2025年03月18日

エルサレムに向かうイエス   ルカによる福音書第13章31-35   大斎節第2主日

エルサレムに向かうイエス    ルカによる福音書第133135   大斎節第2主日   2025.03.16


 主イエスはエルサレムに向かって歩み始めようとしておられます。神の国の教えを説き、人々に癒やしや浄めを与えながら、主イエスはエルサレムに向かって歩みを起こそうとしておられます。するとそこへファリサイ派の人々がやってきて、「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」と伝えました。ファリサイ派は、日頃から主イエスに対して反感を持っていました。彼らは、主イエスの教えや行いが当時の社会秩序を乱しており、神を侮辱していると考えて、主イエスを監視するようにつきまとっていたのです。

 ファリサイ派は主イエスに「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と言いますが、彼らは何とかして主イエスと弟子たちがエルサレムに上っていくのを阻止しようとします。

 ファリサイ派はヘロデの名を持ちだしていますが、このヘロデは、ヘロデ・アンティパスのことで、ヘロデ大王の息子です。その父親のヘロデ大王は、占星術の学者たちから「新しい王の誕生」の情報を得て、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を惨殺しました。息子のヘロデ・アンティパスは当時ガリラヤ地方とペレヤ地方の領主であり、ローマの権力の下で、その操り人形のようになってその地方を治めていました。ヘロデは、自分の領地にもめ事が起こることを嫌いました。それは領主としての力量をローマ皇帝から問われることと考えたのです。ヘロデは、自分の治めていたガリラヤ出身のイエスがエルサレムに上って行って何か面倒を起こせば、ガリラヤ領主である自分の評判が落ちると考えたのでしょう。

 当時の様子を記したユダヤの歴史書の中に、このヘロデ・アンティパスについてこう記されているところがあります。

 「ヘロデ・アンティパスは静かな生活を愛した。」

 私たちは、このヘロデ・アンティパスの愛した「静かな生活」の内実をよく見据えておく必要があります。彼は洗礼者ヨハネを殺した人物です。ヘロデは自分の兄弟の妻ヘロディアを奪いました。多くの人は、ヘロデを恐れてこの件について何も言いませんでした。でも、洗礼者ヨハネがヘロデのことを公然と批判したため、ヘロデは洗礼者ヨハネを捕らえて牢獄に入れました。

 もし、ヘロデが「静かな生活」を愛する人だとしたら、ヘロデの愛したその「静かな生活」は、他の人々を威圧し、自分の不道徳を批判する人を殺し、神の御心を示そうとする人を否定するような、重苦しい、不自由な「静けさ」であると言えるでしょう。

 ファリサイ派の人がヘロデのことを持ち出して主イエスに話しかけてきたことにも、主イエスをエルサレムに行かせたない下心があります。それは、ナザレ出身の田舎者イエスによって聖なる都エルサレムに波風を立たされたくない、という意図があったことでしょう。

 主イエスはファリサイ派の言葉に応えて言います。

 「私は、今日も明日も、その次の日も進んでいかねばばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、あり得ないからだ。」

 主イエスは「エルサレムに進んでいかねばならない」と言っておられますが、この言葉は、「私がエルサレムに進んで行くことは、神のお考えによって必ずそうなるに決まっている」という意味です。つまり、主イエスがこれからエルサレム行くことは神の意思と計画によることであり、ヘロデが自分を殺そうとしているとか祭司長たちが自分を追放するだろうとかいうことで左右されることではないのです。主イエスがエルサレムに行くことで、主なる神によるこの世界の人々の救いが実現するのです。ヘロデ王やファリサイ派も主イエスを殺す役割をとることでこの世の罪が顕わにされて、その出来事を通して神は御心をこの世界に示すことになります。主イエスは、今、その途上におられるのです。

 今日の聖書日課福音書には、主イエスがエルサレムに向かう固い意志が伺えます。自分に都合が良いかどうか、心地よいことかどうか、興味あることかどうかという次元を遙かに越えて、自分を通して神の御心が実現していくこと、「私の思いではなくあなたの御心が行われますように」と祈り求めて歩む主イエスの姿がここに示されています。

 そして、それだけに御心が行われることを阻もうとするヘロデやファリサイ派に対して、主イエスは厳しい言葉で批判しておられるのです。それは政治的にも宗教的にも中心地であったエルサレムを批判する言葉によって表現されています。

 主イエスはエルサレムを「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」とまで言っておられます。

 エルサレムは紀元前1000年の頃、ダビデ王の時代に古代イスラエルの首都とされ、その息子ソロモンの時代には立派な神殿が建てられ、エルサレムはイスラエルの中心として大切な場所であり続けてきました。エルサレムは詩編の中などではしばしば「神の都」として賛美され、イスラエルの民にとってエルサレムは「神の国」という意味さえ込めて用いられてきました。しかし、主イエスは、このように「神の都」「神の国」と呼ばれる場所で、神の言葉が疎かにされ、支配者たちの保身と維持のために多くの預言者が殺されてきたと言っておられます。

 私たちが神の言葉と向き合うとき、ヘロデが平穏でいられなくなりファリサイ派がイエスを封じようとしたように、私たちも主イエスの厳しい言葉に安穏としていられなくなることがあるのではないでしょうか。神の言葉と真剣に向き合うことは、時に、自分の中の罪と向き合わされることになります。そして、主イエスのみ言葉は私たちに悔い改めを迫ることもあります。その時多くの人は、主のみ言葉が真理であるが故に、そのみ言葉を避けたくなるのです。ヘロデはみ言葉を突きつけた洗礼者ヨハネを捕らえて牢に入れました。また、ファリサイ派の人々も律法から発生したしきたりを口伝律法として大切にしましたが、それは自分の身を守り、そうできな人を罪人と決めつけるためであり、それを批判するイエスを嫌いました。主イエスは、このようなファリサイ派の人々を「白く塗られた墓である」とまで言って、彼らの生き方を批判しておられます。当時のエルサレムは、祭司階級などその体制から利益を受けている人々が支配していました。彼らは聖書の言葉を聞くときにも、自分たちの好む耳触り良い言葉を都合良く解釈し、自分の存在を根底から振り動かすような厳しい預言者の言葉は抹殺していたのです。

 主イエスはイスラエルの中心であるエルサレムに向かって歩みを進めていかれますが、今日はこの主イエスを私たちの心の中心に向かうイエスと捕らえてみようと思います。ヘロデやファリサイ派も自分の内にいるヘロデやファリサイ派と考えてみましょう。主イエスは、私たちの心の一番真ん中に進んできておられます。主イエスは私たちの「心の世界」の中心に向かって歩んでおられることを意味します。私たちが神の言葉によって自分の一番中心のところでイエスから生き方を問われ、揺り動かされ、本当に神の御心に適う者となるように、主イエスは私たちの心の真ん中に進んで来られるのです。

 ヘロデやファリサイ派にとっては、エルサレムに向かう主イエスは自分たちの平穏を乱す邪魔者であり、厄介者でした。それは、主イエスが、彼らが認めたくない彼らの罪に迫るからです。私たちにとって、神の言葉は今どのように私たちの心に真ん中に働きかけているのでしょう。神の言葉は、私たちを根底から支え、私たちに慰めや励ましを与えますが、その一方、私たちは、悪魔が聖書の言葉を自分の都合の良いように用いて私たちを神の御心から引き離そうと誘惑することも知っています。

 主イエスがエルサレムに向かうのは、神の計画がそこで実現するためであり、それはイスラエルの民の中心に神の御心が据えられるためです。そして、それは、私たちの心の中心に主イエスがいてくださり、私たちの中に神の国が実現することでもあるのです。主イエスのエルサレムへの歩みは、私たちの罪が主イエスによって担われ、新しい命の世界へと私たちを導いてくださる歩みです。

 主イエスは、「めん鳥が雛を御翼の下に集めるように」私たちを完全な赦しと祝福の中に招いてくださっています。私たちは主イエスに導かれて、主イエスによって、全ての罪の赦しと甦りの命の与らせていただきましょう。


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2025年03月11日

み言葉に従う  ルカによる福音書第4章1-13    大斎節第1主日 

み言葉に従う   ルカによる福音書第4章1-13    C年 大斎節第1主日   2025.03.09


2025年3月9日 大斎節第一主日 説教小野寺達司祭 (当日の説教の録画)


 教会暦は、先の水曜日に大斎始日を迎え、きょうは大斎節第1主日です。

 今日の聖書日課福音書はルカによる福音書第4章1節からの箇所です。この箇所には、主イエスが荒れ野で40日間断食をなさり、そこで悪魔の誘惑に打ち勝って、公に宣教の働きを始められた物語が取り上げられています。

 悪魔の誘惑について、自分自身の課題のこととして思い巡らせるとき、私は説教をする自分に働きかける悪魔の誘いのことを考えました。

 若い頃、教会の務めに与る者として、自分にもっと何か特別な才能や技量があったらいいのに、と思うことがありました。例えば、私がクリフリチャードのような教役者の歌手であったり、シュバイツアーのようなオルガンの演奏者であったり、その技術で沢山の人を教会に招くことが出来れば良いのにとか、音楽のロックバンドを編成して礼拝音楽をバラエティに富んだものにして若い人にも興味を持たせるようにするとか、超一流の落語家のように話芸や話術に長けて笑いの中にも深い感銘を与える説教ができるとか、あるいは腹話術のような芸を交えて親しみのある説教が出来るとか・・。そうすれば、もっと教会に興味や関心を持つ人が増え、それが契機となって、信仰へと向かう決心する人が起こされるのではないだろうかなどと思い考えたこともありました。

 でも、そのように考えて行き着くところは、自分にそのような才能や技量がなくて良かったということでした。もし自分に何か特別な技量があって、それによって礼拝の司式や説教をする可能性があるとしたら、それは私の役目ではなくて、主なる神がその才能や技量を与えた人を召し出しておられるはずだ、と思うのです。いや、むしろ今の自分にそのような才能や技量が付け加わったら、私はその才能や技量に頼って、かえって自分に与えられた使命の本質を忘れ、丹念に聖書の御言葉を取り次いでいくことや人々と関わる務めをおろそかにしてしまうかも知れないと思うのです。そして、私に特別な才能や技量が与えられていないことは司祭である自分にとっての恵みなのだと思うのです。そればかりか、今の私が更に特別な才能や技量を求めることは、悪魔の誘惑に引き込まれてしまうことかも知れないと思うのです。

 主イエスは40日に渡って断食をし、この世界に神の御心をどのように示していくべきか深く思い巡らせたことでしょう。

 主イエスがそのことを思い祈っている間に、悪魔が近づき、イエスは様々な誘惑を受けました。悪魔は主イエスを、石をパンに変えてみよ、この世を支配するために神ではないものを拝め、神殿の端から飛び降りてあなたが神の子であることを証明してみよ、と誘惑しました。それらの誘惑を通して、悪魔はイエスに「あなたがセンセーショナルな働きをして多くの民衆の心を掴むことで、目に見える成果が得られますよ」と誘っているのでしょう。

 具体的には、悪魔は、三つの誘惑をしていますが、今日は、その3つ目の誘惑の言葉に注目してみましょう。悪魔は、主イエスを神殿の一番高い端に立たせ「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」と言っています。

 もし、主イエスがこの悪魔の誘いに促されて、神殿の端から飛び降りたとしましょう。神殿の上からケデロンの谷まで高さは50メートル以上あるといわれています。そこを飛び降りたイエスを天使が支えたとしたら、多くの人が驚いて、イエスは世間の評判を得て、もてはやされるようになることでしょう。当時、エルサレム神殿の端から地面まで50メートル以上あったと伝えられています。

 もし、多くの人が注目する中で、イエスが神殿の屋根から飛び降りると、詩編第第91編のみ言葉のとおりに天使が支え、現代であればマスコミがこのイエスに注目し、主イエスは「神殿の屋根から飛び降りる男」ということで一躍有名になり、多くの人が主イエスを追いかけ始めることでしょう。

 主イエスはそのようなセンセーショナルな出来事の中に潜む悪魔の誘惑を見抜いておられるのです。自分が神殿の頂上から飛び降りて、たとえそれを天使たちが支えたところで、それは神の御心を現すことにはなりません。

 もし、そのようにしたくなる人がいるとすれば、そのようにして注目を浴びて、驚きや賞賛の眼差しを向けてもらえることが嬉しいからなのでしょう。でも、世間をアッと言わせるような行為が、本当に神のお考えを実現するしるしになっているのかと改めて問い直してみると、その答が「No!」であることは明らかなことなのです。

 人は誰でも他の人から認められたいし、愛されたいという潜在的な欲求があります。悪魔は、私たちのそのような欲求に巧みに誘いかけてきます。私たちが周りから注目されていることに快感を覚えて、更に愛とは異なる他人の注目を求めるようになるうちに、自分でも気付かないうちにいつの間にか神の御心から大きく逸れて、神の御心が行われることより自分の思いを押し通すことに気持ちが向いて、自分の都合の良いように神の言葉を用いる傲慢へと引きずり込まれ易いのです。悪魔はそのようにして私たちを神から大きく引き離してしまおうと、あらゆる機会をに働きかけてくるのです。

 しかも、悪魔は主イエスを試みるとき、その手段として聖書の言葉を利用しています。神の言葉は人間が他人を操作するために用いられるべきではなく、他の誰でもない自分が神からの養いと導きを受けるために与えられるものなのです。

 私たちが神の言葉を受けて御心をこの世界に表していくことは、決して奇抜な方法や特別な能力によって人々を一時的に引きつけることで全うできるようなことではありません。たとえ神殿のてっぺんから飛び降りて天使たちが支えたとしても、それは主なる神の御心を証しすることとはかけ離れていることを主イエスは良く知っておられたのです。イエスが注目されることと、神の御心が自分を通して現れ出るように生き抜くこととは、全く違うことなのです。

 主イエスは、十字架に架けられる前の晩にゲッセマネの園で「私の思いではなく、あなたの御心が行われますように」と血の汗を流して神に祈っておられます。その祈りは、おそらく主イエスが宣教のはじめに40日にわたり断食して祈り通す中で、練り上げられ、主イエスの宣教の中心にしっかり据えられていったことと思われます。

 大斎節に入って最初の主日である今日、私たちは主イエスが荒れ野で40日間断食し悪魔の試みをお受けになった物語を与えられました。大斎節の主日のテーマは、次第に主イエスの十字架に向けられていきます。私たちがこのような教会暦の中で生きるのは、私たちが主イエスに導かれ、悪魔の誘惑を退け、古い自分を脱ぎ捨てて、主イエスの甦りにあずかるためです。

 主イエスの宣教の働き(公生涯)は、悪魔の誘惑に打ち勝つことから始まりました。それは、主イエスの公の働きが、自分がヒーローになることを求めるのではなく、神の御心をこの世に示し、人々を真の神の救いに導くことにあることを確認する時であったと言えるでしょう。

 私たちも、この主イエスの働きに倣い、み言葉に導かれ、養われ、悪魔の誘惑に気づき、主イエスの御名によって悪の誘惑に打ち勝ち、それぞれの生活を通して、神の御心をこの世界に実現する働きに与りたいのです。

 私たちはこの大斎節に、自分の願いや求めが何に基づいているのかを振り返り、そこに働く悪魔の誘惑に気づき、主イエスの御名によって、それに打ち克つことができるように導かれましょう。大斎節を通して、主イエスに導かれ、主イエスの甦りの命を共にする喜びを与えられますように。

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2025年03月03日

主イエスの旅立ち  ルカよる福音書第9章28-36  大斎節前主日

主イエスのエクソドス  ルカよる福音書第9章2836  大斎節前主日    2025.03.02


 大斎節直前の主日を迎えました。今日の聖書日課福音書には、いわゆるイエスの変容貌の物語が与えられています。

 主イエスさまは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子を連れて山に登って行かれました。主イエスのお姿は、祈っておられるうちに白く目映く輝きました。そして、そこにモーセとエリヤが現れ、主イエスはこの二人と話し合っておられます。その一方、3人の弟子たちはこの光景を見ながらも眠気に襲われます。やがて彼らは雲に包まれ、「これは私の子、私の選んだ者、これに聞け」という御声を聞いたのでした。

 この「主イエス変容貌」のことは、マタイ、マルコ、ルカの3福音書に記されています。その話の大筋は同じですが、各福音書の記述にはそれぞれの特徴があります。ルカによる福音書における一番の特徴は、イエス、モーセ、エリヤの3人が話し合っていた内容をはっきりと記していることです。それは、第9章31節に「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて話していた」と記されています。

 この「最後のこと」という言葉に注目してみましょう。この第931節の箇所を他の私訳聖書『小さくされた人々のための福音』(本田哲郎訳)では次のように訳しています。

 「二人は輝きにつつまれて、やがてエルサレムでなしとげられるイエスの『旅立ち』について、話していた」。

 この「最後」、「旅立ち」と訳された言葉の原語は「エクソドス」という言葉です。この言葉は、eκ(外に)という方向を示す接頭語とοdοs(ホドス:道)から成り立っており、「出て行くこと」「出発」「死のさき」などを意味しており、イスラエルの民が昔エジプトの国で奴隷だった時に主なる神によって導き出された「出エジプト」の出来事の意味で用いられたり、またそこから旧約聖書「出エジプト記」を意味する言葉にもなりました。今日の聖書日課福音書の個所で用いられている「最後(エクソドス)」は、主イエスのエルサレムでの十字架の死によるこの世からの旅立ちの意味も含まれていますが、主イエスが死からその先へと進んでいくこと、つまり死からのエクソドスとしての甦りの出来事や、甦った主イエスが小高い山で天に上げられる出来事をも意味していると言えます。そして、このような主イエスの勝利のエクソドスは、十字架の苦しみと死から切り離して考えることもまた出来ないことと言えます。

 今日の聖書日課福音書の主イエス(変容貌の主イエス)の姿を考える時、私たちはどうしても華やかで力強いお姿に目を留めたくなります。山の上で主イエスのお姿が真っ白く輝いた時、ペトロもその輝かしさに心を奪われました。その時ペトロは「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう」と言いました。ペトロはこの山の上に、旧約聖書の律法を代表するモーセと預言者を代表するエリヤと一緒におられる主イエスの輝かしさをいつまでも留めておきたくなりました。でも、その時主イエスがモーセとエリヤと話していたのは、主イエスの苦しみと死の先にある甦りと昇天によって、神の御心が完成すること事への出発(エクソドス)にことだったのです。

 このような主イエスの最後のこと(エクソドス)の内容がどのようなことなのかということは、今日の福音書の個所の前後関係を見てもよく分かります。

 今日の福音書の個所の直ぐ前のところで、主イエスはご自分の死と復活について予告なさいました。そして今日の福音書の後の個所である第9章44節でも主イエスは再びご自身の受難と死について語っておられます。この受難予告の言葉に挟まれるように、主イエスの変容貌の物語が記されています。主イエスは第9章22節で「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と言われ、また、24節で「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、私のために命を失う者はそれを救うのである」と言われました。主イエスの「旅立ち(エクソドス)」は、自分の襲う苦しみを避けて逃げ出す旅立ちではありません。それは、罪人たちの手に渡され、十字架の苦しみと死に向かい、その先にある神の御心の勝利への旅立ち(エクソドス)なのです。

 主イエスのお働きの中で、人々が目を見張るような目覚ましい奇跡や癒しの業はそれ程多くはなく、主イエスの御生涯は全体的には決して華やかではありませんでした。主イエスは、生きる望みを失った人を訪ね、捨てられた人を探し、埃にまみれて各地を巡り歩いて神の国を伝え、日々枕する所もなくお過ごしになりました。そして、その果てに人々から十字架の上に捨てられ、罵られながら死んでいったのでした。しかし神は、このようなイエスこそ神の御心を現す生き方であり、神の御前では輝かしいということを、今日の聖書日課福音書は示しているのです。

 そして、神は35節にあるように「これは私の子、私の選んだ者、これに聞け」と言われました。

 私たちは誰に導かれるべきなのでしょう。人々の物欲をそそりながら雄弁に語る人の言葉を聞くべきなのでしょうか。あるいは多くの財産を築き上げた人の成功物語を聞くべきなのでしょうか。神は、人々の罪を一身に受けて苦しみの死を遂げる主イエスに神の輝きを見てこの人に聞きなさい、と言っておられます。

 当時のイスラエルは救い主(メシア)を待ちこがれていた時代であり、多くの偽メシアが出没していました。中には救い主(メシア)を自称して愛国独立運動の党首になろうとする者やローマの支配の転覆を謀ろうとする者など、様々な自称救い主が現れていました。しかし、神の声は主イエスのおられる山で、弟子たちに「これは私の子、私の選んだ者、これに聞け」と伝えます。

 救い主イエスは、政治的手腕によって人々を導くのではなく、大きな資金を動かして権力を振るうのでもありません。ただただ弱い人々、貧しく小さくされた人々、この世界からはじき出された人々に仕えて生きて下さったのです。

 山を降りると主イエスの宣教のお働きはエルサレムへと向かいます。再びご自身の受難を予告なさって、エルサレムでの最後(エクソドス)に向かって歩き始めます。弟子たちはこの主イエスの言葉を理解出来ず、怖くて誰も尋ねようとしませんでした。

 でも、今日の福音書は、主イエスの栄光は受難の十字架の死と甦りなしにはあり得ないことを教えています。主イエスは、エルサレムに向かってエクソドスの歩みを始めておられます。山の上で現された主イエスの輝きは、この山から下りて人々の悩みや苦しみの中へ、罪の中へとお入りになる中に現れてくるのであり、その輝きが実現されるために主イエスはエルサレムへと向かわれるのです。

 主イエスは、神の御前で一番大きな苦しみと痛みを味わい尽くし、一番大きな喜びと祝福のある世界へと抜け出し、救いを示してくださいました。私たちもこの主イエスの命にあずかって生かされています。主イエスのエクソドスは、私たちが絶えず神の御心に導かれて生きる事を促しています。「これに聞け」という主なる神の御声に従って、私たちも主イエスに導かれて甦りの命に連れて行っていただくのです。

 教会暦では今週の水曜日より大斎節に入ります。今日の福音書からも明らかなように、主イエスの受難をしっかりと見つめることなしには、主イエスの復活を喜ぶことは出来ません。主イエスが低く貧しくなって人々に仕えて働く中に救い主のお姿を見ようとしなければ、私たちは山の上で輝く主イエスの尊さもまた見ることはできないでしょう。

 主イエスの貧しさは私たちの貧しさに降りてくださったしるしであり、そこに神の子の輝きがあります。主イエスの十字架の苦しみは私たちの罪を負って下さった苦しみであり、そこに神の恵みが満ち溢れていることを覚えましょう。そして主イエスがその先へと甦り、天に昇って、私たちのためにもエクソドスの道を開いて下さったことを感謝して、私たちも復活の喜びと希望へと導き出される備えを進めて参りましょう。

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2025年02月25日

敵を愛する愛  ルカによる福音書第6章27-38    顕現後第6主日

敵を愛する愛   ルカによる福音書第6章2738    顕現後第6主日   2025.02.23


当日の説教の動画  2025年2月23日 顕現後第7主日 説教小野寺達司祭 


 主イエスは、今日の聖書日課福音書を通して、私たちに「愛すること」を、しかも徹底した愛を行うことを教えておられます。

 今日の聖書日課福音書の箇所は、「平地の説教」と呼ばれている中にありますが、「平地の説教」と呼ばれるのは、第6章11節に次のように記されていることに拠ります。

 「イエスは彼らと一緒に山を下りて、平地にお立ちになった。」

 マタイによる福音書の並行記事(同じ内容の記事)は、「山上の垂訓(説教)」と呼ばれる箇所にあるのに対して、ルカによる福音書では「平地の説教」と呼ばれる中にこの記事があります。

 「山」が主なる神がそのお姿を示す場でるのに対して、「平地」は主イエスのお働きの舞台、人々との交わりの舞台です。主イエスが天上の尊いお方として描かれるのではなく、人々との交わりの中で、人々の汚れを浄め、悪霊を追い出し、病を癒やしてお働きになって、神の教えを「平地」で述べ伝えておられ、この教えの箇所が「平地の説教」と呼ばれています。

 この「平地の説教」の中で、今日の聖書日課福音書の箇所では、主イエスは、「敵を愛する」ことを教えておられます。

 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。呪う者を祝福し、侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者にはほかの頬も向けなさい。上着を奪い取る者には下着をも拒んではならない(聖書協会共同訳)。」とまで言って、徹底的に他者を愛するように教えておられ、「敵を愛しなさい」という言葉も27節と35節に用いられています。

 私たちはこのような愛を自分の力で実行しようとしても、とてもできないと思えてしまいます。そして、そのようにはできない理由をあれこれ考えて自分を守ろうとします。 

 私もこの福音書を朗読しながら、例えば「このような平和主義や無抵抗主義に限界があるのかもしれない。相手の身勝手や明らかな不義不正をそのままにするのは愛とは違う。愛を誤解して悪の広がりを許してはならない。理想論では悪の拡大を防げない」などと、幾つもの思いが頭をよぎります。でも、私たちは、主イエスのこの教えが実行不可能なきれい事や遠い理想を言っているのではなく、極めて今日的な私たちに差し迫った教えであることに気付く必要があるのです。

 私は、主イエスの「あなたの敵を愛しなさい」という言葉に出会うと、いつも思い起こす本があります。それは、マルチン・ルーサー・キング・Jr牧師の『汝の敵を愛せよ』という題の説教集の中の言葉です。

 マルチン・ルーサー・キング・Jr牧師についてはご存知の方も多いことでしょう。彼はアメリカで人種差別撤廃のために精力的に働き、1964年にノーベル平和賞を受賞しましたが、その4年後に白人のテロリストに撃たれ、39歳の若さで世を去りました。この人の説教集に『汝の敵を愛せよ』という題のものがあり、その説教集の中にこのテーマでの説教があるのです。私は若い頃にこの説教を読んで、差別され虐げらる人がこんなにも広い視野を持って世界の平和を考えているのかと、心を打たれました。

 その説教の中で、マルチン・ルーサー・キング牧師は次のように言っているのです。

 「私たちはこれまであまりにも長い間、物事に対して、いわゆる実践的な方法ばかりを追求してきたので、そのためにずるずると一層深刻な混乱と無秩序におちいってしまった。現代は憎しみと暴力に屈服して崩壊した社会の残骸で満ちている。私たちの国を救い、そして人類を救うために、私たちは別の道を求めなければならない。」

  実際に差別や虐待がはびこる世界に生きて平和を実現していこうとすると、多くの困難に出会います。そこで多くの人はこう考えます。「解決に向かう良い方法はないものか。平和主義や無抵抗には限界がある。それではますます暴力や差別を許すことになる。」そして人は「平和を作る」ことを旗印に暴力を認め、敵対する者との間に一層深刻な混乱と無秩序をつくり出してしまうのです。

 マルチン・ルーサー・キングは、そのような憎しみや暴力によらない「別の道」が必要であり、その「別の道」こそ「敵を愛する」ことだと言うのです。そして、私たちが自分の敵を愛するべき理由をキング牧師はこう述べています。

 「暗闇は暗闇を駆逐することはできないのであって、ただ光だけが出来るのだ。・・・憎しみは憎しみを駆逐することは出来ないのであって、ただ愛だけが出来るのだ。・・・憎しみは憎しみを増し、暴力は暴力を増し、頑なさは破壊の一途をたどりつつ頑なさを増していくのである。したがってイエスがあなたの敵を愛せよと言われるとき、最終的には避けられない深い教えを述べておられるのだ。私たちは、自分の敵を愛さなければならないほど現代の社会の行き詰まりに直面しているのではないだろうか。」

 私たちが今世紀のロシアとウクライナのこと、中東のことなどを考えてみても、あるいはもっと身近な集団や私たちの人間関係を考えてみても、もう半世紀以上も前にキング牧師が語ったことは真理であり、むしろ人が人を愛さなければ解決しない問題は一層深刻になっていると言えるでしょう。

 暴力を捨て憎しみを愛に変えなければ、世界には復讐の連鎖が起こり、自分だけしか愛せない(それは本当は愛ではない)世界は破局をもたらすことを、世界の歴史が表してきました。

 キング牧師が指摘するように、私たちは「愛なき世界が私たちを分裂へ破滅へと引きずり込もうとしている今、あなたはあなたの敵を愛しますか」という厳しい問いが与えられていることに気づかなければなりません。

 敵を愛することは、自分を愛することの表と裏のこと、車の両輪のことであり、神がお造りになって存在する自分と他者を愛することであり、このことは、人として自分と他者を愛して共に成長していくことと深く関わっているのです。

 私たちは他の人を愛することを通して自分を愛することを学びます。もしそれを自分一人の業としてしようとするのであれば、「隣人を愛する」と言っても、結局は自分の仲間だけを自分に都合よく利用するだけのことになってしまうでしょう。そしてそのような人たちによって作り出される世界は、自分のために他者を用いて、自分中心に生きることから抜け出すことが出来ないのです。

 それでも、いや、それだからこそ、主イエスは「あなた方は敵を愛しなさい」と教えてくださるのです。そして主イエスは、自分の命を捨ててまで私たちを愛していてくださることを、ご自身の十字架を通して私たちに示してくださいました。主イエスはこの世界で拡大してくる憎しみ、分裂、仕返しの世界を、神の御心にかなう世界へと愛によって転換してくださったのです。

 愛とは、罪や過ちをそのまま見過ごすことではありません。愛とは、好き嫌いの感情の次元のことでもありません。愛とは、神の御心を生きる意志であり、相手が神の御心を現す器になるように、自分も神の御心を顕すことができるように関わり続けることなのです。

 私たちは、今日の特祷で、愛は神から与えられる「最もすぐれた賜物」であり、この賜物が聖霊によって私たちの心に注がれるように祈りました。私たちはこの「最も優れた賜物」である愛を主イエスを通して与えられています。この世界に神の御心が実現するように、私たちはそれぞれの生活の場でその働き人として養われ導かれていきましょう。

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富める者の不幸 ルカよる福音書第6章17-26       顕現後第6主日

富める者の不幸  ルカよる福音書第6章1726       顕現後第6主日   2025.02.16


 今日の聖書日課福音書で、主イエスは、貧しい人々の幸いとそれに続けて富める人々の不幸について話しておられます。

 今日の聖書日課の後半の箇所をマタイによる福音書の並行箇所と比較してみましょう。

 マタイによる福音書51節からは、「心の貧しい人々は幸いである」という言葉で始まりますが、この箇所を「山上の垂訓」とか「山上の説教」と言います。それに対して、ルカによる福音書の今日の聖書日課となっている個所は「平地の説教」と呼ばれています。

 それは、マタイによる福音書第5章からの個所は、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」という言葉で始まっているように、主イエスが山上で多くの群衆にお話しをなさっていることからそのように呼ばれおり、山は神がご自身を顕わす場所とされていました。旧約聖書の出エジプト記の中でも、モーセが十戒を授かった場所がシナイ山の頂であったことなどにも、山が神の臨在の場という考えが背景にあることが分かります。

 「山上の説教」では、主イエスが貧しい人々の幸いをお話しになっているのに対して、ルカによる福音書6章では、17節で「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」という流れの中で、主イエスが教えを宣べておられ、この箇所は「平地の説教」の個所とも呼ばれています。そして「平地」とは、主イエスが人々と関わり、癒やしや浄めをお与えになった場所であり、神の子イエスが私たちの生活の中にまで降りてきて下さっていることを表していると言えます。

 このマタイとルカの両福音書の並行箇所は、場面の設定が「山の上」と「平地」と対照的であり、またその内容にも注目すべき点があります。

 マタイによる福音書の「山上の説教」では主イエスは8つの幸いから話しを始めているのに対して、ルカによる福音書では「幸い」について4つ伝えながら、それに加えて「不幸(災い)」についてもはっきりと告げておられます。

 ルカ、マタイは、どちらも同じように貧しい者に対する主イエスの眼差しを描いていますが、ルカによる福音書では、この箇所に限らず「富める者」に対する厳しいほどに警告していることを先ず理解しておきましょう。

 ルカによる福音書の中で、この「貧しい人と富める人への視点」ということが強調されている箇所を取りあげてみると、例えば、「マリアの賛歌」の中で、マリアが次のように言っている箇所があります。

 ルカによる福音書第1章51節以下の箇所です。

 「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、

 権力のある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、

 飢えた人を良い物で見たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」

 マリアはこの賛歌で、貧しさや空腹や打ちひしがれて泣く者こそ神がそこにお働きくださる幸いがあると言って、自分に働く神を褒め称えています。

 また、福音記者ルカは、「金持ちとラザロ(ルカ16:19-)」などにも貧しい者にこそ神の恵みと祝福が及ぶべきことを伝えています。金持ちが自分の家の門前にいた貧しいラザロに無関心であったために、二人は死後には立場が逆転して、ラザロはアブラハムの懐に憩い、金持ちは陰府に苦しむことを伝えています。

 私たちは、社会的に強い権力を持つことや物の豊かさの中に生きることが神の祝福を証ししていると考えることもあるかと思いますが、主イエスは権力者や富める者が神の祝福を受けることはそれ程易しいことではないと教えておられ、また、富める者が知らない間に神の御心から離れてしまう恐ろしさについても、私たちはよくよく心得ておかなければならないのではないでしょうか。

 こうした視点をもって「富める者の不幸(災い)」について考える時、私はトルストイの小品集の中の一つの物語を思い起こすのです。それは、「大悪魔と小悪魔」の話です。

 大悪魔が小悪魔に、ぶどう園の農夫を堕落させるように命じました。小悪魔はぶどう園に出かけて行って、その農夫に嫌がらせを始めます。ぶどう園に石ころや瓦礫を投げ込んだり雑草の種を蒔いたり、さんざんにイタズラををするのですが、農夫はそれに負けずますますぶどう園を整えて更に収穫を上げるのです。とうとう小悪魔は諦めて大悪魔のところに戻って、自分にはあの農夫を悪人にすることは出来なかったと言いました。すると大悪魔は、そんなやり方ではだめだと言って出て行き、その農夫に毎年大収穫を与えるのです。農夫は自分のぶどう園を大きくし更に収穫を上げて沢山の良いブドウ酒を造り、毎年の大収穫にすっかり気分を良くして次第に毎晩のようにそのブドウ酒を飲んで暮らすようになりました。そうしていつの間にかこの農夫は豊かさの中に溺れて、働く必要を感じなっていきます。そしてこの農夫はしまいには働く喜びを忘れ、毎日ブドウ酒に酔いしれ、いつの間にか自分の人生を見失うことになるのです。

 私には、トルストイが描くこの小さな物語は、富める者の不幸を教えているように思えるのです。

 福音記者ルカは富める者や満腹している者の「不幸」を宣言する主イエスを描いています。

 その宣言の箇所であるルカによる福音書第6章24節に注目してみましょう。

 「しかし、富んでいる人々。あなたがたに災いあれ。あなたがたはもう慰めを得ている。」

 この言葉は、「嘆かわしや。金持ちのあなたがた!」とも訳せます。

 主イエスは、この個所で、富める者や満腹する者が自分の恵まれた現状に安住し、かえってその富に溺れたり自分中心になって神の御心を軽んじる事に対して、深い嘆きや憤りを表しておられます。

 こうした視点をもって今の世界の情勢を眺めてみるとき、このみ言葉は軍事力で他国に入り込んでその富を奪い多くの人に貧しさを強いている姿と重なってきます。そして、主イエスはそのことを憤り、嘆きを顕わにしておられるように思えてきます。今、地球資源の9割を1割の富んだ国の人が消費し、残りの1割を地球の9割の人が少しずつ分け合っていると言われています。

 私たちは今日の聖書日課福音書から、この時代を生きていくために何を受け止めるべきなのか、少し見えてくる気がします。

 金銭や食べる物に満ち足りて笑っている者は、自分がそれ以上になお豊かになることにしか目を向けられず、いつしか神とつながる絆を欲望によって切断してしまったと例えられるように思います。そして、豊かで満ち足りている人ほど神を忘れ、自分を過信し、悪に対して無防備になり、自らそれと気付かないうちに悪の虜になり、貧しい人々から奪い取っていることに気付く感性も奪われてしまいます。そして、物を豊かに所有する人間は、豊かである自分を誇って神とつながる細いパイプの詰まりを一層ひどくしてしまうほどに嘆かわしい姿になっていることを主イエスは警告しておられるように思われます。

 主イエスは、弟子たちもまた私たちも自分の力を頼みとしてはそのように罪から逃れられない事をよくよくご存知だったのでしょう。他の人を出し抜いてでも奪ってでも、自分が豊かであろうとするところに人の深い罪が現れてくる事を主イエスは知っておられました。そして、主イエスはそのような罪人である私たちに代わって罪人の行く末である十字架の死を引き受けて下さったのです。

 私たちは豊かさに隠された自分の弱さや貧しさを知って認めることが出来るとき、その弱さや貧しさのためにひび割れてしまった土の器の割れ目から、主イエスの赦しの恵みが湧き出てくる事に気付くことが出来ます。

 悪魔の誘惑は色々な所に巧妙に仕掛けられており、とりわけ物的な富を得る中にその誘惑は仕掛けられていることに気付きたいのです。

 富める者や満腹する者の不幸を宣言する主イエスの御言葉を深く受け止め、私たちの信仰を絶えず問い返し、物の豊かさへと導かれるのではなく、神の御国を求めて主イエスに従う思いを日々新しくされて参りましょう。

posted by 聖ルカ住人 at 05:35| Comment(0) | 説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする