか。主イエスは、愛とはそのような具体的な行為であることを伝えておられるのです。
 先主日の福音書の中で、主イエスは「不正の富を用いて友達を作りなさい」と弟子たちに言っておられますが、ファリサイ派たちはこのイエスの言葉を嘲笑うのではなく、まさに彼らの目の前にいるラザロのような人々に対して、この世の富を用いて、神の愛を実践しなさいという言葉として受け止めねばならず、私たちもそのように受け止めたいのです。
 貧しい人こそ救われなければならないと言うことは、ルカよる福音書の大きなテーマです。例えば、第6章20節で主イエスは「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」と言っておられ、更にそれに続けて「富んでいるあなたがたは、不幸だ。あなたがたはもう慰めを受けている(24節)」とも言っておられます。
貧しい人が貧しさのためにそのまま滅びることは神の御心ではありません。富む者が貧しい人に関心を持てばその富によって具体的に貧しい人を助け出すことが出来るかも知れません。それなのに、何もしないのは神の御心が行われないことは不幸であると主イエスは宣教のごく始めの頃に言われました。その不幸な姿が、今この貧しいラザロと金持ちの前にあるのです。
 私たちはラザロの貧しさにもっと関心を持つべきです。その関心を持ってこの世界を見回してみると、神さまがお創りになって祝福して下さったはずのこの世界が今どんなに御心から離れてしまっているかに気づき、心が痛むはずです。世界の全ての人が神の祝福を等しく分け合って生きることへと促されるはずです。そして、信仰者であれば、主イエスの厳しい御言葉をどのように受け取めることができるか、自分自身の内なる世界の吟味にもつながるはずです。
 ファリサイ派の人々は、このような教えを説く主イエスを拒否して、殺すことを考えました。その一方で、徴税人頭ザアカイのように、主イエスと出会い悔い改めて旧約聖書の律法以上の施しと償いをするように変えられる人も生まれてきます。主イエスを知った時、主イエスを自分の中にどう受け止めるかによって、その後の歩みの方向はまったく違ってくるのです。私たちは主イエスとすれ違うだけなのでしょうか、それとも本当に出会おうとするのでしょうか。私たちは天の喜びはがどこに生まれると考え、信じるのでしょう。
 今、日本では、政治が金銭や物に対する貪欲によって動かされてきたことの破綻が目に見え始めました。そして、貧しい人々や弱くされている人々に対する関心はうすれ、貧富の差は広がっています。こうした時代の中に生きる私たちは今日の聖書日課から「あなたはラザロを愛するか」と厳しく問いかけられているのです。
 更に先主日の福音書にまで遡って考えれば、「あなたはこの世の富を用いて神に対して負債のある者の友になろうとしているのか」と私たちは主イエスに問いかけられています。
 物の豊かさの中に生きてきた私たちに向けられた主イエスの御言葉を心に深く受け止め、今の世界の有様にもしっかりと目を向け、主イエスに導かれて、神の愛と力を増し加えていただけるよう祈り求めて参りましょう。
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2022年09月19日

負債を引き受ける ルカによる福音書16:1-13  聖霊降臨主日後第15(特定20)

負債を引き受ける  ルカによる福音書16:1-13    2022.09.18   聖霊降臨主日後第15(特定20)

 今日の聖書日課福音書は、ルカによる福音書第16章1節~の「不正な管理人のたとえ」と呼ばれている箇所です。
 先ずこの例え話の内容を簡単に振り返ってみましょう。
 ある金持ちの主人がいて、その主人には財産の管理人がいました。主人は、管理人が財産を無駄遣いしているという噂を聞いて、管理人を呼び出し、会計の報告をさせてその職を辞めさせようとします。その時、困った管理人はこう考えるのです。「自分はもうここを追い出されるかも知れない。その時に自分を迎え入れてくれるような仲間をつくればいい。」
 そこで管理人は、主人に沢山の負債のある人を呼び出して、証書の負債額を少なく書き直させるのです。油100バトス借りのある人には「50バトスに書きかえなさい」と、また、小麦100コロスの負債のある人には「ここに主人の証書があるから、80コロスに書きかえなさい」と言いました。この管理人のことを知った主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり口をほめた、というのがこの例え話の粗筋です。
 書き替えられて軽くされる負債の額は、油の場合も小麦の場合も、ほぼ2年間の労働賃金に匹敵すると考えられます。もしこの話が例えではなく実際に他人の負債を勝手に処理する話であれば、この管理人の行為は主人に対する背信(裏切り)です。でも、主イエスがこの例えで教えておられるのは、実際の金銭の品物の貸借のことではなく、私たちが神に対して負っている支払いきれない負債-つまり罪-のことであることを、先ず確認しておきましょう。
 そしてもう一つ、「不正にまみれた富」という言葉を理解しておきましょう。
 9節と11節に「不正にまみれた富」という言葉がありますが、この訳は「聖書-新共同訳(1987年)」の訳です。「聖書協会訳(1954年)」も「聖書協会共同訳(2018年)」も、この言葉を直訳的に「不正の富み」と訳しています。私はこの箇所の「不正な」という言葉を「悪事を働く」という意味ではなく「神の御心に結びついていない」という意味で理解することが大切であると考えます。なぜかと言えば、この「不正の」の原語である「αδικοsアディコス」という言葉は「義ではない、不義な」という意味であり、犯罪にならない行為も神の御前に「義ではない、不義とされる」ことはいくらでもあることなのです。「富、財産μαμωναsマモーナス」は本来は善でも悪でもない便利で大切なものですが、それが人によって慈善ためにも悪事のためにも用いられるのです。神の御心から離れた行いは、それがこの世の犯罪であるかどうかの問題ではなく、「δικαιοsディカイオス 義なる 正しい」の反対の「αδικοsアディコス 不正の、不忠実な、不敬虔な」という視点からの問題になるのです。
 この箇所で「不正にまみれた富」と訳されている言葉は、「悪事を働いて儲けたお金」というような意味ではなく、「神の御心に則していない、この世の思いや価値感覚にまみれた富」というような意味に重点があることを理解しておきましょう。
 さて、私たちは、この世の法律に触れるような犯罪人ではないにしても、神の御心から離れれば、不義の者であり罪人であるとも言えます。私たちは神から取り替えることの出来ない大切な存在としてこの世に命を受けています。それにもかかわらず、私たちが自分の本来の姿から離れていることは神に対して負債があると例えられ、しかも私たちは神に対して返済することの出来ない多額な借金をしていることに例えられるのです。
 当時のイスラエルの民にとって、「神との関係に負債がない」とは、神との契約を文字通りに正しく守る事であると考えらました。そして、律法に反する行為は神に対する負債があることに例えられ、人はその罪の身代わりの動物を生け贄として献げることでその罪の汚れが清算されると考えました。しかし、イスラエルの中でこのような神殿での礼拝が儀式化してくると、特に裕福な人々は貧しく小さくされた人や罪に汚れた人を顧みることを忘れはじめます。生け贄を捧げる彼らの礼拝は次第に形ばかりのものとなり、祭司たちや律法学者たちはその制度の上にあぐらをかいて、律法を全うできない人々をそのままにして差別体質を残し、指導者たちは自分を救われた側に置いて神殿の利益を貪るようになっていったと言えます。
 今日の旧約聖書日課のアモス書の言葉にも見られるとおり、アモスはそのような神殿の指導者たちを厳しく糾弾しています。
 主イエスは、人の罪や不義は神殿での礼拝をすることの出来ない貧しくされた人々にあるのではなく、ユダヤ教の指導者をはじめとする上層階級の人々が社会の貧しい人を蔑み、その差別体質を残して利益を貪っているところにあるとお考えになり、また、貧しく弱いがゆえに罪人扱いされている人々がその重荷から解放されることこそ神の御心だとお考えになったのです。
 私たちは、それぞれの人生とこの世界という財産の管理を神から託されている管理人です。私たちは、この世界の中に生きて、主人である神に対してどのような報告書を出すことになるのでしょう。そして主人である神に対する不正とその負債をどのように処理しようとしているのでしょう。
 今日の聖書日課福音書の中の管理人は、自分の主人に背いていたことが発覚した時に、他の人の負債を軽くすることを思いつきました。
 主人に財産の管理を託されながら無駄遣いしてしまった管理人は、その決算報告を求められた時に、主人に対して負債のある他の人々の重荷を少しでも軽くするために働き始めます。この管理人は主人の財産を無駄遣いした上に、他人の負債の証文を書きかえさせて、主人に対して二重の裏切りをしたように見えます。でも、この管理人がしたのは、他人が主人に対して負う借金を軽くしてやることであり、この世の富を用いて他の人が負っている負債を軽くしているのです。そして、主人は、この管理人がこの世の富を用いて、主人に対して負債のある者の負債を軽くしてその人の友となったことをほめているのです。
 さて、そうであるのなら、証文を書き換えた油50バトス分また小麦20コロス分の損失は誰が負うのでしょう。証書が書きかえられたのであれば、実際に失われた油や小麦分の負担は誰のところに行くのでしょう。その損失は最終的には誰が被り、あるいは誰が引き受けるのでしょう。
 実は、私たちが神に対して負っている罪も、最終的には自分で精算できるようなものではありません。私たちの負債は自分で償うことの出来る額を遙かに超えており、私たちに命を与えてくださった神に対して、私たちは自分で追えない重荷を負わせている事にさえ気付いていないのです。そのような私たちは、主人である神の御前に会計報告を迫られている者であり、その返済の出来ない私たちはどうすべきか神から問われている者なのです。
 私たちは、自分では償うことの出来ない負債を私たちに代わって主イエスに返済していただいていることに気付かねばなりません。そうでなければ、私たちは自分の不正を取り調べられ、罪をえぐり出されるばかりでどこに救いがあるでしょう。私たちは自分ではその不正を埋め合わせることが出来ず、滅びに向かうしかなかった者です。主イエスは、そのような私たちの側に立って、麦や油の負債を軽くするどころか、私たちの負債を全てご自身で引き受けて下さいました。私たちの負債が記されている証文(台帳)は、その負債が主イエスの十字架の死によって全て帳消しにされています。主イエスは、私たちが支払うべき負債をすべてご自身で引き受けて下さり、十字架の上に、ご自身の命によって私たちの支払いの全てを完了してくださいました。既に主イエスが私たちの人生の会計報告を「神の前に借金無し=罪無し」としてくださったのです。このことを通して、私たちは神の前に負債の無い者となって、深い赦しを感謝して神の御前に進み出ることができるのです。
 このような主イエスの愛は、時に律法の枠を超えて働き、ユダヤ教の指導者たちの目には不正を働くこととしてさえ受け取られることにもなりました。
 私たちは主の祈りの中で「わたしたちの罪をお赦しください。わたしたちも人を赦します。」と祈ります。わたしたちの負債は既に主イエスによって取り除かれており、この赦しに基づいて、私たちは他の人を罪に定めるのではなく、赦し合って友となることへと促されていくのです。
 今日の聖書日課福音書の「不正な管理人」の箇所を理解するには、主イエスの十字架によって私たちの負債がすべて帳消しにされていることを受け容れる信仰が必要です。また、この例え話から、その信仰の養いと導きを与えられますように。
 私たちの負債をすべて引き受けて私たちの本当の友となってくださったことによって、私たちは喜んで主人である神の御前に進み出てる事ができます。そしてこの信仰に基づいて、私たちは周りの人々に「あなたの負債も主イエスを通して完全に帳消しにされています」と伝えることが出来るのです。
 主イエスの愛を受けた私たちは、他の人々の負い目や重荷を共に担い、互いに友となることが出来るように導かれて参りましょう。 
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2022年09月11日

失った羊一匹のために  ルカによる福音書15:1-10    2022.09.11

失った羊一匹のために  ルカによる福音書15:1-10   聖霊降臨後第15主日(特定19)  2022.09.11
 
 主よ、どうか私たちのところに来て下って私たちの心を治め、共いて下さり、あなたの御言葉によって私たちを養い、導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
 今日の福音書、ルカによる福音書第15章は、多くの人に知られまた好まれている箇所です。この箇所は「福音の中の福音」とも言われ、主イエスの教えと行いを理解する上で分かり易い箇所であり、また主イエスのなさった例え話の中でも、主なる神の御心を伝える上での一番中心にあることが記されている箇所であるとも言えます。
 今日の福音書から、ルカ第15章10節の御言葉をもう一度思い起こしてみましょう。
 「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
 仮に、私に10人の子どもがいるとして、彼らに平等に接するとすれば、物については10分の1ずつ分け与えることになるでしょう。でも、私が子供を愛する時には愛は10分の1ずつになるわけではありません。私は親として一人ひとりの存在を喜び、10人それぞれの性格を知り、10人の子供それぞれに十分な関わりを持ち、そこに10通りの関係があり、どの子どものことも可愛がるでしょう。私は、10人の誰もが大切であり、もし出来が悪かったりして手を焼く子供がいれば、その子供が気がかりで、心を痛め、一層関わらないわけにはいかない事になるでしょう。それは、10人いる自分の子供の誰一人として失われてはならず、むなしく滅び去ったりしてはならないと思う親としての愛があるからです。
 神の愛は全ての人に与えられていますが、それは均質的でも画一的でもありません。
 今日の聖書日課福音書の「見失った羊」やそれに続く「無くなった銀貨」の例えには、当時のユダヤ社会の中で、権力を握る指導者たちが考えていた救いの約束の枠からはじき出されて神の御心から遠く離れ去ったように見える人に対する神の愛が描かれています。
 主イエスが、つとめて交わりを持ち、愛を注がれたのは、100匹いるはずの中の失われた一匹の羊のような人々であり、10枚揃っているはずのうち無くなってしまった一枚の銀貨のような人たちでした。彼らは、正統なユダヤ教の信仰を持つ人々からは、邪魔者扱いされ、罪人扱いされ、交わりを絶たれていました。その一方で、ユダヤ教の中心にある人々は、自分たちを救われた者の側に置いていました。その代表的な存在がファリサイ派です。ファリサイとは「分離した」「分けられた」という意味があり、自分たちを神に選び分けられた者と位置づけて、この「ファリサイ」という名称も、この人々自身によって名付けられたとも考えられています。彼らは、自分たちを神に選ばれ分けられた者と位置づけ、その枠に入れない人々、落ちこぼれた人々を「地の民」と呼んで蔑んでいたのでした。
 ファリサイ派には次のような規約があったと伝えられています。
 「地の民には金を預けてはならず、何の証言も取ってはならない。秘密を明かしてはならない。孤児の保護を頼んではならない。旅の道連れになってはならない。金を管理させてはならない。」
 ファリサイ派をはじめとする律法の教師や神殿の指導者たちは、民族としての団結をはかり、神との関係を清く保ち、律法に背く事を極度に嫌いました。そして神との間の契約である律法を全うできない人について「罪人が一人でも神の前で抹殺されるなら天に喜びがある」とまで言っていたのです。
 地の民と呼ばれる人々は、こうしたファリサイ派の人々から全く信用されず、取引や売買もたたれ、接触する事を嫌がられました。
 でも、主イエスは罪人呼ばわりされる人や神殿や会堂を追放された人々と交わり、食事を共にしておられました。このような主イエスのお姿を見るとユダヤ教徒たちは心の底から驚き腹を立てました。ファリサイ派の人々にとって、主イエスのように地の民と交わる事は自分を汚す事であり、自分も汚れた者つまり罪人になる事に他なりませんでした。
 こうした状況で、主イエスがファリサイ派の人々や律法の専門家に向かってお話しになったのが今日の福音書です。
 その始めに、主イエスは失った1匹の羊の例え話をなさいました。
 羊飼いは危険の多い仕事です。荒れた大地の僅かな緑を求めて羊を連れ歩きます。砂漠があり崖がある難しい場所を時に先頭に立ちまた時には後ろに周り、一匹も失う事がないようにと働く羊飼いには、会堂での祈りも決まった時刻の礼拝にも無縁でした。羊一匹一匹に名前を付けその性格も知り抜き、昼も夜も群れを守り導くのが羊飼いの仕事でした。こうした過酷な状況でも自分の羊を一匹も失うまいと懸命に働く羊飼いを思うと、主イエスがこの例えをなさった思いが私たちにも少し見えてくるように思われます。
 例えイスラエルの指導者たちが、貧しい立場の人を裁いてその社会から切り捨てるようなことがあろうとも、主なる神は捨てられた人をどこまでも追い求め、その群れの中に呼び戻そうとして止まないのです。ファリサイ派の人々は「罪人が抹殺されるのが神の喜び」と言うのに対して、主イエスは「失われた罪人が見つけ出され、神の許に迎え入れられる事が天の喜び」だと言うのです。自分を正しい者の側に置く人にとって、罪ある人は救いの外にありますが、主イエスにとってはそうではありません。いつも御声に従って羊飼いのそばにいる羊ばかりではなく、どんな羊であれ最後の一匹までを掛け替えにないものとして愛しぬいてくださいます。その羊飼いにとって羊たちはどれもすべて大切な存在なのだから、もしその中の一匹が迷い出てしまったら、羊飼いはその一匹を探し回る時間も労も厭わないのです。
 罪の中にさまよう者を主なる神自らが尋ね求め探し出し、見つけた羊を抱き寄せ肩に担いでお喜びになるのです。100匹いるのが本来の姿であるのなら、残りの一匹は他の99匹と同じように大切であり、人が神の御許に立ち帰る事は天の喜びなのです。
 もう一つの例えである「無くなった銀貨」の例えも同じ事を意味しています。
銀貨は10枚そろえて輪飾りのようにして、婚礼などの特別な喜びのしるしとして用いました。一枚欠けても、貨幣として9枚分の価値はあるものの、すべてが存在していることに込められる特別な喜びは失われるのです。私たちも一人ひとりが神の喜びを示す銀貨のような存在である事を心に留めたいと思うのです。
 今日の使徒書テモテの手紙Ⅰ第1章15節で、パウロは「わたしはその罪人の中で最たる者です」と言っています。これはパウロが自分の信仰を「私は神の愛と赦しを一番必要とする者なのだ」と言って表明している言葉です。「自分は、羊飼いである主イエスに真っ先に探し出されなければならない、そしてその羊飼いに付いていかねばならない」と言う自覚があり、その自覚に基づいてパウロは「私は罪人の中の最たる者です」と言っています。
 私たちが自分を愛する以上に、神は私たち一人ひとりを受け入れて愛し、導いてくださっています。この神によって私は導かれたいし導かれねばならないとパウロは言います。この祈りはパウロの祈りであると同時に私たちの祈りです。主イエスは、まことの羊飼いとして、ご自身が傷つき十字架の上に身を投げ出してまで、私たちを見つけ出し、招き寄せてくださいました。この羊飼いの導きによって私たちが神の愛に立ち返る時、神の許に大きな喜びがあるのです。
 そうであれば、私たちが自分で「私のような不信仰な者が・・・」と言って神に近づく事をためらうのは、かえって神の愛を損ない、神の招きを拒むことになり、それは失礼なことになり、私を探し当ててくださった神の愛を無駄にする事になるでしょう。
 私たち一人ひとりがそれぞれに他ならぬその人として神に愛され、招かれています。私たち一人ひとりが主イエスに名を呼ばれ、連れ戻され、神の愛の中で生きる恵みを与えられている事を覚え、多くの人を神の群れに招き入れる働きが出来るように力づけられる者でありたいと思います。
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2022年09月04日

御心を優先する(自分の十字架を負う)  ルカによる福音書14:25-33  2022.09.04

御心を優先する(自分の十字架を負う) ルカによる福音書14:25-33 聖霊降臨後第13主日(特定18)  2022.09.04

 今日の聖書日課福音書から、ルカによる福音書再14章26節の御言葉をもう一度読んでみましょう。
 「もし、誰かがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではあり得ない。」
 このみ言葉は、多くの人がどのように受け止めたら良いのか戸惑い、或いは心を揺さぶられるような思いになるみ言葉なのではないでしょうか。
 この箇所を理解するために、先ず、ここで「憎む」と訳されている言葉について理解しておきましょう。
 日本語の「憎む」は「いやな相手として嫌う」、「腹立たしく思う」という意味で、感情的な意味合いが強いと言えますが、この箇所で「憎む」と訳される元の言葉はギリシャ語でμισεω(ミセオー)という言葉で、日本語の「憎む」という言葉の意味内容とは随分その範囲に違いがあります。μισεω(ミセオー)というギリシャ語やこのギリシャ語に対応するヘブライ語でのsana(サーナー)という語の意味には、感情的に嫌う」という意味より「なおざりにする(気にかけずそのままにする)」、「軽視する」という意味に重心があります。
 例えば、好きな食べ物(うどんと蕎麦)があって、うどんより蕎麦の方が好きだという時に、その両者の比較において「私は蕎麦が好きでうどんは嫌いです」と言う表現になるのです。今日の福音書の「μισεω(ミセオー)憎む」という言葉についても、主イエスは両親をはじめとする家族を否定的な感情を込めて「憎め」と言っておられるのではなく、主イエスに従おうとする者に、その大前提として、主イエスに従うことを最優先する覚悟があるかを問うておられるということを理解しておきましょう。
 主イエスは、今日の聖書日課福音書の中で、いつどのような場合にも神の御心を求めることを第1とすることを教えておられ、弟子として主イエスに従おうとするのなら、そのことを最優先して、その他のことはそれによって位置づけられ正しい意味を与えられるようにすることを教えておられるのです。
 十戒の第5は「あなたの父と母を敬いなさい」です。主イエスはこの戒めを否定しているわけではなく、自分の肉親家族を絶対化することを避け、先ず神の御心を求めることを最優先する中に自分の家族を愛することも位置づけられるのです。
 今、主イエスの後を追う多くの人々には、それぞれにイエスに付いていこうとする動機や下心がありました。それらは決してすべてが不純な思いからであったり自分中心的なものであったわけではなかったでしょう。
でも、主イエスの後から付いてくる人々の多くの思いは、自分の個人的な願いが満たされることが第一であり、自分を通して主なる神の御心が行われることを最も大切にしているわけではないことが主イエスにはお見通しであったのではないでしょうか。
 主イエスは、「もし誰でも主なる神の御心を一番大切なものとしないのなら、誰も本当に私の弟子ではあり得ない」という意味で冒頭に取り上げた言葉を用いておられるのです。
 ここで主イエスさまが言っておられることを言い替えてみると次のようになるでしょう。
 「私のもとに来ても、神の愛を根底に置く者でないのであれば、私の本当の弟子ではあり得ない。」
 このように理解すると、私たちはそれに続く27節で「自分の十字架を負って、私に付いてくる者でなければ、私の弟子ではあり得ない。」という主イエスの言葉をより身近に理解できるのではないでしょうか。
 なぜなら、神の御心を生きることは、自分が神から与えられた自分の使命を生きることは、分けることの出来ない一つのことであり、私たちは誰もが自分の十字架の重さを感じないわけにはいきません。でも、十字架が重いからと言ってそれを担うことを止めてしまっては主イエスの弟子ではあり得ないのです。
 私たちが主イエスに従って生きるとき、主イエスに無理解なこの世との間にある矛盾や理想と現実の違いを見ざるを得なくなります。でも、その痛みを投げ出さずに、「御国が来ますように、御心が天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈りつつ、主なる神の御心の実現のために生きることが「自分の十字架を背負う」と言うことであり、私たちはどこまでも主イエスの導きに従って生きていくことを求められているのです。
 私たちは、家族や親族の中に於いても、そこでの人間関係の故に御心を脇に置いて済ませるのではなく、その場に神の御心が行われるように主イエスの弟子として遣わされているのです。
 主イエスは、当時のユダヤ社会の中で、その矛盾と葛藤の中に生きて、そこに神の御心が現れ出るように生き抜き、最後にはゴルゴタの丘で十字架につけられました。
 私たちはこの主イエスを救い主として愛し、ここから家族のことも、家のことも考えて、具体的な課題を担うのです。
 これは、観念的なことや抽象的なことではなく、私たちの生活の中で極めて具体的なことなのではないでしょうか。例えば、独裁的な権力者の治める国を見てみれば分かるように、主イエスが示してくださった働きを自分も弟子の一人となってこの世界に示していくことは、必ずしもいつもこの世に受け入れらて、その計画がうまく進むとは限らないのです。ことに弱い人や貧しい人々を締め付けてその上にあぐらをかく権力者にとって、かつて預言者たちが語ったことや主イエスの示した愛や自由や平等は邪魔であり、それゆえにキリスト教会は2000年の歴史の中で迫害を受けることも度々でした。
 私たちの日常生活に於いても、それと同じことが、その規模は違うにしても、数限りなく起こっています。そして、こうした課題は、社会の小さな単位である家族の中にも親しい仲間との人間関係の中にも存在し、私たちはそのような場面で、主イエスの弟子として、先ず主イエスに従うことを基盤に据えて働くことを求められています。
 主イエスは、「先ず神の国と神の義を求めなさい」と教えてくださいました。私たちがそのように生きる時、親、兄弟、親族のことから自分の命のことまでが主イエスによって位置づけられ、大きな救いの中に意味づけられてくるでしょう。
 今日の聖書日課福音書で注目しておきたいのは、主イエスは先頭に立ってエルサレムの十字架に向かって歩んでおられること、そしてその主イエスの後から付いてくる人たちのことを振り返って、主イエスはこの教えを述べておられるということです。ルカによる福音書では先頭を行く主イエスが振り返ってお話しになるのは、いつも大切なことを告げる時のことでした。
 振り返った主イエスの眼差しを受けた人たちは、自分が赦され愛され導かれている事を確認し、自分の十字架を負う人へと導かれていきました。私たちもまた自分の十字架を負って歩もうとしており、私たちに先立って歩んでくださる主イエスが私たちを振り返り導いてくださることを覚えたいのです。
 主イエスを自分の中心に据えて生きる人は、この世界のそこここに、御心から離れた実態が見えてきます。そのような中で生きる私たちは、ただ一人孤独のうちに自分の十字架を担うのではなく、主イエスが共にその十字架を背負っ歩んでくださることに気付きます。
 私たちは主イエスが十字架の死の先にまで生きてくださり、そこに開いてくださった永遠の命へと私たちを導いてくださる確かさ与えられています。私たちは、いつも自分の中心に主イエスがいてくださることを信じて、導かれる信仰を確かにしていくことが出来ますように。

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2022年08月28日

末座に着く ルカによる福音書14:7-14 聖霊降臨後第12主日(特定17)    

末座に着く     ルカによる福音書14:7-14        聖霊降臨後第12主日(特定17)    2022.08.27


 主イエスは沢山の譬え話をなさっていますが、その多くは神の国に関するものです。今日の福音書日課の中でも、主イエスは譬えによって神さまの支配する国はどのよう姿であるのかを説いておれるます。
 今日の福音書日課の個所で、主イエスが話をしているのは、「ある安息日」のことであり、場所は「あるファリサイ派の議員の家」です。
 主イエスは既に公にファリサイ派や律法の専門家を厳しい言葉で非難しておられますし、ファリサイ派はこの町に来られた主イエスに「ここを立ち去ってください」と言っています。この場面で、主イエスはこの「ファリサイ派の議員の家」に親しい交わりに招かれたのではなく、ユダヤ議会の議員であるこの人が、主イエスを取り調べて批判し、主イエスと弟子たちの一行がエルサレムに上っていくことを止めさせる意図があったと思われます。
 主イエスは、そのような人びとに向かって、婚礼の祝宴に招待された時に自分は上座に着くのに相応しいと自惚れる者は恥をかいて末座に着くことになり、末座に座る人は上席に座るようにすすめられて面目をほどこすことになる、と言っておられます。
 ここで主イエスが教えておられるのは、この世の処世術や社交上のエチケットではありませんし、謙遜の勧めでもありません。そうではなく、私たちはこの御言葉によって主イエスから「あなたは自分をどこに座る者だと思っているのか」と厳しく問いかけられているのであり、また主イエスご自身がそうなさったように私たちも主イエスに伴われて末座に生きるよう、つまり神と人々に仕えて生きるように勧められているのです。
 先ほども触れたように、ルカ14章1節を見てみると、「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになった」と記されています。主イエスの周りには、幾人かの律法の専門家やファリサイ派の人々がイエスを取り囲むようにしていたことでしょう。
 今日の聖書日課福音書の例え話で主イエスが例えておられるとおり、ファリサイ派の人々は自分たちこそ神の喜びの宴に招かれるのに相応しい者、宴席では自分たちが上座に着くのに相応しいと考えていました。
 その一方で、この世の中には、ファイリサイ派のように律法をしっかりと守りながら生活することが出来ない人たちも大勢います。例えば、当時の病人は、「悪霊に取り憑かれた者」とみなされたり「罪の結果が身に表れている者」と考えらていました。ユダヤ教の指導者たちは、イスラエル民族の救いを説き、病の者や律法に反する者を批判し、異国人、そしてその異国人を相手にして外国の貨幣を扱う徴税人たちも救いの外にいる者として扱いました。
 このような人々は、ファリサイ派の人から汚れた者として軽蔑され、時には罵られ、抑圧されています。ファイリサイ派の人々は自分たちが彼らを傷付けている事についての自覚や痛みを覚えることもなく、「我々は彼らとは違って神の約束した救いに与るように選ばれている」と考えていました。そして神殿の中で「神よ、あのような者でないことを感謝します」と祈りました。
 主イエスはこうした人々のことを「上座に着く者」と表現なさったのです。
 主イエスには、ユダヤ教の指導者たちが教える神の国は主なる神の御心とは全く違うものに思われたのでしょう。また、神による救いとは本当に当時の指導者たちが考えたようなものとは思えず、神の国はファリサイ派や律法学者が教えるようなことによって実現するのではないと思えたことでしょう。
 今日の主イエスの譬え話は、律法の専門家やファリサイ派にとってはとても厳しい問いかけになり、彼らを揺さぶります。主イエスの教えに拠れば、神の国で上席に着くのは律法の文言を字句通りに守る事で与えられるのではありませんし、救いは貧しく弱くされた人々を切り捨てて得られるのでもありません。そうではなく、自分も低く貧しくなりそこから見えてくる神の御心に導かれるように主イエスは教えておられるのです。
 このことは、旧約聖書の律法に対する態度のことだけに留まらず、私たちの信仰生活の在り方についても同じ事が言えるのではないでしょうか。
 もし私たちも、自分を信仰深い者として、その自分を自身を誇り、そうではない人を顧みずに切り捨てるのであれば、ファリサイ派と同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。私たちも救いの宴の上席にいつの間にかあぐらをかく事のないように、今日の福音書日課の御言葉によって主イエスに導かれたいと思うのです。
 主イエスに生かされるということは、主イエスによって自分の心の底まで照らし出され、そのような隠し立ての無い本当の自分が全て主イエスによって赦され受け入れられ肯定されていると信じて生きることです。私たちにとって大切なことは、聖書の言葉を形だけ取り入れることではありません。私たちが主イエスに導かれて、身を低くして神と人々に仕える者となって、そこから見えてくる貧しさや小ささの中にある苦しみや痛みをも背負うことが必要になってきます。そして、完璧にはそのようにできない私たちのことをも主イエスはなお赦し、愛し抜いてくださり共に生きてくださいます。私たちがその主イエスを受け入れることができる時、私たちは主の食卓に招かれていることを喜びとし、その宴の末座におかれている事を感謝できるのです。
 主イエスは他の個所でこう言っておられます。
 「人の子が来たのも仕えられるためではなく仕えるためであり、また、多くの人の贖いとして自分の命を与えるためである。」
 主イエスは、ご自身を十字架の上に曝してまでこの世界と私たちを愛して仕えることに徹して下さいました。そこに示された完全な愛に照らされることを通して、私たちは信仰者としての自分をもう一度立たせられ、仕える働きをする者の末席に加えられるのです。
 パウロは、フィリピ書2章6-7節で、主イエスの謙遜について、次のように記しています。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」
 更にパウロは、キリストはへりくだって死に至るまで神の御心に従順であり、神はこのキリスト・イエスを高く挙げられた、と続けています。
 このパウロの視点から、今日の聖書日課福音書をあらためて見直してみると、宴席の一番末座に着いて一番の上席にまで引き上げられたのが主イエスご自身である事がはっきりしてきます。私たちは本来なら、主イエスによって催されるこの感謝の祝宴の末座にも与ることさえ出来なかった者です。そのような私たちのことも、主イエスは招いてくださいました。たとえ私たちには特別な業績がなくても、胸の内には多くの失敗やその後悔を抱えていたとしても、主イエスの十字架を「我が罪のため」と認める人を神は誰でも喜びの宴にお招きくださり、その主宰者である主イエスが私たちに仕えてくださいます。この宴には社会からはじき出された徴税人や罪人も、重い病気の人たちも招かれています。しかも、本来招かれるはずなどなかった者でもお招き下さった方の愛を信じて受け入れる人は上座へと招かれるのです。
 主イエスは、十字架の死によって黄泉に降った力をもって私たちの所へ降りてきて下さり、甦りの力をもって私たちを御国の宴へと引き上げて下さいます。
 主イエスが主宰してくださるこの聖餐式は、天の国の宴を先取りして表すものであり、私たちはその愛の宴への招きをいただきました。他ならぬ自分にも及んでいる神の愛の深さによって私たちはその宴の席に受け容れられていることを喜び合い、神と人々の交わりの中に生かされています。私たちは、主イエスを通して招かれ、この宴の一員となる喜びを確かに致しましょう。
posted by 聖ルカ住人 at 16:42| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする